花を産む さかもと園芸の話 その13 佳子さん

最初の清子さんこそ生後間もなく亡くしたが、正次さんと久美子さんはそのあと3人の子宝に恵まれた。花作りは正次さんが生涯をかけて取り組んだ事業である。心の内では、3人のうちの誰かに引き継いで貰いたいと願っていたかも知れない。だが、そんな思いを口にしたことは1度もない。親を含めた周囲の反対を押し切って花作りを選んだ自分の人生を考えれば、親の思いを子どもに押しつけることはできないと割り切っていたのかも知れない。

3人の子供たちは、黒保根でスクスクと育った。長女の佳子さんはモダンアートに惹かれ、米国留学に旅立った。いま長男は教師の道を選んで足利市に居を構え、高知市に嫁いだ次女は薬剤師である。さかもと園芸は、正次さん、久美子さん1代限りの事業になるはずだった。

しかし、人生、一寸先は闇である。いや、坂本さんたちに限れば一寸先は希望だったと言える。いま、佳子さんが留学先のアメリカで知り合ったチャイさんと結婚し、夫婦で花作りを引き継いでいるのである。
さかもと園芸は第2世代に入った。

黒保根で育った佳子さんは東京家政大学服飾美術学科に進んだ。

「いいお嫁さんになるために」

である。ところが、在学中からモダンアートになぜか心が動き、とにかく突き進もうとアメリカに渡った。1999年のことだ。英語は大の苦手だったが、

「行けばきっと話せるようになる!」

とシカゴに向けて飛び立ったのは、若さの特権だろう。

チャイさんはラオスの首都ビエンチャンで生まれた。父は実業家で、兄と姉、それに弟がいる。祖母がいたタイの小学校を出て、タイ・バンコクの高校に進んだ。大学に行こうと考えたが、ラオスには1校しかない。とはいえ、バンコクの大学には関心が持てなかった。そこで、叔父がいるアメリカに渡り、オハイオ州立トレド大学に入った。建築をまず選んだが、途中でつまらなくなりコンピューター学び始めた。

トレド大学のキャンパスに語学学校がある。様々な国からアメリカに学びに来た学生たちが、まず英語を身につけようと通ってくる。その1人に佳子さんがいた。

世界中からの学生が集まっている。そんな環境でアジアからの留学生がグループを作るのは自然な流れなのかも知れない。その中に佳子さんとチャイさんがいた。渡米したばかりの佳子さんはほとんど英語が話せなかった。ジェスチャーと電子辞書しか共通言語がなかったのに、なぜか若い2人が友情以上の思いを抱くようになったのは赤い糸が2人を繋いでいたからだろう。

花を産む さかもと園芸の話 その14 世代交代

得意な英語で花作りの基礎を学び、さかもと園芸で義父の仕事を手伝う、はずだった。

「でも、英国での勉強、ちっとも役に立たなかったね。英国はガーデニングの国。授業でやったのは花の名前と、あとは庭造りの基本ぐらい。コンピューターで庭のデザインもやらされたよ。どれもさかもと園芸の仕事とはほとんど関係がない勉強ばかりだったね」

1年の留学を終え、黒保根に戻った。正次さんの手伝いをしながら、正次さんから花作りの基礎を学ばねばならない。
さかもと園芸に来ていた日本人の研修生と一緒に、正次さんの「授業」を受け始めた。

花には雄しべと雌しべがあり、光合成で栄養素を創り出す。肥料の管理が大事で、それには……。

「私、日本語あまりできないから、佳子さんに通訳、頼んだよ。でも、佳子さんも花のことは知らない。知らないことは通訳できないだから、私もあまり理解できない」

そもそも花にはあまり興味がないことも理由の1つだったろう。学習は遅々として進まなかった。このままでは、さかもと園芸の足を引っ張ることになりかねない。

考えあぐねたチャイさんは、オランダに研修に行こうと思い立った。園芸大国と呼び習わされるオランダで園芸を基本から学んでみよう。オランダなら、英語が生きるはずだ。

チャイさんは

「1、2年もやってダメなら他のことをすればいいさ」

と考えて園芸の道に入った。一見、軽薄な人生観の表明の表明にも聞こえるが、決してそうではない。
チャイさんによれば、ラオスとアメリカには共通する人生観がある。失敗を恐れないことだ。目の前にある目標に全力で挑む。失敗するリスク? そんなものを考える必要があるか? 挑んで叶わなければ、次の目標を作って再び挑めばいい。それを「チャレンジ・スピリット」という。
チャイさんの「1、2年」とは、失敗を恐れずに挑戦する期間のことなのだ。失敗しても後悔しないためには、全力でぶつかるしかない。

チャイさんは考えた。オランダは花作りの自動化、大量生産技術で一歩先を進んでいる。オランダの最先端の花作り農園で働いてノウハウを蓄積しよう。黒保根に戻ったらビニールハウスをできるだけ自動化し、各種のロボットも取り入れる。そうすれば、花作りも土を相手にした「農業」ではなく、マネジメントの優劣が経営を左右する「事業」になるはずだ。アメリカで最後に学んだのは経営学だった。その知識をさかもと園芸で活かせないか。

花を産む さかもと園芸の話 その15 必死に学んだ

振り返ってみれば、正次さんと久美子さんもゼロからの出発だった。2人になかったのは生産設備である。土地もなく、ビニールハウスも給水施設も何もないところから2人は歩みを始めた。だが、園芸の知識は大学の4年間、谷澤農園での3年間、身につけられるものは総て身につけていた。

チャイさんの前には、正次さんたちがたった1棟から6棟にまで増やしたビニールハウスがあった。給水施設も整い、生産システムも出来上がっている。安定した取引先もあり、何より、オランダのフロリアードで2回連続の最高賞に輝いた高い評価があった。これほど恵まれたスタート地点は、望んでも与えられることは希だろう。

しかし、チャイさんと佳子さんには肝心要のものが欠けていた。花作りのノウハウである。それがなければ6棟のビニールハウスは単なるがらんどうと変わらず、蓄積された生産システムは役に立たないマニュアルに過ぎない。

花を作り、育てるとはどういうことなのか。総ての出発点となる知識が、チャイさんにはなかった。英国に留学したが、ほとんど役に立たなかった。義父を講師にした勉強会では何を学んだのだったか……。

「はい、だから僕、それから一所懸命勉強しばければならなかった」

正次さんの病状は重かった。意思疎通ができない。正次さんも、30年以上の実践で積み上げた沢山の知識を次の世代に伝えたいに違いないのに、言葉が出ない。

正次さんはたくさんのメモを作っていた。しかし、片言隻句の集まりだから、正次さんの役にはたっていたのだろうが、周りの人たちには整理しなければ意味が通じない。しかし、久美子さんにも佳子さんにも、メモを整理できるだけの知識はなかった。

比較的に整理されていたのは、土作りだった。アジサイ、シクラメンのそれぞれの種類について、どんな成分をどの程度混ぜた土にすればいいのか、様々な失敗例も隠さずに記録されていた。しかし、それだけでは間に合わない。その土に、どんな肥料をどんな比率で混ぜたらいいのか。水をやるタイミングをどう測るのか。毎年変わる気候への対処法は。知れねばならないことは山ほどある。

花を産む さかもと園芸の話 その16 チャイ式

1年目。理解できた限りで正次さんの仕事を忠実になぞった。だが、作業を始めて見ると、分からないことが次から次に出てきた。加えて、仕事の段取りにも戸惑った。目が回るほどに忙しいのに、仕事が追いつかない。

「だから、冬用に準備していたシクラメンの苗木の半分を、同業の方に買っていただきました。それにアジサイの挿し木もしなければならなかったのですが、これも半分に減らさざるを得ませんでした」

と佳子さんは振り返る。さかもと園芸の総てを取り仕切ってきた正次さんの存在の大きさを改めて思い知らされた。

だが、泣き言を言っている暇はない。チャイさんと佳子さんは仕事の手順を見直しつつ、次の年の準備に追われた。まだ正次さんのレベルにははるかに及ばない。シクラメンもアジサイも、正次さんの時代の7割ほどの数に抑えた。まだ生産量は追いつかないが、咲いた花は美しかった。

そして3年目。思い切って生産量を正次さんの時代と同数にした。

「あの年は失敗だったよ」

とチャイさんは振り返る。花の質がガタンと落ちたのである。花の病気に見舞われたのだ。

花は生長に応じて大きな鉢に移し、花と花の間隔を広げていかねばならないことは知識としては分かっていたが、いざやろうとしたらスペースがなかった。成長時期をずらし、早く咲いた花から出荷してスペースを空ける知恵がなかった。やむを得ず、密植にしてしまったことが病気の原因らしい。年間の生産計画、作業スケジュールを見直さなければならない。

花を産む さかもと園芸の話 その17 フラワー・オブ・ザ・イヤー

「やっぱり自分の花が作りたい」

チャイさんがそう思いだしたのは、経営を受け継いで4年目のことである。まだ生産は安定しなかった。しかし、それまでの3年間、生産を安定させるために工夫を繰り返し、どこを改良しなければならないかは見え始めていた。それさえやり遂げれば、あとは同じ作業を毎年繰り返すだけになる。それは退屈だ。
それに、正次さんからこの事業を受け継いだ以上、少なくとも正次さんと同じレベルに立たねばつまらないではないか? 正次さんが新種を作りだしたのなら、僕も、誰も持っていない花を作りたい!

正次さんが、掛け合わせの結果を思い描きながら原種を選んで掛け合わせる慎重派だとすれば、チャイさんは

「やってみなければどんな花が出てくるか分からないだろ?」

と無駄を厭わず、思いつく限りの品種を掛け合わせてみる行動派といえる。正次さんはたった2つの品種から「ミセスクミコ」を産み出した。チャイさんは30数種類のアジサイ原種を思いつくままに選び、交配した。2011年春のことだった。
11月には種が取れ、翌春蒔いた。沢山の種からどんな花が咲くのか。全く予想がつかないまま、2013年春、さかもと園芸のビニールハウスで、新種の花が一斉に咲きそろった。

チャイさんは、咲きそろった新しいアジサイの手入れに熱中した。日に何度となく水をやる。そんなある日、不思議なアジサイに気がついた。

「ねえ、佳子、これは裏側にあるはずの本当の花も大きく咲きだしているよ。見て、見て」

違いはそれだけではなかった。

「佳子、ちょっと見てみてよ。ほら、これとこれ、昨日までは白地をパープル、ピンクのラインが縁取っていたのに、ほら、色の付いたところが広がっているんじゃない?」