花を産む さかもと園芸の話 その18 変化

正次さんは花を育てることに総てを賭けた。ビニールハウスの設備には身の丈を超えた力を注いだ。同業者に先駆けて導入しただけではない。これ以上ないほど細かく制御できるようにし、

「これ、園芸試験場並みの設備ですね」

と皆が驚くシステムにしたのである。愛する花が生まれ育つ場所なのだ。より快適な環境でスクスクと育って欲しいと願った。

ビニールハウスの天窓は自動開閉式である。温度や湿度、雨、風をセンサーで読み取り、必要があれば自動的に開き、閉じた方が良い環境では閉じる。

ビニールハウスの温度も自動設定だ。冬場、ある温度より下がれば自動的にボイラーに火が入り、温める。

プールベンチも導入した。成育中の鉢を並べる沢山の台に縁をつけ、中に水がたまるようにした。これがプールベンチだ。1箇所から水を入れれば総ての鉢に水を給することができる。個別管理のため、それぞれの鉢にチューブを挿して吸水するチューブ灌水設備も備えた。

スプリンクラーも取り付けた。上から水を振りかけたいときはシャワーのように水が降り注ぐ。

久美子さんに言わせれば

「ええ、新しいものが大好きで。設備の営業に来た人にはなしを聞いて、花に良さそうだと思うともう止まらないんです。まるでおもちゃ屋に行った子どものようでした」

あまりのお金が出ていくので、久美子さんが反対したこともある。

「そんなに高いものを買ったら、今月、来月の暮らしができない、って耳に入らないんです。何とかなるだろ、って。だから、うちの台所はいつもピーピーでした」

チャイさんが引き継いださかもと園芸は、花に取ってみればこれ以上はない生育環境を備えた快適な場所だった。

だが、仕事の全体像が分かるようになって、チャイさんが困惑したことがある。

「相手が花という生き物だから、ここを離れるに離れられないことね」

正次さんの暮らしは花を中心に廻っていた。土曜も日曜もない。できることなら、四六時中花のそばにいたい。久美子さんは、そんな正次さんを敬愛し、いつもそばにいた。

「だけど、僕たちの生活は?」

花を産む さかもと園芸の話 その19 再びフロリアード

チャイさんは様々な花のコンテストに応募し、出すたびに数々の賞を得てきた。
だが、まだ手にしていない賞がある。フロリアードの最高賞である。

正次さんは1992年、2002年と2回連続で最高賞に輝いた。10年に1度開かれるフロリアードの次の開催年は2012年。すでにチャイさんがさかもと園芸を引き継いだ後である。だが、この年の受賞者一覧には、さかもと園芸の名はなかった。フェンロー市で開かれたフロリアード2012に、さかもと園芸は出展していなかったのである。

「なんだかね、役所の方に声をかけていただいたのが始まる半年前ぐらいだったかしら。今回も出して欲しいといわれたんだけど、準備期間を考えると、とても間に合わなかったものだから止めたんですよ」

と久美子さんはいう。東日本大震災が引き起こした大きな災害で日本中が動転していた時期である。役所の対応にも遅れが出たのかもしれない。

さかもと園芸は3回連続最高賞の機会を逃した。いや、2012年といえば、チャイさんが経営を引き継いで悪戦苦闘していた時期だ。まだ育種は手がけていない。
正次さんが育種し、フラワー・オブ・ザ・イヤーに輝いた「フェアリーアイ」というアジサイの新種はあった。「フェアリーアイ ブルー」は八重に咲きそろうガクが透き通るようなブルーに色づき、夏場になると黄緑色に変わる。思わず引き込まれるような深いブル−が印象的な「ブルーアース」も準備はできていた。しかし、どちらもフロリアードの開催時期に合わせて作り出した新種ではない。だから、出展しても受賞は逃したかも知れない。
しかし、機会を逃してしまったという後悔は、チャイさんの胸にある。

「いい花を作れば売れる」

と言い切って賞には全く関心を持たなかった正次さんとは違い、チャイさんは積極的だ。人一倍名誉欲が強いというわけではない。日本の花の市場は「賞」を高く評価する。受賞すればより高い価格で売れる。経営者を自覚するチャイさんにとって、さかもと園芸に利益をもたらしてくれる「賞」は無視できないのである。

そして、個人的な思いがある。

日本に住み着いたチャイさんは、それでも「外人」である。外見の違いは一目で分かるし、日本語も会話に困るほどではないが、流ちょうとはいえない。
だからだろう。

「日本に来た最初は、それほど強くではないけど、ああ、『外人』って見られてるなと思った」

差別、とまではいわないが、ある違和感を持たれているとの思いが消えなかった。

「それが、たくさん賞を取ったらなくなったね。いまはどこに行ってもrespectされていると感じるよ」

街の灯 「PLUS+ アンカー」の話 その1 街を照らす

喜劇王という尊称で形容されることが多いチャールズ・チャップリンだが、彼が創りだした映画は決して喜劇だけではない。

1940年、ドイツで台頭したナチスを率いるアドルフ・ヒトラーを戯画化してみせた「独裁者」は、まだ米国が第二次世界大戦に参戦する前に劇場公開された。ナチスに抑圧されるユダヤ人に寄り添い、強大なナチス政権に真っ向から戦いを挑むこの映画は、喜劇でありながら政治的プロパガンダでもある。そして、人間愛を歌い上げ、返す刀ですべての人の心の奥底には独裁者になる芽があることを描き出す視線も併せ持つ。

1952年作の「ライムライト」では、誰にも避けることができない「老い」と向き合った。老いてうらぶれた道化師と、一度は将来に絶望して自殺を試みた若きバレーダンサーの恋物語である。老いらくの恋は成就するのか、いや、成就させていいのか。道化師に支えられながら華やかなデビューを果たしたダンサーを舞台の袖で見やりつつ死出の旅に出る道化師を、チャップリンはおそらく自分と重ねながら美しく描き出した。

そんなチャップリンの作品の一つに「街の灯」がある。公開されたのは1931年。2年前の株価大暴落の影響が癒えず、大不況さなかにあるアメリカが舞台だ。

チャップリンの役柄は浮浪者。今日の暮らしさえままならない彼はある日、街で出会った盲目の花売り娘に一目で恋をする。その時、タクシーが走り去った。目が見えない彼女は、この浮浪者を

「タクシーに乗ることができるお金持ちなんだ」

と誤解する。そして浮浪者は、その誤解を利用して彼女の心を捉えようと奮戦するのである。
彼女への思いは日々募るばかりだ。募った思いは

「何とか彼女の目が見えるようにしてあげたい」

という願いに育った。いや、待て。彼女に視力が戻れば自分が浮浪者であることがばれてしまうではないか? それでいいのか?
しかし、彼女への思いにそんな打算が入り込む余地はなかった。チャップリンが悪戦苦闘の挙げ句に工面した手術費用で、彼女は視力を取り戻す。ある日、目が見えるようになった彼女の前に浮浪者が現れた。彼女の目には、襤褸をまとった可愛そうな浮浪者の姿しか見えない。この浮浪者が目を治してくれた「彼」だと気がつくはずもない。

そして……。

街の灯 「PLUS+ アンカー」の話  その2 ふみえさん

「カフェをやりたい」

と最初に思いついたのは、不動産会社アンカーの副社長、川口雅子さんだった。雅子さんは、社長である貴志さんの妻である。

といっても、社長夫人の趣味、道楽でオシャレなカフェのオーナーになりたいと思ったのではない。ましてや、副社長の仕事として、不動産業営業の新形態、別働隊としてのカフェをつくろうと戦略的に考えたのでもない。
ある日、

「まちのお年寄りたちが気楽に立ち寄れる場所があったらいいなあ」

という思いがふと浮かび、思いに背中を押されて計画に着手した。
そんな思いにとらわれるまでには、短い歴史があった。

桐生市の本町通り沿いに、3階建てのビルがある。そのオーナーが、武士ふみえさんだった。
雅子さんが知り合ったときはすでに89歳。ご主人はとっくになくなり、一人息子にも先立たれた独り暮らしだったが、このビルの1階を賃貸し、その収入で経済的には不自由のない暮らしをしていた。
しかし、波風はあらゆる人の人生につきまとう。ある日、賃貸契約が解消され、テナントが出て行ったのだ。

家賃収入がなくなった。暮らしを維持するには新しい入居者を探し、賃貸借に伴う物件の管理、家賃の徴収もせねばならない。しかし、ふみえさんは普通の主婦しかやったことがない。専門的な契約の話なんてどうしたらいいのか見当もつかない。困って親戚筋の病院長に相談し、そこで紹介されたのが不動産会社アンカーだった。こうして、雅子さんはふみえさんに出会った。2006年のことである。

街の灯 「PLUS+ アンカー」の話  その3 介護施設

探した。しかし、なかなか見つからない。介護施設は、心身ともに健康なお年寄りの受け入れには後ろ向きなのだ。健康なお年寄りの方が受け入れやすいだろうと思うのだが違った。

それでも東京近郊にまで範囲を広げれば、ふみえさんのように元気なお年寄りを受け入れる高齢者マンションなどがたくさんある。ふみえさんにはピッタリなのだが、残念ながら桐生にはない。かといって東京に引っ越したら、親戚や友達となかなか会えなくなる。それもふみえさんの年齢では辛いだろう。

探しあぐねているうちに、ふと思いついた。不動産会社アンカーの本社が入っているマンションにたまたま空き部屋があったのだ。

「ここに入ってもらったらどうだろう?」

2人はそのマンションへの入居を勧めた。高齢者用に特化したマンションではないが、桐生市菱町に住んでいた雅子さんは、午前9時前には1階にあるアンカーの事務所に出る。

「このマンションならエレベーターもあるし、何かあったら私がすぐに行けます。ここで暮らしませんか?」

ふみえさんに話したらたいそう喜んでくれた。引っ越しはそれから間もなくの2011年暮れのことである。

こうして、ふみえさんと

「味噌汁の冷めない距離」

になった雅子さんは、ますますふみえさんの魅力を知ることになる。