花を産む さかもと園芸の話 その7 交配の結晶

花が米粒大のアジサイの種の大きさはどの程度だと想像されるだろうか?
筆者は黒保根のさかもと園芸で見せていただいた。想像を絶するサイズだった。

「ええ、正次さんはよく、こんな説明をしていました。白い紙に芯を尖らせた鉛筆を1回だけ押しつける。その時に紙に出来た点が種の大きさだと」

米粒大の花から取れる種である。しっかりすりつぶしたすりゴマの大きさ程度にしかならないのだ。

そして11月。2人は種を宿したらしい実を採取した。付け根の当たりがぷっくり膨らんでいる。いかにも子どもを宿していそうな形である。これを乾燥させる。
乾燥したら、紙の上で揉んでやる。種が紙の上に落ちるはずである。

「ところがね、殻も小さく砕けて一緒に落ちてくるでしょ。種なのか、それとも殻のくずなのかの見分けがつかなくて」

そして、小さいから軽い。文字通り、吹けば飛んでしまう軽さである。

「ほら、もう11月でしょ。夜の作業だから手が冷たくなったりする。でも、息を吹きかけて温めたりは出来ないの。種が飛んでしまうからよ。それこそ息を詰めてやらなければいけない作業なんです」

小さじ一杯にも満たない種「らしき」ものが採れた。これは本当に種なのか? 期待した通りの花を咲かせてくれるのか?
交配はまだ緒に就いたばかりである。

この種「らしき」ものを翌年の春先に蒔いた。2ヶ月ほどで芽が出た。だが、これはアジサイなのか? それともアジサイは芽を出さず、ほかからか飛んできた雑草の種が芽を出しただけなのか?
アジサイの育種はこれが日本初なのだ。アジサイは挿し木でしか増やしたことがない日本では、芽だけでアジサイかどうか判断出来る人はほとんどいない。それに、幸いアジサイだったとしても、狙い通りの花が咲く保証はどこにもない。

「アジサイが花をつけるのは芽が出て翌年の春です」

つまり、交配の結果を目にするには、2年もかかるのだ。

その年、2人が手がけたアジサイはみごとに待ちに待った花をつけた。濃いピンクがあった。白に近いものもあった。それらに混じって、狙っていた桜のような薄いピンクの花を咲かせているものもあった。

出来た、万歳!

花を産む さかもと園芸の話 その8 ミセスクミコ

創り出した花を商品にするにはいくつかの準備がいる。
1つは市場関係者の反応を見ることである。創った自分は大変気に入っているが、市場は受け入れてくれるだろうか?
東京の花市場の職員や生産者仲間に見てもらった。

「これは……。見たこともないアジサイだ。しかも色がいい。花弁の切れ込みも面白い。何より花弁が見たこともないほど大きい。きっと全国で歓迎されるよ」

市場受けは良さそうだ。であれば、次は名前をつけよう。西洋では様々に交配されたアジサイはそれぞれの名前を持つ。名前があった方が親しみがわくだろうし、何より丹精込めて生み出した新しいアジサイなのだ。名前をつけてやりたい。

色は桜色である。であれば女性だろう。ミスか、ミセスか。桜色の花はミスと呼ぶには﨟長けている。やっぱりここはミセスだろう。

ではミセス○○として、○○には何が相応しい? 語呂も良くなくてはいけないし。
10個ほどの名前を考えた。残ったのが「クミコ」である。
まず、家族の名前を考えた。となれば真っ先に浮かぶのが「クミコ」である。愛妻の久美子さんと力を合わせて生み出した花なのだ。

「それに、当時は秋吉久美子さんの人気が絶大で、ええ、主人もファンでした。それで、やっぱり多くの人に親しまれている名前がいいだろう、と思いまして」

ミセスクミコ

名前も決まった。語呂もいい。さあ、出荷するか。
待ったをかけたのが群馬県農業技術センターである。

「坂本さん、アジサイは挿し木で増えるのだから、市場に出したら勝手に作る業者が出てくるかも知れない。これはパテントを取っておいた方がいいですよ」

さかもと園芸の話 その9 フロリアード

チューリップで名高いオランダは、花の国とも呼ばれる。そのオランダで10年に1回、開催都市を変えながら開かれる国際園芸博覧会「フロリアード」は花のオリンピックとも呼ばれる。

4回目に当たる1992年の開催都市はハーグとズーターメア市だった。世界26カ国から出展があり、4月から10月までの開催期間中、336万人が訪れたと記録にある。

「こんな大きな花をつけたアジサイは見たことがない!」

公式のオープニング行事に出席したベネトリクス・オランダ女王が思わず感嘆の言葉を漏らしたのは群馬県のブースでのことだった。女王の目は、さかもと園芸が出品していた「ミセスクミコ」に釘付けだった。現地の新聞も、この情景を記事に取り上げた。

何度も逸話をご紹介した通り、正次さんは欲が薄い人である。金についても

「食べていければいい」

という人だから、ましてや名誉などには全く目を向けない。ただただ、花を立派に育て、自分の思い描く花を産み出したいと園芸に取り組む人である。
だが、実績が積み重なるにつれて、周囲が放っておかなくなった。各種の展覧会に群馬県から出展を求められ、様々な賞をもらった。1983年に開催された第38回国民体育大会(赤城国体)では、

「メイン会場(現在の正田醤油スタジアム群馬)に、花で国体マークを作って欲しい」

と群馬県の依頼を受けてみごとにやり遂げた。久美子さんによると、

「どこに出しても、何をやっても『こんな賞をもらったぞ!』なんて絶対にいわない。今度も何とか期待にこたえられた、と胸を撫で下ろしている人です」

花を産む さかもと園芸の話 その10 金賞

「こんな大きな花をつけたアジサイは見たことがない!」

ベネトリクス女王の驚きは、審査員たちの驚きでもあったのだろう。フロリアード1992でひときわ華やかだった群馬県のブースは高い評価を受けた。竹で編んだドームのデザインが金賞を得た。そして、ベネトリクス女王の目を輝かせたさかもと園芸のアジサイから、「ミセスクミコ」が選ばれて、これも最高賞である金賞を受けたのだ。
正次さんの目は、決して身びいきで曇ってはいなかったのである。

前にも書いたように、アジサイは日本原産である。だが、品種改良が進められて様々な新種を創りだし、「本場」を誇ってきたのは西洋だった。その西洋のオランダで開かれた国際展示会で、アジサイの原産地である日本の坂本正次さんが、原産地の意地を見せた画期的な受賞だった。

「きっと」

と久美子さんは語る。

「西洋のアジサイって、あまり手をかけなくても作ることができるものが多いんです。育種の段階から自立するものが選ばれている。それに比べて正次さんは花が咲いたときの形の美しさにこだわりました。その結果、生育途中は支柱で支えてやらなければ立っていられない種もできたんです。だから手間がかかります。いってみれば、私たちのそんな繊細さが評価されたのではないでしょうか」

フロリアード事務局から賞状を受け取った。受け取ったのはそれだけである。賞金も賞品もない。いわば、名誉だけが与えられる賞である。
それでも、日本の花業界は湧いた。

「店頭に『ミセスクミコ』を並べるとき、『フロリアード1992金賞受賞』ってパネルを出しましょうよ」

という人がいた。正次さんは激しくかぶりを振った。

「俺は嫌いだ。絶対にやらない! そんなことをしなくったって、分かってくれる人は分かってくれる。それでいいんだ!」

花を産む さかもと園芸の話 その11 シクラメン

アジサイとともに正次さんが経営の主軸に据えたのが冬の花の王ともいわれるシクラメンだった。修行したのがシクラメンを育てている谷澤農園だったから、自然な選択でもあった。それに、シクラメンは、クリスマス向けの出荷が中心である。春から初夏の花であるアジサイと組み合わせれば、ビニールハウスを1年間、効率的に使うことができる。

シクラメンは手をかければかけるほどいい花ができるといわれる。「葉組み」といわれる作業を繰り返すのである。

シクラメンは球根から葉や花の茎を伸ばす。何もしなければ、葉や花は勝手な方向に向かってしまう。これを、花は真ん中に、葉はその周囲に広がるように整える作業を「葉組み」という。葉を外側に、花は中心部に集めることが多い。

数千鉢も並んでいるビニールハウスで、1つ1つの鉢にこの作業を繰り返す。花が付いた茎を中心に寄せ、葉の付いた茎を上手く回して花の茎が元に戻らないようにする。また、葉の付いた茎も右と左、上と下を巧みに入れ替えて全体の形がまとまるようにする。これを出荷までに5会も6回も繰り返す。この回数が多いほど姿形が整い、高い評価を受けるシクラメンになる。

「ええ、最初は正次も、日本一のシクラメンを作ってやるって意気込んでいました。でも、うちのような経営形態では無理なんですね。小規模で家族労働だけでやっているところなら夜なべ仕事でもできるでしょうが、パートさんにもお願いしなければやっていけないうちの規模では、そこまでの手はかけられないんです」

そこで挑んだのが種取りだった。シクラメンは種から育てるのが普通だが、種を蒔いても同じ花をつけたシクラメンが揃うとは限らない。花弁の形が違ったり、様々な色が出たりするのが当たり前だった。そうしたバラツキをできるだけなくそう。発色をもっと良くしよう。信頼のできる、いい種を作ろう。
種を取り、育てる。狙った花弁の形、色、丈夫さなどを備えたものだけ残し、また種を取る。こうしてバラツキのないシクラメンの種を取ろうというのである。

「坂本さんの種は実に安定している。素晴らしい!」

と高く評価したのが日本たばこ産業(JT)アグリ事業部だった。さかもと園芸でできたシクラメンの種を買い取り、生産者向けに販売するようになった。

「一時は、国産のシクラメンの種の1割を、うちの種が占めていました」