桐生を誇りたい! アマチュア史家・森村秀生さん 第18回 桐生は聖なる町である

前回まで、森村さんが発掘してきた桐生誕生の姿を綴ってきた。ジグソーパズルに例えれば、何となく全体の姿は浮かび上がってきた。20年にわたる研究の成果である。
だが、まだ見つからないピースがある。

・桐生新町にお稲荷さんで描かれた斜めの線はいったい何なのか? 
・桐生の恩人でありながら極悪人とされた大久保長安の実像は?
・山王一実神道の実像は?

それは森村流でいえば、セレンディピティを待つしかない。

では、これまでに手に入ったピースをつなぎ合わせて浮かび上がった、生まれ落ちたばかりの桐生新町はどんな姿・形をしていたのだろう?

まず、桐生新町の町立ては1604年に始まった、というのが森村さんの見方である。根拠は村上直・法政大学名誉教授(故人)の研究資料から見つけた初鹿野加右衛門の記録だ。初鹿野加右衛門は町立てを現場で指揮する技術者で、桐生新町の町立てにも汗を流したと伝わる。その初鹿野加右衛門は17世紀初頭、大久保長安の配下として奈良に駐在していたが、下の表に見るように慶長9年(1604年)だけは奈良にいないのである。

中坊奉行衆一覧
年号 奈良在住の長安下代衆
慶長5年

(1600)

大久保藤十郎 初鹿野加右衛門
慶長6年 大久保藤十郎 初鹿野加右衛門 中坊秀祐
慶長7年 初鹿野加右衛門 吉村米介 三王五郎右衛門 原田二右衛門

中坊秀祐 北見勝忠 豊嶋忠次

慶長8年 初鹿野加右衛門 原田二右衛門 北見勝忠
慶長9年 原田二右衛門 吉村米介
慶長10年 初鹿野加右衛門 原田二右衛門 大久保藤十郎

「桐生新町の町立ての日程には3つの説があります。この1604年説はその3説には入っていないのですが、町立ては事務官僚ではできません。町立ての技術者だった初鹿野加右衛門がこの年、桐生に来ていたと考えれば辻褄が合います」

町立てがお稲荷さんを目印に使って進められたに違いないことはすでに書いた。しかし。何の必要があって、渡良瀬川と桐生川に挟まれた扇状地に新しく町を作る必要があったのか?

「日光東照宮に至る山入りの地、としてここが重要だったからです。天海僧正は天台宗の僧でもあります。天台宗で最も苛酷な修行は険しい山道を1000日歩き続ける『大峯千日回峰行』です。天台宗では山を歩くことは神聖な行為なのです。それを考え合わせると、徳川家康と天海僧正は、聖なる山中に入る入口、日光東照宮に至る入口、聖なる町として、桐生新町を作ったと考えれば、桐生が何故徳川家に厚遇されたのかなど様々な疑問が氷解します。徳川家康はこの地を『安楽土』にしたかったのではないでしょうか」

その上で森村さんは、家康の亡骸を運んだという天海僧正の足取りを想像してみた。

「桐生が山入りの地だとすると、ここから山道を通ってみどり市の覚成寺に行ったはずです。桐生市の吾妻山の中腹には下権現と呼ばれるところがあり、頂上を上権現といいます。上権現には吾妻権現という小さな神社がありました。天海僧正が大権現である家康の亡骸をお守りして通ったから、権現の名が残ったのに違いありません」

日光東照宮に至る、聖なる山道の入口。だから桐生は「特別な町」だと森村さんは自慢するのである。

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2013年、東京・府中の大国魂神社(おおくにたまじんじゃ)で1本の太刀が見つかった。桐生新町の町立てを現場で指揮した大野八右衛門が死の前年、慶長18年(1613年)に奉納したものである。翌2014年は八右衛門没後400年だった。この年、桐生市で開かれた桐生町立て祭にこの太刀が貸し出され,1日だけ公開された。

この太刀は、何故か「御蛇丸」と名付けられ、いまでも「御蛇丸」として大国魂神社に所蔵されている。

「御蛇丸? それは違うのではないか?」

と言い出したのは、森村さんである。聞くところによると、やたらと長い刀だからこの名がついたという。

 「でもね、この太刀の名は茎(なかご=刀身の柄の中に入った部分)にちゃんと書いてあるんですよ。誰も気が付かなかったのかな」

その茎に刻まれた文字は次の通りである。

奉納武州惣社 六所大明神𠝏
願主當國之住 大野八右衛門
    一男 八郎兵衛尉

「どうです? この太刀の名前は『六所大明神𠝏』と明記してあるじゃないですか」

そして、刀身に刻まれていた銘文も森村さんの注意を惹いた。

諸佛救世者 住於大神通 為悦衆生故 現無量神力 如我昔所願 今者己満足

前の4句は法華経の有名な一節である。現代語に訳すれば

「世の人々を救おうとする諸々の仏たちは、偉大な神通力を持っており、みんなを悦ばそうと、計り知れないほどの神通力を現された」

とでもなろうか。仏への感謝の気持ちを表したくて法華経を引いたのだろう。
太刀を奉納した大野八右衛門の気持ちは。最後の2句である。森村さんはこんな訳を付けた。

「私が昔から懐いていたこのような願いをいま成し遂げたのだ。私の心は悦びに満たされている」

奉納の時期から見て、「昔から懐いていたこのような願い」とは桐生新町の町立てを指しているのに違いない。大事業を無事に成し遂げた安堵、悦びが伝わってくる言葉だ。

「私はこのようにして産声を上げた桐生で生まれ、育ちました、どうです、桐生ってすごい町でしょ?」

ふるさと桐生は、森村さんの誇りなのである。

写真:裏の畑で作物を育てる森村さん

桐生を誇りたい! アマチュア史家・森村秀生さん 第17回 鹿沼、空白の4日間

覚成寺はいまでもみどり市大間々町の中心街を外れた山地にある。覚成寺を訪れた森村さんは、もう一つの看板に気が付いた。「覚成寺の歴史」とあり、その中に

「古い時代、この覚成寺は現在地より西北の山中深くにあったが、明治四十五年(一九一二)現在地に移転されたものといわれる」

とあった。
だとすると、天海僧正が家康の亡骸を持って辿ったという「裏街道」は、山中の道だったことになる。天海僧正の生年ははっきりしないが、もっとも有力とみられている天文5年(1536年)だとすると、この時80歳前後である。一説によると天海僧正は108歳まで生きたという長命の人だ。だが、他に勝る体力があったとしても、いまでいえば後期高齢者である。山路は辛かったはずだ。わざわざこのルートを選んだのには訳があったに違いない。いったい何故、天海僧正は苦難の道を選んだのか?

1000人を超える大行列が辿ったのは歩きやすいように整備された街道である。それはできるだけ平坦な土地を通っている。だから、前回掲載した森村さん自作の地図で見るように家康の御霊が神になるために通るといわれる不死の道からは大きくはずれることになる。
天海僧正が裏街道を選んだのは、覚成寺の看板にあったように、家康の亡骸を無事に日光に届けるという目的もあったかも知れない。しかし、出来るかぎり不死の道に沿って日光に行こうとしたのではないか? もちろん、不死の道を正確に辿ろうとすれば山中の道なき道を進むことになる。それは無理だろう。それでも、できるだけ不死の道に沿って歩こうとしたのが、天海僧正が選んだルートではなかったのか?

川越を発ったのが3月27日。整備された街道を歩いた本隊は2日後の3月29日には鹿沼に到着した。鹿沼から日光までは29㎞。わずか1日の行程である。それなのに、本隊はここに4日間も足を止めている。とどまる理由が見あたらない「空白の4日間」である。いったい何故、無駄としか思えない日程を組んだのか?

これも、天海僧正が家康の亡骸を持って「裏街道」を歩いたと考えると謎が氷解する。本隊は、天海僧正の日光到着を待っていたのである。本隊に遺骨がない以上、本隊だけで日光東照宮にたどり着いても意味がない。その前に天海僧正との合流を果たさなければならなかった。
川越から深谷の瑠璃光寺に向かい、世良田の長楽寺、桐生の永昌寺と辿り、ここから山中に分け入ってみどり市の覚成寺を通り、山道を歩き続けた天海僧正は、本隊に比べて日光にたどり着くまではるかに時間がかかったはずだ。とすると……。

鹿沼での、謎の空白の4日間は、本隊が天海僧正の到着を待つ待機時間ではなかったのか。

日光東照宮は毎年5月17,18日の2日間、春季例大祭を催す。神輿を中心に100人の鎧武者、それぞれ50人の弓持ち、槍持ち、鉄砲持ちなど1200人が参道を往復する「百物揃千人武者行列」を見に、毎年多くの人々が詰めかける。久能山から日光へ、家康の亡骸を遷した際の行列を再現したものだという。
そういえば、

 「春季例大祭には不思議なことがありまして」

と話したのは、あのコピーを送ってくれた学芸員である。その話によると、東照宮に安置されている3基の神輿は、祭りの前夜、東照宮を出て近くの二荒山神社に遷される。祭りの当日はこの二荒山神社から御旅所になっている四本龍寺まで進む。ここで1200人と一緒になり、参道を東照宮まで行くのである。
学芸員はいった。

「どうして祭りの前夜、神輿を二荒山神社に遷すのだろう、と考えているのですが、よく分かりません」

3基の神輿は祭りの前夜、前夜に東照宮を離れて二荒山(ふたらさん)神社まで降り、当日は四本龍寺で1200人と合流する。

「あっ、これは、家康の亡骸を日光東照宮に納めた様をそのまま再現しているのではないか?」

と森村さんが思いついたのはしばらくたってのことだった。
二荒山神社の御神体は男体山である。ということは、家康の亡骸を持った天海僧正は男体山の頂上に登ったのだろう。男体山は久能山を出た不死の道が行き着く先である。そこから下山して本隊と合流したのに違いない。

「家康の御霊、亡骸は本隊には存在しなかった。だから1200人の本隊は四本龍寺で家康の御霊・亡骸の到着を待って合流し、日光東照宮を目指したのに違いありません」

森村さんに訪れたひらめきである。そう考えれば、全ての辻褄が合う。いや、そう考えなければ、鹿沼での謎の4日間、深谷の瑠璃光寺、桐生の栄昌寺、みどり市の覚成寺に、家康の遺骨を持った天海僧正が立ち寄ったという伝承を説明できないではないか。

そんなことをこれまで唱えた人はいなかった。だが、確かに辻褄が合う。森村さんは、家康が東照大権現という神になった手順を読み解いたのだと、筆者は考える。

写真:歴史の研究は史料との格闘である。これは森村さんが集めた資料のほんの一部だ。

桐生を誇りたい! アマチュア史家・森村秀生さん 第16回 家康の遺骨が通った裏街道

そして、鹿沼での4日間が残った。
川越では徳川家康を神にする大法要を営んだのだから4日間という日数は必要だっただろう。だが、鹿沼にはそんな記録はない。目的地である日光は目と鼻の先だ。たった1日の行程でたどり着けるところまで来て、総勢1000人を超える一行はいったい何をしていたのか?

そんな疑問を抱えたある日のことである。悦子さんは何の気なしにテレビを見ていた。すると深谷市にある天台宗の寺院・瑠璃光寺の住職が登場し、

「当寺には家康公の遺骨をもった天海僧正がこの寺に立ち寄ったという言い伝えがあります」

と話しているではないか。森村さんと一緒に桐生の歴史を探ってきた悦子さんは思わず森村さんを呼んだ。

「お父さん、大変だよ……」

瑠璃光寺のホームページには深谷市の有形文化財に指定されている仁王門が掲載され、こんな解説がある。

「寺伝や言い伝えによると、天海僧正が徳川家康公の遺骨を日光に奉遷する際、表向きは川越喜多院より忍・館林方面に行列を仕立て、実は川越より古鎌倉街道を深谷に下り、当山に立ち寄り、家康公の遺骨を狙う賊をやり過ごしてから世良田の長楽寺に向かったという理由により幕府より御朱印を賜り、この仁王門にも葵の紋が付けられています」

    瑠璃光寺の葵の紋

森村さんはテレビでその言い伝えにめぐりあったのである。これもセレンディピティだろう。

この言い伝えを考えてみた。川越から忍(おし)に向かうには東に方向を取る。深谷は川越の西方だ。とすれば、川越で天海僧正は本隊と別れて別行動をとったことになる。天海僧正は家康の亡骸から一時も離れなかったといわれる。とすれば、どういうことになるか。
世良田の長楽寺は天台宗の寺院である。関東に入った徳川家康が祖先の寺として重視し、天海を住職に任じた。3代将軍家光は日光の東照宮を今に残る豪壮な社殿にした際、それまであった古い日光東照宮の社殿をこの地に移設した。それが世良田東照宮である。瑠璃光寺に残る言い伝えを信じれば、家康の遺骨は川越から深谷へ、そして家康と縁が深い世良田(太田市)へと歩を進めたことになる。

森村さんの頭の中に蓄えられていた断片的な知識が音をたてて結び付き始めた。世良田から天海僧正が向かったのは桐生に違いない。栄昌寺である。「第8回 徳川家康に挑む」で書いたように、栄昌寺には天海僧正が徳川家康の亡骸をもって止宿したという言い伝えが残っていたではないか。

15.裏街道_NEW
(森村さんが作った、家康の亡骸が辿ったと思われる道の地図)

天海僧正が栄昌寺を出て向かったのは桐生市の隣、みどり市大間々町上神梅の覚成寺に違いない。「第9回 セレンディピティ」で「天海僧正の腰掛け岩」の伝説を紹介した。あの覚成寺にも家康の遺骨をもった天海僧正の話が残っているからである。

森村さんは妻・悦子さんと一緒に覚成寺に行ってみた。こんな看板があった。

北辰妙見大菩薩の由来
(徳川家康公の御守本尊北辰妙見大菩薩)

 当寺安置の日本唯一の徳川家康公御守本尊北辰妙見大菩薩とは、今より三百五十年程前、家康公臨終の砌(みぎり)、側近である最高顧問の天海大僧正・本多正純・春日の局を招き、余亡き後は三代将軍は孫の竹千代を家光と定めること。そして吾が遺骨は久能山に葬(ほうむ)り、分骨を日光山に東照権現として祭るように遺言されたのであります。
そこで天海大僧正思うに、大坂冬の陣および夏の陣の戦後間もないこの時、豊臣方の残党諸国に潜伏し、機会あらば、徳川の天下を覆(くつがえ)さんと欲するおそれあることを察知するとともに、身の危険を考え、乞食僧に身を窶(やつ)して日光本街道を避け、裏街道(江戸・川越・妻沼を経て当寺門前の道)を進み来られ、やがて、当寺門前にさしかかり、近くにあった石を座所として一時の休息をとられました。それが寺宝の「天海大僧正御座石」ですそして、日も暮れかかった為、一夜の泊まりを当寺に願い出たのであります。
時に当寺住職思うに、人格・風格・風来、唯の乞食僧にあらずと識(し)り、山海の珍味をもって接待申し上げし処、天海大僧正いたく感激せられ身の素性を打明けられ,遺骨と共に奉持(ほうじ)せる家康公御守本尊を寺宝にと下賜(かし)されました。
これが当寺に安置されている「日本唯一の北辰妙見大菩薩」の由来であります。このような由来をもつ北辰妙見大菩薩とは、北斗七星を御身体として祭り暗蕗行く旅人の星明りとなる菩薩様です。

首をひねりたくなる記述もある。家康が東照大権現になったのはその死後である。「東照権現」として日光山に祀れと遺言するはずはない。桐生の栄昌寺に立ち寄ったという伝承が残っている以上、妻沼(埼玉県熊谷市)を通ればかなり回り道になるが、わざわざそんなルートを通ったのか? 山深い寺である覚成寺が、突然現れた客に「山の珍味」はともかく、「海の珍味」を出すことができただろうか……。

だが、1000人を超す大行列が通らなかったはずの深谷市の瑠璃光寺、桐生市の栄昌寺、そしてみどり市の覚成寺と、3つもの寺に、家康の遺骨をもった天海僧正が立ち寄ったとの言い伝えがあるのは事実である。
そして、瑠璃光寺、栄昌寺にはすべて徳川家の葵の紋の使用を許されている。

「この印籠が目に入らぬか!」

はドラマ水戸黄門の、助さん角さんの決めぜりふである。差し出され印籠には三つ葉葵の紋章が浮き出ている。腹いっぱい悪事を働いてきた者どもが一斉にひれ伏す。それほど権威があった徳川家の紋章を、2つの寺が欲しいままに使うことが許されたはずはない。
覚成寺には葵の紋はなかったが、「徳川家康公御守本尊北辰妙見大菩薩」が安置あされているという。これもみだりに公言していいものではないだろう。

3つの寺の伝承が全てでっち上げということがあり得るだろうか?。

天海僧正が家康の遺骨を日光山に運んだという「裏街道」は実在したのではないか? 川越から深谷・瑠璃光寺に向かったという天海僧正は、ほぼ「不死の道」に沿って歩を進めているではないか!

写真:深谷・瑠璃光寺の石板

桐生を誇りたい! アマチュア史家・森村秀生さん 第15回 家康はどこで神になったのか

森村さんの研究が次に向かったのは、家康の遺体の遷座である。
徳川家康は元和2年(1616年)4月17日、駿府城で身罷った。当時の数え年では75歳の生涯、満年齢で数えると、73歳4ヵ月の生涯だった。亡骸は遺言に従い、その日のうちに久能山久能寺に葬られ、その1年後の元和3年4月、亡骸が日光に遷された。

「そうであれば、不死の道とは徳川家康が神となって永遠の命を手に入れるために通らなければならない道程だったのではないか」

と考えついたのである。不死の道は一直線に描かれていた。もちろん、実際に家康の亡骸が久能山から日光まで完全に一直線に進むことはできないことだ。だが、できるだけ不死の道に沿って進もうとしたのではないか?

森村さんは行程表をつくってみた。

3月15日 久能山出発
3月15日 善徳寺(富士市今泉) 1泊 36.1㎞
3月16,17日 三島(三島市) 2泊 21.1㎞
3月18,19日 小田原(小田原市) 2泊 40.0㎞
3月20日 中原(平塚市) 1泊 21.3㎞
3月21,22日 府中(東京都府中市) 2泊 46.3㎞
3月23,24,25,26日 仙波(川越市) 4泊 30.6㎞
3月27日 忍(埼玉県行田市) 1泊 27.4㎞
3月28日 佐野(栃木県佐野市) 1泊 23.5㎞
3月29日、4月1,2,3日 鹿沼 4泊 40.7㎞
4月4日 日光到着 29.0㎞

※旧暦3月は小の月で、29日しかない。

「日光市史」によると、家康の御霊を乗せた神輿には、鎧兜に身を包んだ騎馬武者や槍を抱えた兵らに加え、僧侶、重臣、事務を執る役人ら、それに食事など身のまわりの世話をする従者も付き従う大行列だったという。いま日光東照宮の春秋の例大祭で催行される「百物揃(ひゃくものぞろい)千人武者行列」が当時の様子をいまに伝えているといわれる。

この行程表を見ながら、森村さんは仙波(川越)と鹿沼に目を惹かれた。ほかは1泊か、せいぜい2泊なのに、この2つの宿泊地では4泊もしている。亡骸を運ぶ旅である。同じ場所にどうしてそんなに長く滞在したのだろう?

ほかの史料にあたっていて、不思議なことに気が付いた。この遷座の旅には、都の朝廷から権大納言・烏丸光広卿が派遣され、後水尾天皇の綸旨(綸旨=天皇の命令文書)をもって加わっていた。家康が神になることを許す文書である。この綸旨がなければ、家康は東照大権現にはなれない。
ところが、川越までは確かに同行した烏丸光広卿は、一行が川越を発つと隊列から離れ、京に向かって旅立っているのである。なぜ日光まで同行しないのだろう? 不思議な行動だ。

そして、川越には喜多院がある。天海僧正は慶長4年(1599年)、この喜多院の第27代住職になっていた。慶長16年(1611年)に川越を訪れた家康は天海と親しく言葉を交わし、よほど心を揺さぶられたのだろう、寺領として4万8000坪と500石を与えたと伝わっている。家康の遷座が実行された元和3年にも、天海僧正はもちろん喜多院の住職だった。
加えて、一行が川越に4日間とどまっていた間に大きな法要が営まれたといわれている。

「この2つ事実を重ね合わせると、大規模な法要というのは、徳川家康を東照大権現、つまり仏から神に変化させる儀式だったとしか考えられません。なぜなら、天皇の使者である烏丸光広卿には、家康が神になったことを確認する責任があったはずです。川越の喜多院で家康が神となったことを見届けて役目を終えたので帰京したとしか考えられないではないですか

これまで、徳川家康がいつ、どこで神になったかに触れた研究はあっただろうか? 森村さんが研究書に目を通した限り、そんな記述はなかった。

「家康は元和3年3月23,24,25,26日、川越の喜多院で東照大権現という神になったのに違いない」

森村さんは歴史に新しい1ページを加えたのかも知れない。

写真:不死の道、謎の斜めの線、家康の亡骸を改葬する旅……。森村さんは数多くの地図を自作した。

桐生を誇りたい! アマチュア史家・森村秀生さん 第14回 山王一実神道の2

山王一実神道は難しかった。
まず、教義がはっきりしない。研究書がほとんどない。いったい、どんな宗教なのか?

徳川家康は山王一実神道の教えで日光東照宮に祀られた。であれば、日光東照宮になら山王一実神道の研究成果があるかも知れない。
森村さんは日光東照宮に出かけた。東照宮宝物館の学芸員に会って山王一実神道についてあれこれ質問した。だがはかばかしい答えは出て来ない。要を得ないまま帰宅するほかなかった。
その学芸員から突然、封書が送られてきたのはしばらくしてからである。何事だろうと封を切ると、1959年に日光東照宮が発行した雑誌「大日光 第12号」の一部分のコピーが入っていた。池上宗義さんという方が書かれた「山王一実神道私攷」という論文だった。

読んで

「なるほど。これじゃあ分からないはずだ」

と思った。山王一実神道は

 「江戸期は勿論、それ以後に於いても当宮の神秘について集成し、且之を公開するを厳に禁ぜられてゐた」

と書いてあったからだ。山王一実神道は秘教なのである。教義を編集することも公開することも禁じられている。それでは調べようがない。研究書がほとんどないことも当たり前なのである。山王一実神道は難物だった。

それに、森村さんが理解するところ、山王一実神道とは徳川家康を神にすることを目的にした宗教である。家康を東照大権現にしたことで役目を終えたともいえる。あとは東照宮で秘儀として守っていればよく、広く布教することを試みた痕跡はない。
調べても調べても、なんとも手の付けようがない難物だった。

慶応義塾大学法学部教授、片山杜秀さんが書いた「歴史を預言する」(新潮新書)を手にしたのはつい最近である。 その1項に「増上寺幻想—首相・将軍・大権現」があった。読み始めた森村さんの目が輝いた。森村さんが目を惹かれたところを引き写してみよう。

「新しい幕府は安泰か。いや、家康があの世に旅立ち、昔の思い出として墓所に祀られるだけになっては、威光も薄れざるを得まい。
どうするか。死してもこの世に行き続けている感じがほしい。家康のブレーンであった天台宗の僧侶、天海がみごとに工夫した。死した家康は東照大権現とされた。権現とは神と仏の一体化したものだろうが、権と現の2文字で構成されているのは伊達ではない。この世にいつも居て、日々現れて,強い権勢を示すから権現なのだ。しかも、天海によれば、東照大権現は権現の中でも山王権現と同体という。山王権現とは比叡山から生まれた神仏混淆思想のひとつの理想的形象だ。聖なるあの世と俗なるこの世は神仏を兼ねるひとりの権現によって統べられていて、この世を統べるとは万民に幸福をもたらして天下を泰平にすることだと考える。家康は、江戸に幕府を開き、長い戦乱の世を終わらせたことによって、衆生に地益をもたらし、聖俗を貫く絶対権威かつ権力としての一仏一神、すなわち山王大権現こと東照大権現と化した。そのように天海は説く。
そんな東照大権現はどこに居る? 静岡の久能山にもだが,やはり日光だ。日光は江戸の真北。北極星の輝く方向。道教では北極星を天皇大帝と呼ぶ。日本の天皇の語源はそこにあるとも言われる。さらに付け加えれば、天海によると、東照大権現は天照大神よりも格が上とされる。
家康と天海はこのようにして、武家の棟梁たちの直面してきた難題の解決をはかったのだろう。天下を泰平にした実力者がこの世でもあの世でも一番偉い。将軍は天皇の上に、大権現は天照大神の上にあると考えてもよい。家康は死してこそ、徳川の権威と権力を完成させたのか。日光の天と地で輝くことによって。天海の名プロデュースである」

山王一実神道はどこにも登場しない。しかし、その考え方は何となく分かる。
森村さんは

「我が意を得たり!」

と思った。

写真:送られてきた「大日光 第12号」のコピー