桐生を誇りたい! アマチュア史家・森村秀生さん 第8回 徳川家康に挑む

桐生新町は荒地の中に突然現れた。いったい何の目的があって、こんな町を作ったのか。桐生新町を斜めに突っ切る謎の線は、桐生新町誕生の経緯を解き明かす鍵ではないのか? 桐生の大恩人である大久保長安はなぜ極悪人とされるようになったのか?
研究が進むにつれて、知りたいことはどんどん増えた。だが、ゴールに近づいている実感はない。私は同じ場所でウロウロと回転運動をしているだけではないのか? 一歩も前に出ることができていないのではないか?

森村さんは研究の方向を探り直した。直接調べて結果が得られないのなら、少し遠回りをしてみようと、徳川家康に向き合ったのである。
考えてみれば、大久保長安が桐生新町の町立ての責任者であったとしても、家康の意向を無視してそんなことが出来るはずがない。家康が命じたのか、長安が提案して家康の承認を得たのかは分からないが、渡良瀬川と桐生川に挟まれた扇状地に縄入れをして新しい町を作るというのは、家康の意向が強く関係しているはずだ。家康はなぜ、ここに町を作ろうと思ったのか?

家康、家康……。
ふと思い出したことがあった。桐生市横山町2丁目に栄昌寺という天台宗の寺がある。あの寺は徳川家の紋章である葵のご紋の使用を許された由緒正しい寺であると住職に聞いた記憶が蘇ったのだ。あの寺は家康に何かのゆかりがあるのか?
図書館に走った。あれこれ調べているうちに明治12年(1879年)に群馬県が調べたという寺院明細帳にぶつかった。栄昌寺の項を見た。

本尊:阿弥陀如来
由緒:寛永6年(1629年)10月開山覚盛和尚創立

さらに読み進んで、森村さんは思わず歓声を上げた。境内には御堂が2つあり、その1つ「権現堂」は

本尊:徳川家康公

とあるではないか。家康を本尊とする寺が桐生にあったのだ。
そして由緒まで読み進んで、歓声は驚きに変わった。

由緒:寛永六年東京上野東叡山天海僧正、徳川家康公ノ御遺骨ヲ久能山ヨリ日光山エ移シ奉ラント栄昌寺ニ止宿シ、家康公天海對顔ノ画幅ヲ授附セリ、依テ栄昌寺開山覚盛堂宇ヲ創立ス

徳川家康の遺骨が栄昌寺に止宿した?

栄昌寺で森村夫妻

いや、これは同時代に書かれた歴史の1次資料ではない。260年も後になって書かれた記録である。それに、家康の亡骸が日光に遷されたのは元和3年(1617年)のことだ。時代がずれている。
しかし、寺院明細帳は少なくとも群馬県という公の機関が聞き取り調査した記録である。栄昌寺の関係者が根も葉もないことを答えるはずはない。伝承は確かにあった。が、260年という時間が勘違いを引き起こしたとも考えられる。

「そういえば」

森村さんの記憶庫から、また1つ記憶が頭をもたげた。地元紙桐生タイムスに載った記事である。確か栄昌寺に、天海僧正の袈裟が残されていて、しばらく前に初めて公開されたのではなかったか?

森村さんはお稲荷さんの調査を始めるずっと前から桐生の歴史に関心を持ち、気になる記事は切り抜いて保管していた。保管箱を開く。あった!

「天海僧正の袈裟」初公開
栄昌寺の寺宝、専門家ら見学

という見出しがついた記事は、2012年7月3日の1面をほぼ埋めていた。天海僧正の袈裟、燕尾帽、それに渡辺崋山が模写したといわれる「家康僧正正対座之図」の写真もついている。
記事によると、栄昌寺は上野寛永寺の様式に従って建てられた寺で、本堂のほか池を配して弁財天をまつり、三ツ葉葵の紋を付けた権現堂もある。袈裟は正式には「七条袈裟」というらしく、濃緑の紗織の地に軍配と松が金箔で折り込んであるとあった。

「そうか。図書館で見つけた寺院明細帳の記述には、こんな裏付けがあったのか」

自分でもその袈裟と燕尾帽を見てみたいと思った。だが、残念なことに公開の予定はないという。
それでも森村さんは、自分の歴史研究に一条の光が差してきたような気がした。

写真:栄昌寺にある葵のご紋

桐生を誇りたい! アマチュア史家・森村秀生さん 第7回 大久保武蔵鐙

もっと大久保長安を知らなくては。
東京・八王子市では、大久保長安は町の礎を築いた偉人として、いまでも市民の尊敬を集めている。森村さんは八王子市まで足を伸ばした。市役所の文化財保護課、大久保長安記念館……。「大久保長安の会」が活動していることを知ると、その講演会にまで顔を出した。

「大久保武蔵鐙(おおくぼむさしあぶみ)」という古書を、桐生競艇場の駐車場で定期的に開かれる骨董市で手に入れたのもこの頃のことだ。何気なく店を冷やかしていたら、第2巻、第3巻、第5巻、第15巻の4冊が並んでいた。

「大久保一族のことが書いてあるに違いない」

そう思った森村さんは、この4冊を買った。1冊、確か500円だった。聞くと、「大久保武蔵鐙」は全25巻の本だという。

「全部ほしい。揃えてもらいたい」

全巻が揃うまでに3ヵ月ほどかかった。その骨董屋は森村さんを余程の上客と見込んだのだろう。

「最後の方は、1巻1000円に値上がりしていました」

もとは江戸時代に出版された実録本(江戸時代に、当時の社会的事件を題材にして書かれた読み物)だ。寛政6年(1794年)には、その一部を翻案した歌舞伎が初演されているから、その頃までにはおおよその原形が出来ていたらしい。森村さんが入手したのは流麗な草書体で筆写され、和綴じされた本だった。森村さんはこの25冊の解読に取り組んだ。
森村さんはアマチュア史家とはいえ古文書が読める。草書も大丈夫だ。

いや、桐生の歴史を研究するために勉強したんじゃありませんよ。実は、私の骨董趣味のおかげでして」

古い掛け軸には余白に文章を書いたものが多い。絵の評価などを書き込んだもので、これを「賛」という。森村さんは、そんな古い掛け軸をたくさん買い集めている。

「賛が読めないと、古い掛け軸の本当の価値は分からないんです。だから骨董を趣味にする以上、古文書は読めなきゃいけないんです。それに、もともと書道も趣味にしていまして、草書にも慣れているんです。桐生市の図書館で開かれていた古文書解読研究会には、まだ自動車部品を商っていた頃から通っていました」

だが、解読した「大久保武蔵鐙」は、天下のご意見番と言われた大久保彦左衛門の一代記のようなものだった。大久保長安は1〜3巻には登場するが、いわば長安の出世物語と長安の悪事を述べたもので、森村さんの長安研究にはあまり役立たなかった。
そこまで研究の幅を広げても、大久保長安=極悪人説、を覆す資料にはとうとうお目にかかることができなかったのである。

それでも、まったく実りがなかったわけではない。
大久保長安研究が深まると、森村さんは大久保長安の会の研究会に参加するようになった。そのついでに、大久保長安が陣屋内に築いたといわれる産千代稲荷神社を訪ねた時のことだ。対応してくれた神主さんからこんな話を聞くことが出来た。

「大久保長安は徳川家康公の11男、のちの頼房公を預かることになりました。当時は竹千代と呼ばれていた頼房公の無事な成長を祈願して創建したのがこの産千代稲荷神社だと伝わっています」

とすれば、大久保長安はお稲荷さんを信仰していたことになる! 「第4回 お稲荷さんは町立ての目印だった」で、森村さんは桐生新町と大久保長安、お稲荷さんのつながりを、足を使って調べ上げたと書いた。あの時は推測だといわれても仕方がなかったが、もうそんなことは言わせない。大久保長安は主君家康に託された竹千代の無事な成長をお稲荷さんに願うほどお稲荷さんを信仰していた。大久保長安を責任者として進められた桐生新町にお稲荷さんがたくさんある説明としてこれ以上のものがあるだろうか?

だがそれでも、森村さんは研究の足を止めるわけにはいかない。まだ大久保長安の汚名を晴らすことができていない。そして、桐生新町に現れた斜めの線の秘密はまだ残ったままなのである。

写真:大久保武蔵鐙全25巻

桐生を誇りたい! アマチュア史家・森村秀生さん 第6回 大久保長安を知らねば

桐生新町の地図上でお稲荷さんが描く斜めの線は何のためにあるのか? 桐生新町誕生の姿のおおむねは解き明かすことができたとはいえ、何とも説明できない謎が残ったのである。どこにもはまりそうにないジグソーパズルのピースは何とも腹立たしい。
森村さんはしばらくああでもない、こうでもないと「謎」と向き合った。が、一歩も進むことができない。では、とりあえずここで桐生の歴史調査を終了するか?
だが、森村さんの歴史探訪魂は真っ赤に燃えさかっていた。簡単には消えそうにない。

「だったら。これまでに解明されている桐生新町の町立ての歴史を勉強してみよう」

と森村さんは思い立った。ひょっとしたら、どこかに謎の斜めの線につながるヒントが見いだせるのではないか?

最初に手にしたのは桐生市史である。桐生市中央図書館でページをめくった。何度も「大久保長安」という名に出会った。初めて見る名前である。桐生新町の成立の項には

「当町は当代の初頭、天正19年より慶長の初年に互り、徳川氏の代官大久保石見守長安の手代大野八右衛門尊吉が、旧桐生領4箇村の親郷触元として桐生川の渓口聚落地である久方村・荒戸村の一部を割いて都市計畫的に新設した農村都市である」

と書かれている。そうか、桐生の中心となった桐生新町を作ったのは大久保長安という人だったのか。そうであれば、大久保長安は桐生の大恩人である。森村さんは大久保長安に強い関心をもった。

ところが、桐生市史を読み進めるうちに、ムカムカしてきた。こんな記述にぶつかったからだ。

「つぎに代官大久保石見守について記する。大久保長安は甲斐の人猿楽師金春七郎喜然の子で、初姓は大蔵、通称を藤十郎といい、武田信玄に仕えて大谷性を冒(おか)したが、武田氏滅亡の後、駿河におもむき、さらに徳川家康に仕えて大蔵太夫といい、猿楽を業としていた。後金山奉行に任ぜられ、功績を挙げるにおよんで、家康より大久保性をたまわり十兵衛と称した。慶長年中従五位に叙し,石見守に任じ武蔵国八王子の地をたまわり、禄高2万石の領主となった。その才能と技術は多面で、鉱山採掘のほか検地・築城・訟獄(しょうごく=訴訟)までその手腕を発揮した。しかし晩年キリシタンのことに関して罪を得て慶長18年4月69歳で没した。遺言して屍を金棺におさめ、甲州に葬られんと幕府に乞うたが許されなかった」

桐生の大恩人が「罪を得て」だと?
森村さんは大久保長安について書いた本を読みあさり、事実関係を調べ始めた。

大久保長安が死んだのは慶長18年(1613年)4月25日である。世に言う「大久保長安事件」が起きたのはその直後、翌5月6日ことだった。何がきっかけだったかは分からないが徳川家康が長安配下の勘定(勘定奉行配下の役人)、手代(代官の下役として農政を担当した役人)を呼び出して調査を始めた。そして長安の不正行為が見つかったというのだ。
すでに長安は亡くなっていたが、これをきっかけに調査は全国におよんで徹底された。その結果、この年7月には長安の財産が没収され、子供7人が切腹を命じられた。そして長安の遺体が掘り出され、安倍川の河原で張り付けにされた。こうして大久保家は断絶した。

「そんなバカな! 桐生の恩人が亡骸を掘り起こされて張り付けにされるような極悪人だって!?」

森村さんは憤った。

「あまりにも性急な断罪だ。この事件には裏があるはずだ! 桐生の恩人・長安の汚名を晴らしたい!」

写真:森村さんが読みあさった大久保長安関連の資料のほんの一部

桐生を誇りたい! アマチュア史家・森村秀生さん 第5回 現れた斜めの線

桐生新町に残るお稲荷さんを訪ね歩いた森村さんは、それまで誰も考えたこともなかった桐生新町が生まれ落ちた時の姿を描き出した。

お稲荷さんは、45間、150間の間隔で規則正しく並べられており、それは約400年前の町立ての際の縄入れの目印だった。

それが、森村さんが得た成果だった。

普通なら、それで森村さんの桐生の歴史研究は一段落し、次の目標に向かって新しい研究が始まる。ところが、森村さんはお稲荷さんから離れることができなかった。森村さんが見出したお稲荷さんの並べ方の法則に従わない18のお稲荷さんがあったからである。

どれも、立派な祠をもつお稲荷さんだった。地図に記入したこれらのお稲荷さんの位置を目で追うと、本町通の北の端にある桐生天満宮から南南東に向って一列に並んでいるように見える。町立ての外郭をあらわしたお稲荷さんが作る南北の線を基準にすると、斜めの線である。その反対の先にあるのは桐生市仲町3丁目の常祇稲荷神社だった。
念のために定規を当ててみた。お稲荷さんはきれいに一直線上に並んでいた。

「この斜めの線はいったい何なのだ?」

900間×100間の桐生新町を町立てする縄入れには、どう見ても不必要な線である。しかも家の敷地内にあるから、どう考えても町立てと同時に置かれたとしか考えられない。町立てをした大野八右衛門以下の人々は、いったい何のためにお稲荷さんを斜めの線に沿ってに並べたのだろう?

森村さんの生家は本町6丁目である。常祇稲荷神社の境内は友だちと走り回る広場だった。だからだろう、近所のお年寄りたちは常祇稲荷神社に伝わる話をよく聞かせてくれた。

「桐生のお稲荷さんは、みんな常祇稲荷から分かれたんだよ」

「桐生天満宮の神様と常祇稲荷の神様は行き来されるんだ。2つの神社は御神渡(おみわた)りの道でつながっているんだ」

それが地元に伝わる話である。だとすれば、新しく姿を現した斜めの線にあたるものがあるとすれば、その御神渡りの道だろう。まっすぐ2つの神社を繋いでいるから,とりあえずの説明にはなる。

「だがなあ」

森村さんはどうしても納得できなかった。
八百万(やおよろず)の神が年に1度出雲に集まるという話は聞いたことがある。旧暦10月を神無月というのは、全国の神様たちが地元を留守にして出雲に出張するからだ。だから神様たちが集まる出雲では旧暦10月を神在月という。
だが、神様は地元で他の神様と交流するのか?

桐生天満宮は学問の神様といわれる菅原道真公と、道真公の先祖である天穂日命(アメノホヒノミコト)、それに祓戸四柱(ハラエドヨハシラノオオカミ=お祓いを専門とする4柱の神々)を祀っている。そんな神様が、もともとは農耕の神であるお稲荷さんとどうして行き来しなければならないんだ? それはないんじゃないか? だったら、この斜めの線は何なのだろう?

いくら考えてもわからない。桐生のお稲荷さんが400年間持ち続けた秘密を解き明かしたのは森村さんだから、他の人にこの斜めの線を聞いても知る人がいるはずはない。お稲荷さんに注目した人がいなかったのだから、お稲荷さんの並び方の意味を書いた文献もないのだろう。では、どうすれば斜めの線の秘密を解き明かせるのだろう?
わからない。わからなければ、当面は放っておくしかない。

森村さんはアマチュア史家である。学者や専門家のように系統立てて歴史を解明していく作業は苦手だ。その時そのときにたまたま関心を惹かれたテーマを追求するのが森村スタイルである。
ただ、森村さんの関心は常に桐生新町の誕生に向けられ続けた。

写真:青い線が、現れた斜めの線

桐生を誇りたい! アマチュア史家・森村秀生さん 第4回 お稲荷さんは町立ての目印だった!

お稲荷さん信仰の歴史を調べてみた。お稲荷さんとはもともと穀物の神である。毎年の豊作を願う穀物の神が、なぜ荒れ地に縄入れした桐生新町の町立ての目印になるのか?
インターネットで調べていたら、しめ縄メーカーである折橋商店(富山県射水市)のHPにこんな記述があった。

「江戸時代になると、稲荷信仰が庶民に広まります。当時は、さまざまな地方からの武士が江戸に集まり、新たに開発された宅地に住みはじめた時期でした。その際に土地の神として稲荷神を祀り、それが屋敷神となり、大名や旗本から商人へと広まっていきます」

お稲荷さんはいつしか土地につく神としての性格も併せ持つようになったようである。そんな信仰が産声を上げた時期に、桐生新町の町立てが行われた。いってみれば、当時最新の流行に乗って、桐生新町ではお稲荷さんが境界杭の代わりを務めてもおかしくはない。

「それに」

と森村さんは言葉を継いだ。

「桐生新町町立ての責任者だった大久保長安は、代官頭として八王子に築いた陣屋に産千代稲荷神社を創建し、いまに受け継がれています。であれば、大久保長安がお稲荷さんに助けてもらおうと思っても自然ではないですか」

桐生の町立てはどのように進められたのか。それまで誰も触れようとしなかった桐生の産まれ方に、森村さんはお稲荷さんを捜し歩くことで一条の光を投げかけたのである。

森村さんは人に勧められて、お稲荷さんの調査結果をレポートにまとめた。「桐生新町の母子手帳」と名付けた。その一部をピックアップして、森村さんの調査の進め方を見よう。

私がこの研究を始めたのは、平成16年(2004年)の頃からです。
きっかけは、(本町)2丁目の玉上薬局のご主人との世間話の最中に、やけにこの辺りにはお稲荷さんが多いんですよ。何故だか調べてみませんか、の一言でした。誰も研究していないお稲荷さん、こいつは暇つぶしには最適とお受けした次第です。今にして思えばラッキーな出会いでした。
誰も研究していないということは、文献調査などでは解決できないわけで、1人で始めろということです。
先ずはお稲荷さんがどこにあるのか、所在地の調査に取り掛かりました。住宅地図を片手に、一軒一軒くまなく巡り、お稲荷さんを発見すればマーカーを地図に置き、1丁目から6丁目まで2ヶ月間調査しました。
これらの調査から

①伝承が明確な家運隆盛を願うお稲荷さん
②伝来不明・意味不明のお稲荷さん

の2種のお稲荷さんが出て来ました。

①のお稲荷さんの方は家運隆盛を願うお稲荷さんとして、先祖が祭ったということで解決しました。
問題は②のお稲荷さんです。②の古い稲荷をさらに調べると、

②—1 桐生新町の輪郭線に沿って存在するお稲荷
②—2 地割りの内側に点在するお稲荷

以上の2種類が見られます。さらに法則性が見えます。何らかの意図を見て取ることができます。

これらのお稲荷さんはいつ頃設置されたのでしょうか。それを示す資料などどこにも存在していません。所有者の方に聞いても古くからここにあるとしか答えてくれません。そこでこのように考察しました。

直線状に稲荷を配置されているということは何者かの指示が存在した。
家が建て込めば直線状に配置することは困難である。

以上のことから、これらの稲荷は、新町を作成したと同時期にまだ家が建つ前に、何者かが何らかの理由で設置したと考えました。

②—1を整理するために、新たに別の地図上に稲荷を移動しておりましたら、複数の稲荷は桐生新町の外郭に沿って等間隔に置かれていることに気が付きました。間隔は82m 即ち45間です。あたかも目印のように稲荷を置いてあるようです。この見解が正しければ、桐生新町の長さは,45間の倍数上に創られたということになります。

実は、②—1を整理するために別の地図に稲荷を移動していた時、各町内の区切りの所に立派なお稲荷様が置かれていることに気が付きました。その位置は373mごとです。150間ということになります。ですから、150×6=900となります。人々の暮らしの基準、行政区画は、6町内は等分に創られた町のようです。しかし6丁目だけは寺があるため、特別に大きく区画されその分を5丁目と4丁目が割を食う形になっているようです。

以上のことから、

桐生新町の大きさは、長さ900間、幅100間、面積9万坪
桐生新町の行政区画として150間×6町内
東京ドーム(1万4000坪)の約7個分

です。
これが桐生新町の母子手帳の1ページ目に記載された記述です。

森村さんは、森村史学の第1歩を記した。

写真:森村さんは地図に、お稲荷さんの場所を記た。見にくいかも知れないが、黄色のマーカーがお稲荷さんの場所である。