日本1のフローリスト—近藤創さん その8 フローリスト養成学校

「花清」の屋号は、創業者である祖父・清さんが

「花の清さん」

と呼ばれていたのがルーツである。その清さんが、この大会に付き添っていた。自分が興した事業の後継者である子と孫が全国大会に参加する。その姿を自分の目で見たかったのに違いない。

審査員の1人に、15年前から生花店を営なむ一方でフラワーデザインの研究を続け、その世界の重鎮とまで呼ばれるようになっていた人がいた。関江重三郎さんである。その関江さんと清さんが長年の知り合いだったのも何かの縁だろう。
審査結果発表が終わると清さんが関江さんに近づき、

「うちの作品が何で1位じゃないんだ?」

と話しかけた。本気だったのか、心やすさがいわせた冗談をいったのかは近藤さんに判断できなかったが、おどけたような祖父の一言が近藤さんの歩く道を決めた。

「だったら、あなたのお孫さんをうちに勉強に来させなさいよ」

聞けば関江さんは、東京・上野でフローリスト養成学校を経営しているのだという。あなたのお孫さんをうちの学校の生徒にしなさい。私が一流のフローリストに育ててあげる。

「いやあ、あの関江さんの言葉を聞いた瞬間、ああ、これはもう逃れられないな、と観念しました」

という近藤さんは翌年、関江さんが経営する東京フラワーデザインセンターの師範科に入学した。大学は3年生になっていた。いわゆるWスクールである。大学で経営学を学ぶ一方、本格的にフラワーデザインを学ぼうと思ったのである。

そのころ知り合った女性がいた。花が好きな人だった。だからだろうか、付き合いは深まり、

「2人で生きて行こう」

と誓い合う仲になった。後に近藤さんの妻になる祐子さんである。
近藤さんは「花清」の3代目になることを決めていた。いずれ祐子さんと2人で「花清」を切り盛りすることになる。だったら、祐子さんもフラワーデザインを学んだ方が良くはないか?

結婚の相手として祐子さんを両親に引き合わせるとき、

「彼女もフローリスト養成学校に行かせたいのだが、どうだろう?」

と父に相談した。宗司さんの顔が嬉しそうに輝いた。

「それはいい。費用は俺が出そう」

いずれ夫婦なる2人は東京フラワーデザインセンター師範科の同期生になった。2人3脚で「花清」を盛りたてていく。近藤さんは「花清」の経営者、フローリストへの道をまっしぐらに歩き始めた。

関江さんの指導を受け始めてしばらくたった頃のことである。近藤さんは関江さんに呼ばれた。何事だろうと顔を出すと、思いもしなかった話を持ちかけられた。

「あなた、東京フラワーデザインセンターを継ぐ気はありませんか? いや、私の後継者になってくれませんか?」

関江さんには娘しかいなかった。いまなら娘に経営を継がせるという選択肢もあるだろう。しかし、半世紀近く前のことである。女性に事業を継がせようという人はあまりいない時代だった。

   近藤さんの作品 8

関江さんの後継者になれば日本のフラワーデザイン界を牛耳る立場に立てるだろう。フラワーデザインを一生の仕事にしようと思い定めた近藤さんには、限りなく魅力的な申し出だった。
「花清」を捨てるか? 悩んだ。考えた。揺れた。どちらの道を選ぶべきか。

父・宗司さんが弱音を吐きだしたのは悩んでいる最中だった。東京の下宿に

「俺も体が弱った。もうすぐ死ぬ。一度帰ってきてくれ」

という電話が入った。だが、戻ってみると父はピンピンしている。

「ああ、体はまだ何ともないようだが、気力が衰えてきたのかなあ」

近藤さんは決めた。

「私は3代目、跡取り息子だ。やっぱり桐生に、『花清』に戻るべきだ」

近藤さんが大学と東京フラワーデザインセンターを卒業する日が迫った。

写真:「花清」の前で、近藤さん

日本1のフローリスト—近藤創さん その7 2位入賞

近藤さんは、活け花にはある程度の自信があった。中学生で父に学び、高校生になると手ほどきを受けることもなくなっていたからである。お前に教えることはもうない、と認められたということだろう。
だが、その父が、生花店が生き延びる新しい方向として進み始めたフラワーデザインについては何も知らなかった。花をより美しく飾り付けるという意味では活け花に通じるが、でも、フラワーデザインとはいったいどういうものなのか? 手が届く限りの資料に目を通し、自分なりに考えてみた。

近藤さんによると、活け花に比べるとフラワーデザインは

・印象的にも物理的にも腰が低い。つまり重心がずっと下にある
・活け花は一方向から、フラワーデザインは全方向から鑑賞する
・空間を使って大きさを表現する活け花に対し、フラワーデザインは空間を埋め尽くそうとする

という特徴がある。何とかつかみ出したコンセプトで出品作をデザインし、創りあげた。コンテストの当日、父と一緒に新潟市の会場に向かった。父の作品、自分の作品それぞれ1つずつをひっ下げてのことである。
ところが、参加申し込みの窓口に行くと

「この大会は個人参加ではなく、店舗参加なのです。1つの店から2つの作品は出せません」

と告げられた。下調べが不充分だったのだ。せっかく持ってきた2つの作品のどちらかを捨てなければならない。だったら、出品すべきは父の作品だろう。近藤さんは素直にそう思った。宗司さんはそれまでもフラワーデザインの大会には何回か参加し、3位、4位という上位入賞を果たしている。それに比べれば、私は初参加なのだ。経験が足りない。それに、自分の作品が父のものに勝っているとは思えない。

「いや、一(はじめ)、こうして2つを見比べると、お前の作品の方がいいなぁ。俺の目にはそう見える。お前のを『花清』の作品として出そう」

フラワーデザインでも師である宗司さんがそういった。そして、近藤さんの作品に少し手を加え、「花清・近藤宗司」の作品として出品した。

「第2位、『花清』、近藤宗司さん」

競技が終わって開かれた審査結果発表で、そんなアナウンスが流れた。予想もしないことだった。まだ大学2年生でしかない近藤さんが初めて手がけた作品が、何と堂々の2位に入ったのだ。表彰状を受け取るために演壇に登ったのは名前を呼ばれた父ではなく、近藤さんだった。父が

「お前が行ってこい」

といったのである。

「いや、あれは私の作品ではありません。父の手が入って完成したものですから。コンテストって、自分だけの力で競わねばならないものでしょう。だから、私が賞状を受け取るのが何だか申し訳なくて」

そういう近藤さんは、だが、この大会で自信を得た。

    近藤さんの作品 7

「自分の中にあるものが、ひょっとしたら世の中で通用するのかもしれないと思ったのはこの大会です。花や器、木の選び方、全体の造形の仕方も間違ってはいなかったんだなあ、って。それに、父に認められたという思いもあった。心から嬉しかったんです」

父の後を継いで「花清」をやっていこう、「3代目」になろうという決心はますます揺るぎないものになった。それだけ喜びは大きかった。

あの時、

「あれは私の作品ではない」

と感じた近藤さんは、だがいまはこう思う。

「あれは私の作品ではなかったが、でも、やっぱりあれは私の作品だったのです」

2位に入ったフラワーデザインの作品は、フローリスト近藤さんの人生を支える土台になった。

写真:若き日の近藤さん2

日本1のフローリスト—近藤創さん その6 花清の方向転換

大器がいよいよ姿を現したのは、大学2年生の夏のことだった。夏休みで帰省した近藤さんに、父・宗司さんが声をかけた。

「おい、今年は新潟でJFTD主催のフラワーデザインのコンテストがある。俺は出るつもりだが、どうだ、お前も出てみないか」

JFTDとはJapan Flower Telegraph Delivery(日本生花商通信配達協会)の略である。全国の生花店がネットワークを組み、客が遠くの知り合いに花を贈りたいとき、地元の生花店で注文すると送り先に近い生花店が届けるシステムを構築した一般社団法人だ。桐生から札幌の知人に花を贈るには、桐生の「花清」に注文すれば、この組織に加入している札幌の生花店△△が花を届ける。輸送費が不要になるだけでなく、新鮮な生花を送り先に楽しんでもらうことが出来るようにした。社団法人日本生花商協会(日花協)から1953年に分離・独立し、1982年から毎年1回、フラワーデザインコンテストを開き、1986年からはジャパンカップと称している。
「花清」は日花協、JFTD両方に加盟していた。宗司さんが参加するというのは、この大会である。

活け花とフラワーデザインは似て非なるものだ。活け花は床の間や玄関の飾り棚に置いて動かさないものである。だから、鑑賞は一方向からだけになり、後ろ姿を見ることはない。一方のフラワーデザインは広い空間に置き、四方から鑑賞する。

「花清」は華道教室を併設する生花店として歴史を刻んできた。その歴史を宗司さんは数年前に書き換え始めていた。

「そろそろ活け花は限界ではないか」

と考えたのである。桐生に華道教室を併設する生花店が軒を並べたのは織都としての繁栄が背景にあったことは前に書いた。だがこのころ、その桐生の繁栄に陰りが出始めたのである。機屋さんの勢いが衰え、勢い、活け花の需要がしぼみ始めた。華道教室に弟子が集まらなくなった。

「これまでは機屋さんを中心とした法人需要に支えられてきたが、これからは個人消費の時代ではないか」

市場の変化、桐生の変貌、「花清」の将来を見据えて宗司さんは、経営の舵を大きく切ったのである。
店頭では鉢物に力を入れ始めた。贈り物としてちょっとした流行になったシンビジウムも数多く並べた。
同時にフラワーデザインに取り組み始めた。活け花の世界に比べれば、フラワーデザインは基本・原理・原則などに縛られることが少なく、個人の自由な感性、美意識による創作を重視する。フラワーデザインの方が個人消費の時代にはマッチしているのではないか? と考えたのだ。

中学1年から宗司さんの愛弟子になって華道の修行を始めた近藤さんは、時を重ねれば重ねるほど花の世界に惹かれ、高校生の時にははっきりと

    近藤さんの作品 6

「私は『花清』の3代目になる」

と心に決めていた。大学は経営学部を選んだのもそのためである。そして高校の3年間、受験勉強はそこそこで済ませ、店の手伝いに力を入れた。店頭に立って客の応対をし、活け花をする客には花を組んでやった。つまり、一杯の活け花をより美しくする季節の花の組合せを、近藤さんがやってあげていた。

「そういえば、高校生になってからは父に活け花を教えてもらった記憶がないなあ。私、中学時代に父から免状をもらったのだったかな?」

その近藤さんを、宗司さんは

「お前もフラワーデザインコンテストに作品を出してみないか」

と誘ったのだ。「花清」の未来がフラワーデザインにあるのなら、やってみなければならない。近藤さんは出場を決めた。だが、フラワーデザインはやったことがない。出来るだろうか?

写真:若き日の近藤さん

日本1のフローリスト—近藤創さん その5 門前の小僧

使ったのは、まだ2、3年ものの松の若木である。この若木を使って松の老木を写し取らねばならない。駆使したのは「矯(た)め」と呼ばれる手法だ。
松も、若木はほぼ真っ直ぐに伸びている。一方の老木は曲がりくねって、いかにも年老いて腰が曲がってしまった風情がある。若木でこの老木の姿を出すため、指の力で枝を曲げて形を整えるのが「矯め」という技だ。柔らかい木なら素直に曲がるが、固い木はほんの少し折って曲がりを出す。そのままでは樹皮が裂けて中の白い繊維の部分が見えてしまうから、数本の木の「少し折った」部分を組み合わせて見えなくするのがコツである。

近藤さんは7本の松の若木を組み合わせた。祖父や父が矯めているところは見たことがある。しかし、自分に出来るだろうか? あの時父は、こうしたはずだ。必死に記憶を呼び覚まし、何とか活け終えた。中心になる1本を「く」の字型に矯めたのが、中学1年生の工夫である。ほかの6本は形を整えてこの1本の周りに集めた。矯めた部分は木の繊維が見えないように組み合わせ、1本の木に見えるようにした。何とか活け終えてはみたが、これで良かったのかどうか。形が整っているのかどうか。自分では全く判断がつかなかった。

「できました」

と声をかけると、宗司さんは出来上がった作品をしばらく見ていた。これでいいとも悪いともいわない。やがて

「ふむ、まあ、いいだろう」

といいながらほんの少し手を加えた。近藤さんの目にも、見栄えが一段と良くなったように見えた。

「父は、お弟子さんに対しても、まず活けさせてみて、後で一部に手を加えながら指導するという教え方をしていました。私にも同じ手法を使ったわけですが、『これはダメだ』とはいわれなかった。私は『まあ、いいだろう』というのは褒め言葉なのだろうと受け止めました」

門前の小僧習わぬ経読む

という。
生まれて初めて活けた花が、家元から

「まあ、いいだろう」

と評価された。門前の小僧、いや生花店、華道教室の3代目は、知らず知らずのうちに華道の基本を身につけていたらしい。
花や樹木に囲まれた暮らしをしていれば、自然に花や樹木の名前を覚え、それぞれの性格に詳しくなることはあるだろう。だが、全体の形の整え方、組合せ方、空間の演出の仕方など活け花に必要な知識、技までいつの間にか自然に身につくものなのだろうか? それとも、近藤さんには生まれつき備わった資質があったのか?

     近藤さんの作品 5

近藤さんが父・宗司さんの弟子になったのはこの日からである。修行が始まった。毎週日曜日の夜、父を前に花を活ける。花材は季節によって変わる。1月の松に続き、2月は梅である。この木は矯めずにそのまま使う。いいところを残してほかは切り落とし、切り口は絵の具を塗って樹皮と色を合わせる、3月はユキヤナギ、4月は桜……。
華道の流派、池坊では木と花を組み合わせる。しかし、古流は1種類の木しか使わず、花を組み合わせることはない。近藤さんの修行はまず、木から始まったのだった。

「楽しかったかって? うーん、修行ですからね。でも、この活け花の世界に徐々に惹かれていったことは確かです」

そしてこの年から、近藤家の正月の花は、「3代目」が活けるのが習わしになった。

写真:近藤さん、店で

日本1のフローリスト—近藤創さん その4 「3代目」

いま振り返れば、わずか29歳で日本一になる近藤さんが大器の片鱗を見せたのは、中学校1年生の元旦だった。

ここで少し回り道をする。桐生の生花店の話である。
当時、桐生の生花店は華道教室を兼営するところが多かった。当時の桐生は織物が盛んで、文字通り織都だった。数多くの機屋さんが覇を競い、織機が奏でるジャズのリズムが町を覆っていた。
機屋さんは取引先を自宅で接待するのが習わしだった。座敷の前に広がる庭の手入れに惜しげもなく金銭を注いだのはそのためである。亭主としてそこまで気を使わねばならないとしたら、玄関や床の間に活け花を飾るのは客を迎えるイロハのイだろう。だから機屋さんにとって花を活ける技は必須ともいえた。

「華道を身に着けたい」

という需要が多かったのである。

華道教室もあったが、この需要に商機を見出したのが生花店だった。華道教室を併設したのだ。お弟子さんが増えればその分、花の売上も伸びるからだ。織都桐生の繁栄が生花店を支え、華道教室を兼営する独特の経営形態を作ったともいえる。近藤さんの生家、「花清」は華道の一派、「草心古流」の家元でもあった。

話をもとに戻す。
だから、元旦の清々しい空気の中で新しい年を寿ぐ花を活け、家の中心、床の間に飾るのは近藤家のしきたりだった。

この元旦、

「おめでとうございます」

のあいさつが済むか済まないうちに、父・宗司さんがいった。

「今年の花はお前が活けなさい」

宗司さんがやるものとばかり思っていた仕事が突然、中学1年生の近藤さんに任されたのである。
しかも、その家は前年の12月に完成して引っ越したばかりの新居だった。住み慣れた家が道路拡張のため取り壊されたのが小学校の卒業式の日。それから普請が始まった新居がやっと完成したばかりである。檜の香りも豊かな新居の門出ともなるこの正月を寿ぐ花を、なぜ僕が活けるのだろう? これまで活け花の手ほどきをしてもらったことはないのに……。

いぶかしくは思ったが、父の厳命である。
活けるように指示されたのは、古流活け花の基本中の基本、「御生花(ごせいか)」だった。若い木を使って老木の姿を写し取る技だ。

近藤さんは「花清」の3代目である。創業者である祖父・清さんは近藤さんが小学校に上がる頃から、近藤さんを

「一(はじめ)」

とは呼ばず、

「3代目」

と呼んだ。いずれはお前が店を継ぐのだ、という洗脳教育だったのかもしれない。だからかもしれない。遊びたい盛りの幼い日々、大好きだったプラモデル作りをもっと続けたいと後ろ髪を引かれながらも、店の手伝いはした。いつの間にか「花清の3代目」を、近藤さんは

「いつかはそうなるのだろう」

    近藤さんの作品 4

と受け入れていたのである。
「花清」を受け継ぐことは、父が師範を務める華道教室を受け継ぐことでもある。教室にも出入りし、女性が多かったお弟子さんたちから

「この枝は女の力では上手く切れない。一ちゃん、切って」

といわれれば、ハサミや鋸をふるって手伝った。毎日のように花を活ける祖父や父の手元を熟視するのも習い性になっていた。
だが、それだけである。お弟子さんたちに交じって祖父や父に「華道」教わったことも、個人指導を受けたこともない。いずれは身に着けなければならないのだろうとは思っていたが、この日までの近藤さんは、華道の素人、良くいっても素人に毛が生えた程度でしかなかった。

その私に、この新居での初めての正月の花を活けてみろという。出来るだろうか? 近藤さんは見よう見まねで生け始めた。

写真:近藤さん、店で