日本1のフローリスト—近藤創さん その11 指導員

そして近藤さん、32歳。

「えっ!」

という依頼が舞い込んだ。
このころ「花キューピット」と呼ばれるようになっていたJFTD(Japan Flower Telegraph Delivery=日本生花商通信配達協会)の本部から

「フラワーデザインの指導員になってもらえまいか」

と打診されたのである、群馬県みなかみ町で開かれた花キューピッド主催のジャパンカップ会場でのことだ。この大会、近藤さんはなぜか振るわず、10位という成績に終わっていた。

「その私が?」

花キューピットには数多くの指導員がいた。年配のベテラン揃いで、一介のプレーヤーだった近藤さんには雲の上の存在、神様に見えていた人々だ。その神様の1人になれ、だって?

近藤さんの実績が認められ、後進を指導する力があると認められたのだろう。こんなに名誉なことはない。喜んで引き受けた。
わずか32歳での就任である。もちろん、近藤さんが最年少だった。そして、近藤さんを除けば、フラワーデザインの指導を職業としている人ばかりで、生花店を経営するかたわらでフラワーデザインを続けているのは近藤さんが初めてだった。その神様たちは、

「久しぶりに生きのいいのが来た」

と新参の神様を引き立ててくれた。様々な会合、コンテストなどで

「あいさつは君がやれ」

と指名された。新参者の顔を多くの人に知ってもらおうというのだろう。

「皆さんには本当に可愛がっていただきました」

生花店を経営しているからだろう、近藤さんの役回りは全国の花屋さんの指導だった。毎年5、6回、地方に出かけてフラワーデザインを知りたい、やりたいという花屋さんに集まってもらい、講習会を開いた。そのたびに10作品前後のデザインを新たに起こし、花屋さんたちの前でフラワーデザインのデモンストレーションを繰り広げた。

「さすがに近藤さんだ!」

「こんなの、見たことないね!」

という花屋さんたちの言葉がくすぐったかった。

近藤さんが教えたかったのは、フラワーデザインとは感覚の世界だ、ということである。言葉にすればそれだけだが、それをどうすれば伝えることができるか。

「皆さん、風景を見て『ああ、綺麗だなあ』と思うことがあるでしょう。そんな時、『どうして綺麗なのか』を考えるようにしてください。例えば朱に塗られた橋があり、その後ろにはモスグリーンの杉木立を背景にみごとな紅葉があって、それが水面に映っている。その色の組合せが『綺麗』なのか。針葉樹である杉と紅葉は補色関係にあるから、そのコントラストが『綺麗』なのか。『綺麗』の原因を考えるのです」

「自分はこう思う、ということを大切にして下さい。自分の『主観』を大事にするのです。フラワーデザインは自分のものを表現する世界です。そして、そのためには『綺麗』を自分で見つけなければなりません」

フラワーデザイナーとして自分で心がけていることを、心を込めて説明した。

そして、生花店を訪れるお客様の心理分析、フライトアテンダントに学ぶ接客マナーなど「花清」の3代目として身に着けた経営のノウハウにも話を広げた。生花店経営に役立つだろうからである。話を聞いてくれている人たちは生花店経営の仲間なのだ。

   近藤さんの作品 11

講習会は講師である近藤さんが逆に学ぶ場でもあった。様々な花屋さんがいて、様々なフラワーデザインをした。

「あんな考え方をする人がいる」

「あんな花の挿し方をする人がいる」

目からうろこが落ちるような発見を花屋さんたちから沢山もらった。

生花店を経営しながらの指導員である。忙しかった。だが、それを上回る充実感があった。

だがこの頃、指導員を続ける一方でプレーヤーとしてフラワーコンテストに参加し続けていた近藤さんは大きく、厚い壁にぶつかっていた。上位入賞の常連ではあった。だが、29歳の全国制覇を最後に、優勝できなくなっていたのである。再び「無冠の帝王」に戻ったかのようだった。

「何がいけないんだ?」

近藤さんは考え込むことが多くなった。

写真:テーブルウエアのデモ。右端が近藤さん

日本1のフローリスト—近藤創さん その10 熟成

「あ、私は基本に囚われすぎていたのではないか?」

と気が付いた時、近藤さんは28歳になっていた。私は学びすぎたのではないか? と思いついたのだ。
それを近藤さんは

「学ぶことの落とし穴に落ちていたようなんです」

と表現した。

人は多かれ少なかれ、学んだ知識に縛られるものである。ある知識を得る。知識は社会に立ち向かう際の武器だから、得た知識で自分の周りに塀を作って自分を守る。知識の量が増えれば増えるほど、塀の厚さが増して頑丈になる。天空を移動する太陽、月、星々を見上げた人類は長い間、動いているのは太陽や月で地球は動かないものだという知識に縛られた。その迷妄から私たちを解き放ったのはコペルニクスである。いま踏みしめている大地はどこまでも平らであり、大地に続く海も平らで、その果てからは海水が滝になって流れ落ちていると信じて疑わなかった人々に対し、地球が丸いことを証明して見せたのはコロンブスだった。知識は人を縛るのである。

近藤さんは中学1年生の頃から父。宗司さんに草心古流の華道をたたき込まれた。大学3年からはフローリスト養成学校でフラワーデザインを学んだ。華道であれフラワーデザインであれ、教えることができるのは基本だけである。刻々と変化する時代と場所、社会、状況に応じた活け花、フラワーデザインを全て教えることは不可能だ。あとは基本を身につけた個人が、基本の上に立って自分で工夫するしかない。

華道もフラワーデザインも、近藤さんは類い希なほどの優等生だった。基本は十分すぎるほど身につけた。それはそれでいいのだが、具合が悪いのは、基本とは数多くの先人が努力を重ねて生み出した理論、知恵、工夫、成果をギュッと圧縮した集大成であることだ。筋が通り、異を唱えることは難しい。天動説や地球平面説が長い間人々を縛り付けてきたのもそのためである。
いつの間にか近藤さんは、「基本」という分厚い壁を作ってしまい、その中に閉じこもっていたらしい。壁の中にいれば安楽だが、時代と響き合う躍動感がある作品は、その壁を破り、乗り越えなければ生まれないのではないか。

近藤さんはいう。

   近藤さんの作品 10

「あのころの私は、自分の作品が綺麗に見えて仕方なかった。JFTDの全国大会で2位になって、外面はともかく、内面では天狗になっていたんですね。ところが、その後の作品は基本に忠実なだけ、綺麗だけど教科書通りというものばかりですから、コンテストの審査員の目には綺麗には見えなかったんでしょう。きっと、基本という目から見れば美しく見えても、自由な発想が生み出した躍動感にあふれている他の人の作品に比べれば、つまらないものに見えたんでしょうね」

であれば、壁を破らねばならない。近藤さんは華道とフラワーデザインの融合に挑戦した。長い歴史を持つ華道は、花を美しく見せる原理・原則のかたまりのようなものだ。対するフラワーデザインの歴史は新しく、どちらかといえば個人の自由な感性を尊ぶ。

「基本が出来ていて、その上に自由な発想が花開けば、鬼に金棒じゃないですか?」

近藤さんは大きな一歩を踏み出した。

「ええ、あのころが私の転換期だったのだと思います」

29歳。しばらく蛹(さなぎ)になっていた近藤さんは、美しい蝶に変身して羽ばたいた。飛んでいった先に、日花協主催のフラワーデザイン選手権大会・総理大臣賞という栄光が待っていたのは、先に書いた通りである。

写真:花を整える近藤さん

日本1のフローリスト—近藤創さん その9 何故勝てない?

善は急げ。近藤さんは大学を卒業するとすぐに桐生に戻って「花清」に入った。そしてもう1つ「善」が重なった。5月に祐子さんとゴールインしたのである。2人3脚の歩みが始まった。

己の美しさを競うように咲き誇る花々を商う生花店は、外目には優雅な仕事に見えるかもしれない。しかし、内実はかなり苛酷である。

花の仕入れは近藤さんに任された。
地元の生花市場には、高級な花はあまり回ってこない。だから、仕入れは東京・田町の芝生花市場ですると決めてあった。お客様に最高の花を届けるのが「花清」の使命なのだ。桐生市で、そんなに遠くまで花を仕入れに行く生花店はほかになかった。

仕入れは毎週、月曜、金曜の2回。その日近藤さんは朝4時に起きた。「HANAKIYO」の名を入れた2トントラックのハンドルを持ち、ひたすら東京を目指す。早朝で道は空いているとはいえ、片道2時間半は十分にかかる道のりだ。戻りは高速道路を使ったが、往復ほぼ5時間のドライブである。

市場で競りに参加し、狙った花を競り落としてトラックに積み込む。ひたすらトラックを運転して戻ると、もう夕方になっている。店に着けば、すぐに「水あげ」をしなければならない。茎が水に浸かっていない切り花は命のもとである水の供給を断たれ、いわば仮死状態にある。茎の下の方を切り落とし、残った茎を水に浸けてやって生き返らせるのである。1日が仕入れとその後始末で終わる。

仕入れに行かない日はフラワーアレンジメントだ。華道教室からフラワーアレンジメントに店の経営を切り換えていた宗司さんは、近藤さんが高校生の頃から花をアレンジした盛り籠を店頭に並べるようになっていた。桐生では「花清」だけの試みだった。当初は1日平均で5個ぐらいしか売れなかったが、時を追って評判が高まり、この頃は普通の日でも20個前後、母の日などには200個〜300個も売れる定番商品になっていたのである。それを、店員と一緒に作る。

生花店の花は、季節に応じて年間6〜7回入れ替わる。盛り籠はそれぞれの季節の花に応じてデザインしなければならない。店員にも盛り籠を作ってもらうから基本の形をつくる。毎年同じデザインでは飽きられてしまうので年ごとのマイナーチェンジも必要だ。それも近藤さんに任された。
そしてもちろん、客が来れば応対し、聞かれればそれぞれの花の扱い方、手入れの仕方を教えるのも大切な仕事である。毎日目が回るように忙しかった。

その多忙な仕事をこなしながら、近藤さんは毎年数回、フラワーデザインのコンテストに参加し続けた。出る以上、勝ちたい。そのためには、花をもっと学ばねばならない。もっといいデザインはないものかと探求し続けなければならない。

「24歳で最初の子どもが出来ました。妻が子育てしながら、そんな私を支えてくれました」

   近藤さんの作品 9

ところが、である。コンテストへの出場を繰り返すうちに、近藤さんは

「無冠の帝王」

といわれるようになる。ポイントは「帝王」にあるのではない。「無冠」にあった。何度出ても、上位には入るが、優勝できないのである。

「実力はあるみたいなんだが、どうしても勝てないんだよねえ」

と近藤さんを揶揄する響きが「無冠の帝王」には込められていたようなのだ。

何故勝てないんだ?
近藤さんは考え込んだ。20歳でJFTD(日本生花店通信配達協会)のフラワーデザインコンテストで2位になった私ではないか。あの成績は、まだフラワーデザインを学ぶ前のものだ。恐らく、華道の基本を身につけ、その基本の上でフラワーデザインをしたのがあの成績に結びついたのだろう。華道の基本はいまでも私の中にある。そして、あれ以来、フラワーデザインも学んできたではないか。東京フラワーデザインセンターの後継者にならないかと誘われたことだってあるんだ。
それなのに、何故勝てないのだろう?

写真:仕入れ用のトラックの前で、近藤さん

日本1のフローリスト—近藤創さん その8 フローリスト養成学校

「花清」の屋号は、創業者である祖父・清さんが

「花の清さん」

と呼ばれていたのがルーツである。その清さんが、この大会に付き添っていた。自分が興した事業の後継者である子と孫が全国大会に参加する。その姿を自分の目で見たかったのに違いない。

審査員の1人に、15年前から生花店を営なむ一方でフラワーデザインの研究を続け、その世界の重鎮とまで呼ばれるようになっていた人がいた。関江重三郎さんである。その関江さんと清さんが長年の知り合いだったのも何かの縁だろう。
審査結果発表が終わると清さんが関江さんに近づき、

「うちの作品が何で1位じゃないんだ?」

と話しかけた。本気だったのか、心やすさがいわせた冗談をいったのかは近藤さんに判断できなかったが、おどけたような祖父の一言が近藤さんの歩く道を決めた。

「だったら、あなたのお孫さんをうちに勉強に来させなさいよ」

聞けば関江さんは、東京・上野でフローリスト養成学校を経営しているのだという。あなたのお孫さんをうちの学校の生徒にしなさい。私が一流のフローリストに育ててあげる。

「いやあ、あの関江さんの言葉を聞いた瞬間、ああ、これはもう逃れられないな、と観念しました」

という近藤さんは翌年、関江さんが経営する東京フラワーデザインセンターの師範科に入学した。大学は3年生になっていた。いわゆるWスクールである。大学で経営学を学ぶ一方、本格的にフラワーデザインを学ぼうと思ったのである。

そのころ知り合った女性がいた。花が好きな人だった。だからだろうか、付き合いは深まり、

「2人で生きて行こう」

と誓い合う仲になった。後に近藤さんの妻になる祐子さんである。
近藤さんは「花清」の3代目になることを決めていた。いずれ祐子さんと2人で「花清」を切り盛りすることになる。だったら、祐子さんもフラワーデザインを学んだ方が良くはないか?

結婚の相手として祐子さんを両親に引き合わせるとき、

「彼女もフローリスト養成学校に行かせたいのだが、どうだろう?」

と父に相談した。宗司さんの顔が嬉しそうに輝いた。

「それはいい。費用は俺が出そう」

いずれ夫婦なる2人は東京フラワーデザインセンター師範科の同期生になった。2人3脚で「花清」を盛りたてていく。近藤さんは「花清」の経営者、フローリストへの道をまっしぐらに歩き始めた。

関江さんの指導を受け始めてしばらくたった頃のことである。近藤さんは関江さんに呼ばれた。何事だろうと顔を出すと、思いもしなかった話を持ちかけられた。

「あなた、東京フラワーデザインセンターを継ぐ気はありませんか? いや、私の後継者になってくれませんか?」

関江さんには娘しかいなかった。いまなら娘に経営を継がせるという選択肢もあるだろう。しかし、半世紀近く前のことである。女性に事業を継がせようという人はあまりいない時代だった。

   近藤さんの作品 8

関江さんの後継者になれば日本のフラワーデザイン界を牛耳る立場に立てるだろう。フラワーデザインを一生の仕事にしようと思い定めた近藤さんには、限りなく魅力的な申し出だった。
「花清」を捨てるか? 悩んだ。考えた。揺れた。どちらの道を選ぶべきか。

父・宗司さんが弱音を吐きだしたのは悩んでいる最中だった。東京の下宿に

「俺も体が弱った。もうすぐ死ぬ。一度帰ってきてくれ」

という電話が入った。だが、戻ってみると父はピンピンしている。

「ああ、体はまだ何ともないようだが、気力が衰えてきたのかなあ」

近藤さんは決めた。

「私は3代目、跡取り息子だ。やっぱり桐生に、『花清』に戻るべきだ」

近藤さんが大学と東京フラワーデザインセンターを卒業する日が迫った。

写真:「花清」の前で、近藤さん

日本1のフローリスト—近藤創さん その7 2位入賞

近藤さんは、活け花にはある程度の自信があった。中学生で父に学び、高校生になると手ほどきを受けることもなくなっていたからである。お前に教えることはもうない、と認められたということだろう。
だが、その父が、生花店が生き延びる新しい方向として進み始めたフラワーデザインについては何も知らなかった。花をより美しく飾り付けるという意味では活け花に通じるが、でも、フラワーデザインとはいったいどういうものなのか? 手が届く限りの資料に目を通し、自分なりに考えてみた。

近藤さんによると、活け花に比べるとフラワーデザインは

・印象的にも物理的にも腰が低い。つまり重心がずっと下にある
・活け花は一方向から、フラワーデザインは全方向から鑑賞する
・空間を使って大きさを表現する活け花に対し、フラワーデザインは空間を埋め尽くそうとする

という特徴がある。何とかつかみ出したコンセプトで出品作をデザインし、創りあげた。コンテストの当日、父と一緒に新潟市の会場に向かった。父の作品、自分の作品それぞれ1つずつをひっ下げてのことである。
ところが、参加申し込みの窓口に行くと

「この大会は個人参加ではなく、店舗参加なのです。1つの店から2つの作品は出せません」

と告げられた。下調べが不充分だったのだ。せっかく持ってきた2つの作品のどちらかを捨てなければならない。だったら、出品すべきは父の作品だろう。近藤さんは素直にそう思った。宗司さんはそれまでもフラワーデザインの大会には何回か参加し、3位、4位という上位入賞を果たしている。それに比べれば、私は初参加なのだ。経験が足りない。それに、自分の作品が父のものに勝っているとは思えない。

「いや、一(はじめ)、こうして2つを見比べると、お前の作品の方がいいなぁ。俺の目にはそう見える。お前のを『花清』の作品として出そう」

フラワーデザインでも師である宗司さんがそういった。そして、近藤さんの作品に少し手を加え、「花清・近藤宗司」の作品として出品した。

「第2位、『花清』、近藤宗司さん」

競技が終わって開かれた審査結果発表で、そんなアナウンスが流れた。予想もしないことだった。まだ大学2年生でしかない近藤さんが初めて手がけた作品が、何と堂々の2位に入ったのだ。表彰状を受け取るために演壇に登ったのは名前を呼ばれた父ではなく、近藤さんだった。父が

「お前が行ってこい」

といったのである。

「いや、あれは私の作品ではありません。父の手が入って完成したものですから。コンテストって、自分だけの力で競わねばならないものでしょう。だから、私が賞状を受け取るのが何だか申し訳なくて」

そういう近藤さんは、だが、この大会で自信を得た。

    近藤さんの作品 7

「自分の中にあるものが、ひょっとしたら世の中で通用するのかもしれないと思ったのはこの大会です。花や器、木の選び方、全体の造形の仕方も間違ってはいなかったんだなあ、って。それに、父に認められたという思いもあった。心から嬉しかったんです」

父の後を継いで「花清」をやっていこう、「3代目」になろうという決心はますます揺るぎないものになった。それだけ喜びは大きかった。

あの時、

「あれは私の作品ではない」

と感じた近藤さんは、だがいまはこう思う。

「あれは私の作品ではなかったが、でも、やっぱりあれは私の作品だったのです」

2位に入ったフラワーデザインの作品は、フローリスト近藤さんの人生を支える土台になった。

写真:若き日の近藤さん2