桐生を誇りたい! アマチュア史家・森村秀生さん 第3回 お稲荷さん探索

森村さんは歩いた。徹底した現地調査である。家にあった分厚い住宅地図を抱え、カメラを片手にお稲荷さんを探して現在の本町1丁目から6丁目、そして横山町、つまり旧桐生新町を1軒1軒、歩きに歩いた。

「お宅にお稲荷さんはありませんか? それは家のどの辺りにありますか? いつ頃からあるのでしょう? できれば写真を撮らせていただけませんか?」

2004年春のことである。

お稲荷さんが見つかる。祠が堂々と鎮座しているものもあった。家と家に挟まれて余程注意しないと見のがしかねないものもあった。見つけるたびにひとつずつ、持ち歩いている住宅地図にその位置を書き込んだ。

現地調査が一段落すると、桐生新町を中心とした大きな桐生市の地図にお稲荷さんの場所を書き移した。

「おや?」

その地図を見ていた森村さんは不思議なことに気が付いた。
調べ上げたお稲荷さんにはいくつかの階層があるらしい。古くからあって後にその場所に住むようになった人が祟りを恐れてそのままにしておいたものと、明治以降に商売繁盛を願って新しく分霊して祭っているものである。だから、1つの敷地に2つのお稲荷さんが同居することが起きたらしい。

勝手に前者をオールド稲荷」、後者を「ヤング稲荷」と名付けた。土台に赤城山の小松石が使われた稲荷、敷地の中に堂々と鎮座している稲荷、その家の人が

 「古い祠でしたが、最近直しました」

という稲荷が「オールド稲荷」である。
森村さんが着目したのは、「オールド稲荷」だった。

「このお稲荷さんたち、規則的に並べられているんじゃないか?」

その「オールド稲荷」たちはは、どうやら約400年前に町立てされた桐生新町の外郭に沿って並んでいたのだ。

間もなく森村さんは、もっと大変なことに気が付く。

「このお稲荷さんたち、一定の間隔で並べられていないか?」

コンパスを取り出した。「間隔」を発見するためである。「オールド稲荷」同士の間隔は約82m。尺貫法に直せば45間である。「オールド稲荷」は、南北に走る本町通から45間離れて、南北に一直線に、それも45間間隔で置かれているようなのだ。

町立てされるまではこの一帯は荒れ地である。人がほとんど寄りつかない荒れ地にお稲荷さんを規則正しく並べるはずはないだろう。だが、町立てが終わって家が建ち並んだ後でお稲荷さんを規則的に並べるのも難しい。だとすれば,「オールド稲荷」が並べられたのは町立てと同時だということになる。であれば

「これは桐生新町の町立てで縄入れする際の目印として置かれたのではないか?」

だが、発見したかも知れない法則に従えばお稲荷さんがあるはずの場所にお稲荷さんがないこともあった。
おかしい。私が発見したと思っている法則は単なる勘違いか?

「いや、町立てからいままでの間、桐生新町では何度も大火があったと聞く。火事で燃えて再建されなかったり、火事のあとで家屋を再建する際に、邪魔になって場所を移されたりしたお稲荷さんもあるのではないか?」

そう思いつくと、自分が見出したと思う法則に従えばお稲荷さんがあるはずの場所の近くの人たちに、

「このあたりに昔はお稲荷さんがあったはずだと思うのですが、何かご先祖から話を聞いていらっしゃいませんか?」

と聞き回った。

「はい、うちでは店を建て直した時に、道沿いにあったお稲荷さんをちょっと引っ込めましてね。あれはいつだったかな……」

という人がいた。そのお稲荷さんは狭い路地を入ったところに移されていた。住宅地図には元あった場所を書き込んだ。

「ああ、確かに、あなたが言うようにここにはお稲荷さんがあったという言い伝えがあります。ずいぶん昔の火事で燃えて、そのままになっているらしいですよ」

その、あったはずのお稲荷さんも地図に書き込んだ。こうして集めた「オールド稲荷」は約60にも上った。

45間ごとに置かれたお稲荷さんとは別のお稲荷さんにも気が付いた。本町通から45間離れた南北の線上に、45間の法則に従わないお稲荷さんもあったのである。祠や鳥居を供えた立派なお稲荷さんで、桐生天満宮から150間(273m)間隔で据えられている。

「この150間ごとの立派なお稲荷さんは各町の境界を示しているんですよ。つまり本町1丁目から6丁目までの各町内は南北150間、東西は100間という法則に従って町立てされたのです」

桐生新町が生まれた時の姿がはっきりと浮き出てきた。

だが、まだ疑問は残る。森村説が核心をついているのなら、桐生新町の町立てはお稲荷さんを並べて目印にして作業が進められたことになる。
しかし、町立てを進めるための目印なら、木の杭でも打っておけば済むはずだ。なぜお稲荷さんにその役割を任せたのだろう?

森村さんの歩みは止まらない。

写真:桐生市本町2丁目の有鄰館にあるお稲荷さん

桐生を誇りたい! アマチュア史家・森村秀生さん 第2回 私、骨董屋になりました

森村さんは1950年2月の生まれである。父・義太郎さんは自動車部品を仲卸しする金井自動車部品を営んでいた。母方の祖父・山太郎さんは元小学校教師で、「露花」の俳号を持つ文化人だった。森村さんはおじいちゃん子で、骨董を愛でる山太郎さんの膝の上で一緒に骨董を見るのが好きだった。その影響だろう、小学生の頃から刀のつばを集め始め、みかん箱をいっぱいにした。中学生になると河原の石を集め始めた。教室で机の下に隠した石に見とれていて、先生に見つかったこともある。一風変わった子どもだった。

父の仕事は戦後の自動車ブームに乗り、暮らしは恵まれていた。大学を出た森村さんは家業に入った。しかし、仕事にはそれほど力が入らなかった。祖父・山太郎さんの血を受け継いだのだろう。骨董品に魅せられ続けたのである。給料が出ると、骨董屋に飛んでいく趣味人だった。

父・義太郎さんが2003年12月に身罷った。森村さんは長男である。父の初七日、霊前で誓った。

「私、がんばって家業を継ぎます」

さあ、もう趣味の骨董に現(うつつ)を抜かしている暇はない。2代目として家業を盛りたてなければならない。
だが、周りの目は違っていた。

「あんた、やっていけるんか?」

母・啓子さんと妻・悦子さんは口々にそういった。森村さんはお坊ちゃまの育ち。家業を手伝っていたとはいうものの、力が入っていたのは骨董品集めである。
加えて、自動車部品の仲卸という業態の環境が大きく変わり始めていた。客であった修理工場が部品メーカーとの直取引に乗り出していたのである。いわば、この世界でも流通革命が起きていた。そんな厳しい経営環境で、本当にあんたは会社をやっていけるのか?

「それでね、色々考えまして、父の四十九日に『やめよう!』って決めたんです。会社を閉じようって。もともと自動車はそれほど好きではないし、企業経営というのは私には向いていない、と決断しました」

閉じるといっても、突然廃業するわけにはいかない。3人いた従業員の再就職、取引先の問屋へのあいさつ、客だった修理工場が部品を調達できる道を開くこと……。やることはいくらでもあった。

「半年ぐらいは後始末に追われました」

さて、会社は閉じた。が、毎日ブラブラするわけにも行かない。身の振り方を考えなければならない。

「やっぱり、好きな事をした方がいいんだろうな、と考えました」

1年後、桐生市本町2丁目に美術・骨董品店を開いたのである。屋号を「同風軒」といった。趣味で集めてきた掛け軸、書画などの美術・骨董品と新たに仕入れた商品を並べた。ここの店主として暮らしを立てていくつもりだった。

ところがこの店主、とんでもない商売人だった。店頭に並べてある商品を売らないのである。個人の趣味で集めてきた品が客の目にとまり、

「これが欲しい」

といわれても、

「いや、それは……」

と理屈をこねて手放そうとしない。収集した美術・骨董品を売って収入を得ようと店を構えたはずなのに、いざとなるとひとつひとつの骨董品に惹かれて手に入れた時のことを思い出して手放せないのだ。

「それは、その……。それより、こちらはいかがですか」

と仕入れてきた美術品、骨董品を売りつけようとする。そんなだから、毎月の売上は目を覆いたくなるほどでしかない。そして、徐々に客が寄りつかなくなった。暇である。

そんな折りだった。

「ご主人、よほどお暇なようですね」

と店に入ってきた人がいた。すぐ近くの玉上薬局の店主、故・玉上常雄さんである。玉上薬局は文化文政期(1804〜30)に建てられた桐生市最古の建物で、11代当主の玉上常雄さんは郷土史家としても知られていた。

「聞くところによると、森村さん、あなたは歴史にも関心をお持ちのようですね。どうですか、桐生の歴史を少し調べてみませんか。どういうわけか、桐生にはお稲荷さんがやたらと多いんですよ。中には1軒の敷地に2つのお稲荷さんがある家もある。調べたら面白いと思うんですがね。腹ごなしにどうですか」

私が桐生の歴史を調べる? 考えたこともなかった誘いだった。確かに歴史も桐生も好きだが、素人の私に何かできるだろうか?

躊躇した。しかし、それから数日後、森村さんは「同風軒」の戸に鍵をかけて「外出中」の札を出し、鍵を閉めるとお稲荷さん探しに出始めた。

「どうせ客は来ないんだから、店を空けても同じことだと思いまして」

ユニークなアマチュア郷土史家、森村秀生が1歩を踏み出した。

写真:「同風軒」はこの看板を掲げていた

桐生を誇りたい! アマチュア史家・森村秀生さん 第1回 桐生は特別な町だ

桐生市の中心街は本町通である。桐生天満宮から南にほぼ真っ直ぐ下り、総延長は約1.6㎞。かつては数多くの商店が軒を連ねる繁華街だった。
北から本町1丁目〜6丁目と続く。1丁目と2丁目の境界を道が西に走っており、いまは日蓮宗の寺院、寂光院に達する。ここにはかつて、江戸幕府が置いた陣屋があった。桐生はもと江戸幕府の天領だったのである。この道沿いを横山町という。役人の町だった。

この一帯は長い間、荒戸、または安楽土と呼ばれていた。どちらも「あらと」と読む。渡良瀬川、桐生川に挟まれた扇状地で、農耕ができない荒れ地だった。この荒戸に縄入れをし、町を作ったのは徳川家康の重臣だった大久保長安と、その手代だった大野八右衛門である。この町立てがいつ始まったかには諸説あるが、いずれも1600年前後と推定している。

こうして、荒れ地に新しい町ができた。桐生新町という。いまの桐生の礎を築いた2人、なかでも現地で町立ての実務を差配した大野八右衛門は桐生の恩人といえる。
2024年は大野八右衛門の没後410年にあたる。これをしのんで3月、「桐生新町町立て祭」が開かれ、命日の3月22日には桐生市梅田町1丁目の鳳仙寺で「大野八右衛門追善祭」が催された。

森村秀生さんは桐生市本町6丁目に生まれ、人一倍の愛郷心を持つアマチュアの郷土史家である。市内を歩き回り、人に話を聞き、古文書の読み方を学び、遠くまで足を伸ばして歴史学者と語り合い、ふるさと桐生の生い立ちを自分なりに再構成してきた。
そんな森村さんが見逃せない講演会が、「大野八右衛門追善祭」の一環として鳳仙寺で開かれた。タイトルは「桐生新町と大野八右衛門」。森村さんは妻・悦子さんと一緒に話を聞きに出かけた。

会場には30人ほどの歴史好きが集まっていた。講師は郷土史家である。森村さんはメモを取りながら熱心に聞き入った。

・桐生新町の町立てには、同時代に作られた文書などの一次資料が少ない
・そのため、後代の人がさまざまな説を勝手に仕立て、真実が見えなくなっている

講師はこうした視点から、航空写真で群馬県内各地の「町立て」を桐生新町と比較することで、桐生新町町立ての正しい姿にアプローチするという。なるほど、そんな手法もあるのか、と頷きながら聞いていた森村さんは、だが、次の瞬間に

「それは違うのではないか?」

と疑問を持った。おおむね江戸時代に町立てされた場所の航空写真を示しながらの講師の話は、森村さんの耳には

「町立てされたところはいずれも真っ直ぐな道が通っている。桐生の本町通が直線であることで、桐生は特別な町立てがなされたといわれるが、航空写真を見れば町立てされたところはどこも真っ直ぐな道が通っており、桐生だけが特別なわけではない」

と聞こえた。桐生新町が特別ではないって? 違うよ、それ。

最後に質疑応答の時間があった。が、誰も手を挙げない。であれば、と森村さんが立った。

「確かに、町立てされたところには同じような一直線の道がある。しかし、それだけで、桐生新町の町立てが特別ではないということにはならないのではないですか?」

・桐生には水車を使うためだと思われる掘り割りがある
・長さが1.6㎞もある直線道路は他に例を見ない
・梅田から浄水を引いている。これも他に例がないのではないか
・桐生新町の重要な場所には深い井戸を掘っている

やはり、桐生新町は多額の開発資金を注ぎ込んだ「特別」な町立てをした町ではないのか?

講師から回答をもらった記憶はない。だが、隣に座っていた人がそっと言った。

「これ、森村さんの勝ちだね」

✖️     ✖️     ✖️     ✖️     ✖️     ✖️     ✖️

「きりゅう自慢」はこれまで、筆者が自慢したい桐生を描いてきた。だが、今回はやや趣向を変える。桐生を自慢するためには、桐生の生い立ちを知らねばならない。そう思い立ち、桐生市の中核である旧桐生新町が生まれた経緯の探索にのめり込んだ森村秀生さんの物語である。
探索の末、森村さんは

「桐生は徳川家康と深い関係がある。桐生は家康を祀る日光東照宮への入口である聖なる町として徳川幕府の手で町立てされた」

との信念を持つに至った。
森村さんの研究の後を追い、森村史学をご紹介したい。

写真=森村さん夫妻

日本1のフローリスト—近藤創さん その16 育成

魂を入れる——近藤さんは毎月1回、県内で講習会を開き始めた。対象は群花協、花キューピットのどちらかに加盟している群馬県内の花屋さんである。自分で講師を務めた。それだけでなく、年に数回は外部から講師を招いた。全国大会で上位に入賞する後進を育てたい!

ゼロに極めて近い地点からの出発である。成果はなかなか出なかった。個人レッスンまでした伊勢崎市の花屋さんが、ワールドカップにつながる花キューピットのジャパンカップで3位に入賞したのは、やっと1995年になってからだった。近藤さんが若手育成に取り組み始めて10年もの歳月がかかったことになる。それから10数年後、日花協(日本生花商協会)のコンテストで優勝したのは草津の花屋さんである。近藤さんの長女メイさんが同じコンテストで2位に入るまでには、それからさらに8年ほど待った。
成果は、少しずつだが確実に現れ始めた。

しかし、近藤さんはいう。

「ホント難しいですねぇ、若手を育てるって。基本は教えることができます。しかしどう工夫をしても、私にできるのはそこまでです。フラワーデザインというのは、最後は感覚の世界ですから、あとは身につけた基本をベースに一人ひとりが自分の感性を研ぎ澄ますしかない。そこは指導が及ばない世界ですからねえ」

では、感性を磨くには何が必要なのか。

「色彩、造形のすべてです。衣服のカラーリング、建築の造形、色、内装色、店舗デザイン、自動車のデザイン……。流行色が年々変わり、色の組み合わせも常に新しくなる。ビルの建築様式も変われば、目新しい店舗が次々に登場し、車はモデルチェンジを繰り返す。時代が求めるものは年々変わります。いまの時代のあらゆるものを見て、触れて、感じて、吸収し、次に来るものを予想して自分で形作る、ということでしょうか。言うは易く行うは難し、ですけどね」

2022年、「花清」の4代目である次男、薫さんが花キューピットのジャパンカップで7位に入賞した。

「ええ、喜んでいます。薫には私を超えて欲しいですね」

2018年、近藤さんはすべての役職を退いた。もう時代の最先端の感性を吸収し生み出すことはできない年齢に達したと自分で判断した。新しい時代を切り拓くのは若い人に任せるしかない。かつての日本1のフローリストはいま、一介の花屋のおやじになった。

近藤さんの作品 16

だが、このオヤジには自分が創作したフラワーデザ

「フラワーデザインの写真集をつくりたい。作家を紹介してほしい」

と花キューピットに依頼し、近藤さんが12人の1人として推薦されて出来た本である。書名を「現代のフラワー・アーティスト 近藤一」という。プロのカメラマンが近藤さんの作品を撮り、美しいカラー印刷で近藤さんが生み出した「美」を伝えている。
その写真集を開いた。「出会い」「やすらぎ」「響き」「うつろい」「喜び」というテーマに分けられて近藤さんの作品が並ぶ。得も言われず美しい。

写真集をめくりながら思った。この造形を産みだした感性はいまでも近藤さんの中に息づき、客の求めで手がけるフラワーデザインに生きている。近藤さんはやっぱり、一介の花屋のおやじではない。

✖️     ✖️     ✖️     ✖️     ✖️     ✖️     ✖️

最後に1つだけ受け加えておく。近藤さんの名前である。
両親にもらった戸籍上の名前は「一」である。だが、両親とも亡くなったあと、「創」に改名した。どちらも「はじめ」と読む。
華道、草心古流の家元として、父・宗司さんは「理宗」の雅号を持つ。それを引き継いだ近藤さんの雅号は長年「理一」だった。

「あまりに簡単すぎるような気がしまして。創にすると、雅号は『理創』になって読みも父の雅号と同じになりますし」

戸籍名までは変えていないが、いまは「創」で通している。
連載のタイトルに「近藤創」と書き、本文では「一」と書いているため、どこかで説明しなければと思っていたが、これまでの文脈では機会がなかったので最後に付け加えた。

写真:近藤さんはおしゃれである

日本1のフローリスト—近藤創さん その15 仏つくって

1980年代の後半、日本は未曾有の繁栄を謳歌した。株価、地価が天井知らずに上昇した。札束に羽が生えて日本中を飛び回っていると表現する人もいた。
そのバブル経済が崩壊したのは1990年である。景気が過熱したと判断した日本銀行は89年5月から金利を引き上げ始めた。歩調を合わせるように政府も地価抑制に動き出す。それでも日経平均株価は89年末に3万8915円の史上最高値をつけたが、さすがに年が明けると株価に伸び足がなくなった。こうして日本は失われた10年、20年、30年といわれる時代に足を踏み込んだ。

近藤さんが世界1への夢を諦めた1995年は、バブル経済の崩壊が地方都市でも肌身で感じられ始めた年でもあった。生花店の売り上げが落ち始めた。売り上げにブレーキがかかり始めた花屋さんは、後継者はともかく、店員までをコンテストに送り出すゆとりをなくし、勢いコンテストの出場者が減った。フラワーデザインの世界にもバブル崩壊の波が押し寄せてきたのである。

それなのに、作品はまだバブルの痕跡を引きずっていた。作品は相変わらず年々大きく、豪華になったのである。確かに、見応えはある。だが、狭い作業場しかない花屋さんには、大きな作品は練習する場所がない。やりたくてもできないのである。出場者の減少にますます拍車がかかった。

ワールドカップ国内予選から1ヶ月後、近藤さんは花キューピットの指導員を降りた。直接の引き金が世界1への道を絶たれたことだったことは間違いない。だが、世の変化を感じ取った近藤さんが

「このままではフラワーデザインが衰退してしまう」

という危機感に駆られたからである。世界1への夢は諦めた。しかし、フラワーデザインの衰退はなんとか食い止めたい。何をしたらいいのか?

続けてきた花キューピットの指導員を続けて全国の花屋さんを指導するのも1つの選択ではある。だが、近藤さんは違った道を選んだ。もっと身近な地元群馬のフラワーデザインを底上げしようと思い立ったのだ。私は1人しかいない。1人で出来ることには限りがある。薄く広く後継者を育成するより、身の回りに力を集めて地盤を踏み固める方がいいのではないか?

   近藤さんの作品 15

それまで群馬県は近藤さん一強の時代が続き、後進が育っているとは決していえなかった。大きなピラミッドを作ろうと思えば、基盤を大きく、丈夫にしなければならない。競い合うライバルが数多くいて初めて、その頂点に立つ者はほかの誰よりも高みに立つことができる。考えてみればこれまでの群馬は、基盤が小さいのに私だけが何故か高くにいた。それが失敗の原因ではなかったのか? 私以上のフローリストを地元から出したい。それにはフラワーデザイナーを増やし、育てなければならない。

近藤さんは32、3歳のころ、群馬県生花商業協同組合(群花協)の専務理事に頼まれて「フラワーデザインコンテスト 群馬グランプリ」を立ち上げていた。若手フローリストを育成するのが狙いではあった。しかし、近藤さんは相変わらず家業の傍ら全国を飛び回って講習会の講師を務め、様々なコンテストへの出場を重ねていた。地元で後進の育成に力を注ぐ余裕などほとんどかった。ジャパンカップの県予選として大会は毎年開催してはいたが、相変わらず近藤さんを脅かすような若手は出て来なかった。

「これでは、仏作って魂入れず、じゃないか、と気が付きまして。それで、魂を入れなきゃと思い立ったんです」

近藤さんは動き始めた。

写真:近藤さんは桐生えびす講の世話人も務める