デザイナーの作り方 片倉洋一さん 第7回 「珠」ができた!

片倉さんと岡田さんは、水溶性不織布の上下面に半球を作ることにした。縫い上がった後で不織布を溶かせば「珠」になるはずだ。
何度も繰り返すうちに、やっと「珠」らしきものが姿を現した。だが、まるで算盤玉のようにひしゃげ、地球でいえば赤道部分がとんがっている。

「これは『珠』とはいえないね」

だが、「珠」の原型らしいものはできた。問題は、この出っ張りをどうなくすか、だ。

まず、糸の結び目のような核を作ってみた。あとはケーキのスポンジ部分に生クリームを塗って仕上げるように、この核の周りに糸を重ねればいいのではないか?
0.1㎜単位で、針を落とす場所を変えた。うまく行きそうなこともあった。逆にさらにひしゃげてしまったこともある。
だが、算盤玉は少しずつ「珠」に近づいていった。

次に直面したのが、糸のずれである。刺繍が終わって不織布を湯で溶かしてしまうと、しばしば糸がずれてバラバラになるのである。まるでドミノ倒しのように、1本の糸がずれると次々にずれてしまう。縫う時に何本かが中心からずれてしまい、糸にかかるテンションが不均等になるのが原因らしい。

「説明は難しいですが、アーチ建設の考え方を取り入れました。アーチの円形になった部分は、まず円形の型(「支保工」といいます)の上にレンガを並べていきます。煉瓦は直方体ですから、隙間ができる。その隙間には濡らした砂などを入れます。レンガを並べ終わったら、支保工を取りはずします。すると煉瓦の自重で煉瓦同士がかたくかみ合って安定します。その考え方を応用しました」

アーチ建設の考え方の応用。そういえば、片倉さんは物理も得意な工学部出身者であった。

それでも、なかなか

「できた!」

とはいかなかった。針の落としどころを少し変えたら、針で何回も刺された糸が切れて毛羽が立った。折角ふっくらと仕上がりつつあった「珠」が、最後の瞬間につぶれたこともある。
糸の回し方を何度も変えた。糸のテンションも様々に試した。試行錯誤を続けた。

2013年のインテリア・ライフスタイル展が1ヶ月先に迫った。そこに、糸で「珠」を作ったアクセサリーを出すのが目標である。だがまだ、

「これでいい」

という「珠」はできていない。

そんなある夜のこと。出来上がったばかりの部分見本をルーペで調べていた片倉さんがボソッといった。

「できちゃったねえ」

できた! ではない。できちゃった、であった。恐らく、自分でも半信半疑だったのではないか。
気を取り直してもう一度調べた。毛羽はない。「珠」に目立った歪みはない。まだ算盤玉に近いが、小さな「珠」ならいびつさもそれほど目立たない。これならインテリア・ライフスタイル展に出せる。
上糸と下糸のたった2本の糸が、「珠」が連なったチェーンになった瞬間だった。

岡田さんがルーペを奪い取り、長さ20㎝ほどの部分見本を自分の目で確かめた。

「ほんと、できちゃった」

すぐに笠原社長に知らせた。社長はもう布団に入っていたのか、パジャマ姿で工場に駆けつけて来た。

「うわー、できてるねえ。よかった。助かった。ありがとう、ありがとう!」

刺繍で作った、「珠」のあるアクセサリーのプロトタイプが出来上がった。

写真:ポートレート

デザイナーの作り方 片倉洋一さん 第6回 数学の発想

片倉さんの父・義則さんは、神奈川県平塚市にある県農業総合研究所の研究員だった。研究用の野菜を育てるのが役割である。絶対に手抜きをしない厳密な作業が求められる仕事だ。そのためか、自分に厳しい戒律を課す人だった。その姿勢は息子の片倉さんにも向けられた。手抜きを、中途半端を絶対に許さない。

「これ、できないよ」

と言おうものなら、

「洋一。簡単に諦めてはいけない。お前はすべての可能性を試してみたのか? できないとは、すべての可能性をつぶしてからいう言葉だ」

と叱られた。
夏休みの宿題で出たポスター作り。夏休みの終わり近くにやっと仕上げた作品を父に見せると

「なんじゃこりゃあ〜」

「洋一、手の抜きすぎだ」

「やり直せ」

の3つの言葉が返ってきた。叱られた。深夜までかかって描き直した。この作品が市の作品展に入賞する。
この父ありてこの子あり。「珠」づくりにも現れた、可能性をトコトンまで追究するのは片倉さんが父から植え付けられた特性である。

さて、刺繍で「珠」を作らねばならない。どうすれば糸で「珠」を作れるのだろう。

「珠」にするには糸を重ねなければならない。
重ねる糸は、すべて「直線」である。糸を曲げたら、曲げたところが後で緩んで刺繍がバラバラになるし、そもそもミシンで糸を曲げることはできない。
しかし、直線の糸をどう重ねたら、曲面でできた「珠」になるのか。

頭の中で、すべて直線でできた「珠」を思い描く。その「珠」を平面で切ったときの糸の流れは何となく想像できる。しかし、「玉」は3次元だ。3次元座標でいえば、xyz軸のxy軸については何とかなりそうだが、これに奥行きにあたるz軸が加わるとちんぷんかんぷんだ。
どうやったら「珠」が作れるのだろう。
頭がすっかり混乱して、一度は放り投げた。しかし、父にたたき込まれた、私はすべての可能性を追究してみただろうか、という思いは消えない。

ふっと思いついたことがある。数学で出てくる図形である。
円には無数の接線を引くことができる。逆に無数の接線を引けば、そこに円が現れる。こんな図である。

     techtyの日記からお借りしました

 

「珠」にも無数の接線が引ける。だとすれば、無数の接線を引けば、やがて「珠」が現れるはずだ。幸い、接線は直線である。接線をミシン糸に変えれば「珠」が出来るのではないか?
恐らく、数学が得意な片倉さんでなければ生まれない発想だったのではないか。

早速、社内のプログラマー、岡田富士子さんに相談した。刺繍糸をこんなように回すプログラムはできますか?

岡田さんは

「やってみましょう」

と引き受けてくれた。

片倉さんも岡田さんも、勤務時間はOEM(アパレルメーカーや問屋の注文通りに刺繍をする仕事)で忙しい。新製品の開発に使える時間は、1日の仕事が終わる夕方からである。

刺繍の工程をひとつひとつ見直した。刺繍ミシンを制御するプログラム、糸、糸にかけるテンション、針、Aのやり方とBのやり方では、どちらが「珠」に近づくか……。

毎日、夜10時、11時まで2人は刺繍による「珠」作りに熱中した。工場に隣接した自宅に住む笠原社長、奥さんの京子さんは2人に夕食を差し入れてくれた。

写真:社内での談笑風景

デザイナーの作り方 片倉洋一さん 第5回 糸を作る

時間を少しさかのぼる。「000」の最初のヒット作となった「DNA」の話である。

前述したように、「DNA」は細胞内で遺伝情報の継承と発現を司り、独特の二重らせん構造を持つ。それを模したアクセサリーは、幹から沢山の枝が出ている。この枝には「張り」がないと、首に巻いた時枝分がだらりと垂れ下がり、少し離れてみれば布をクルクルと丸めて首に掛けているように見える。だらしないのだ。

枝に張りをもたせるにはどうするか。それが開発の鍵だった。片倉さんは倉庫にあるあらゆる刺繍糸を試してみた。絹、木綿、レーヨン、合成繊維、金糸、銀糸……。
どれもこれも不合格だった。枝どころか、幹すらふにゃふにゃして張りがない。

いや、「DNA」が必要とする糸は、腰が強いだけでは足りない。「DNA」はアクセサリーなのだ。美しさ、光沢、色……。

「使いたい糸がないのです。では、諦めるか? とんでもない。私たちは『000』の開発をしていたんですよ!」

「000」は「0(ゼロ)」を3つ重ねたものだ。それには意味がある。3つの「0」は、それぞれ技術、素材、発想(デザイン)を現す。刺繍の大切な3つの要素を、常にゼロから洗い直して製品作りをする、という志を込めたネーミングである。

だから「000」は既成概念に捕らわれない。「無理」を「できる」に変えようと挑み続ける。いま直面している「無理」は、使える糸がないということである。では、どうすればこの難題を突破できるか?

「欲しい糸がなければ作ってしまおう!」

と片倉さんたちは考えたのだ。

アクセサリーである。やはり華やかさが欲しい。ラメ糸を使おう。
ラメ糸はポリエステルのフィルムに金・銀を蒸着させて作る。だから、元はシートである。これを細くカットして糸にする。これをスリット糸という。

「だけど、その糸はフニャフニャだろう?」

その通り、このままでは「DNA」には使えない。そこで片倉さんたちはスリット糸に撚りをかけた。
1本の糸に、もう1本の糸を右巻きしていく撚りを右撚りという。左巻きにすれば左撚りだ。どちらも試した。しかし、撚った糸は元に戻ろうとする。ケミカル刺繍をして台紙を溶かすとよじれが出るのだ。これは使えない。どうしたらいい?

        DNAに使う糸

救いの手は身近から来た。刺繍糸を笠盛に納めている市内の糸商である。K社長が

「たすき撚りという手法もありますよ。Wカバリングともいいます」

と教えてくれたのだ。カバリングとは芯になる糸の周りに表面に出したい糸をコイル状に巻きつけていく手法だ。Wカバリングは巻きつける糸を2本にする。たすきをかけるように交互に巻きつけていく。当時は芯なしで撚ることが出来るようになっており、片倉さんはそれを採用した。

「おかげで糸のよじれがなくなりました」

が、糸づくりはまだまだ終わりではない。使える糸にするには

・刺繍のしやすさ
・適度な太さ
・商品にしたときの見栄え
・着け心地
・品質の安定

実現しなければならないことは山ほどあった。

「試作だけでも、何十回も繰り返しました。何とか使えそうだという糸ができてやっと『DNA』 の製造に取りかかりました。はい、その後も糸に改良を加えているのはもちろんです」

たった1つの製品を作り出すのに、これだけの手間をかける。それを支えているのが「000」精神である。

写真:工場で

デザイナーの作り方 片倉洋一さん 第4回 真珠

「やっぱり『珠』を作ってみようよ」

片倉さんが職場の仲間に声をかけたのは「000」からクッションを外すと決めて間もなくだった。クッションを作らないのなら、刺繍で作ったアクセサリーをもっと魅力溢れるものにしてより多くの人に

「身につけたい!」

と思ってもらわねばならない。2次元の刺繍ではデザインにも造形にも限界がある。だから3次元の「珠」がいる。挑んでみよう。

「やっぱり」というのは、刺繍で「珠」を作る話は、職場で一度出たことがあるからだ。1、2年前、次のライフスタイル展に向けて新しいアクセサリーを企画していた時、誰かが

「『珠』が欲しいよね」

といった。その時は

「無理、無理!」

とみんながいった。ベテランの職人さんたちは

「できるはずないだろ、そんなもの」

と真っ向から反対した。

いや、「珠」が欲しいといった本人だって、そんな常識破りができるとは思っていなかったはずだ。紐状ではアクセサリーにはなりにくい。出口はないか? と思案していて、

「刺繍で立体が作れたらいいよね。できないだろうけど」

程度の思いつきだったはずだ。

あの時の記憶はみんなに残っていたはずだ。だがこの時、片倉さんが

「やっぱり『珠』を作ってみようよ」

と呼びかけると、誰も

「無理、無理!」

とは口にしなかった。クッションを「000」から外した以上、決定的な何かがアクセサリーにいる。恐らく、そんな意識を全員が共有していたからだろう。挑んでみよう。「無理」を「できる」に変えてみよう。意欲がみんなの目から読み取れた。

     DNAラリエット

片倉さんが「珠」を求めた理由はもうひとつある。
「000」の第1号に、「DNA」があった。DNA(デオキシリボ核酸)は独特の2重らせん構造をしている。これを模してデザインしたラリエット(留め具がない装身具。首の周りや髪に飾る)だ。
東京都内の百貨店の店頭に立って販促活動をしていた時だった。50歳がらみの女性が「DNA」を身につけてやって来た。片倉さんが、これは自分が企画、デザインしたものだと話すと、彼女が言った。

「ああ、そうなの。着けてるとお友達からよく褒められるのよ。とってもユニークで人とはかぶらない個性がいいわね、って。それに、軽いから着けててとても楽! でもねえ、デザインが目立ちすぎて、毎日は着けられないのよ。あ、また同じアクセサリーをしてる、と思われちゃうでしょ」

客の言葉には、往々にして製品開発のヒントがある。この言葉は片倉さんに刺さった。

毎日身につけることができる。それには主張しすぎない、悪目立ちしないシンプルなデザインでなければならない。「Simple is best. 」とはデザインの王道でもある。
さて、毎日身につけられるシンプルでお洒落なものとは……。真珠だ! 刺繍で真珠を作れないか?
シンプルで、笠盛のある群馬らしくて、日本の美を表現するもの……。シルクの糸で、真珠のような「珠」が連なったネックレスを作りたい!

片倉さんはそれを

「引き算の発想でした。英語にはLess is More.という言い方があるんです」

という。

いずれにしても、「珠」がいる。といっても、刺繍でどうやったら「珠」ができるのか、片倉さんにも仲間たちにも、具体案があったわけではない。何しろ、「珠」は無理、というのが刺繍界の常識なのだ。意欲だけは常識を打ち破ることはできない。

「次回のインテリア・ライフスタイル展までに、なんとか刺繍で『珠』を生み出さなければ」

ゼロからの挑戦が始まった。使える時間は、もう1年を切っていた。

写真:片倉さんの事務机

デザイナーの作り方 片倉洋一さん 第3回 「000」ブランド

「000」というブランドが誕生したのは2010年ことだ。
刺繍業とは下請け業である。景気の陰りをいち早く受け、景気の好転は遅れてやって来る。常に同業他社との価格競争に晒され、利益率は圧迫され続ける。
だから、消費者に直接届く独自ブランド製品を持ちたい、市場で勝負したい、消費者と直接向き合いたい、と笠原康利社長(当時)は願い続けた。そうすれば利益率は上がり、自社で生産計画が立てられ、経営判断もできる。

そう思い続けていたところへ、モーダモンで「KASAMORI LACE」のアクセサリーが大きな反響を呼んだ。

「これなら市場で勝負できる製品になる。ファクトリーブランド商品に育てることができる!」

      「000」のロゴ

と決断して「000」ブランドを立ち上げたのだ。そして、独自ブランドを欲しがったのは笠原社長だけではない。まだ一介の刺繍職人でしかなかった片倉さんの思いでもあった。独自ブランドで、デザイナー、クリエーターとしての腕を存分にふるってみたい。

「000」を名乗るのは、モーダモンで好評だった「KASAMORI LACE」のアクセサリーである。だが、当時笠盛と契約していたブランディング・アドバイザーは

「ブランドを普及させるのに、商品が1つでは弱い。もう1つあった方がいい」

とアドバイスした。それなら、と笠盛はもう一つの得意技であるレーザーカットを駆使した高級クッションを「000」に加えた。

  2011年のライフスタイル展•。クッションが展示の中心だ

「000」のデビューは2010年初夏のインテリア・ライフスタイル展である。売れた。とはいえ、「笠盛」の総売上の1%にも満たなかったが、初めて世に問うオリジナルブランド商品としては、期待以上の売れ行きだった。特にクッションが売れた。
2011年、アクセサリーは売上を伸ばした。ところがあれほど売れたクッションは需要がしぼんだ。
2012年、アクセサリーはさらに勢いを増した。しかし、クッションの売れ行きはますます落ち込んだ。

「何故だ?」

社内で何日もかけて議論した。見えてきたのは、クッションのほとんどは住宅メーカーに買い上げられたことだった。住宅展示場用らしい。笠盛のデザイン力を活かした高給クッションは、住宅展示場のモデルハウスに置かれて住宅の高級感を醸し出す道具になっていた。高い評価を受けたとはいえる。だがモデルハウスの数には限りがあるから、需要が一巡して売上がバッタリ止まったのだった。

クッションも「000」の柱の1つである。年々減っているとはいえ、売上げもある。家庭への普及をねらって値下げするか。それとも、撤退するか。
しかし、素材を選び抜き、手間も暇もかけなければできないクッションだ。いまの価格を通さなければ赤字になってしまう。笠原社長も片倉さんも悩んだ。

「クッション、やめてもいいんじゃない?」

立ち話でそう言ったのは、仲間の高橋裕二さんだった。オランダで勉強した後、日本の大手デザイナーブランドで働いて笠盛に来た頼りになる男である。

「そうだよね。アクセサリーとクッションが同じブランドじゃ、お客さんだって戸惑うでしょう」

という仲間もいた。フッと2人からモヤモヤが晴れた。そうだ、「笠盛」の本業は、一番得意なのは、刺繍なのだ。自社内ではできない工程もあるクッションは、「笠盛」の本業ではない。よし、クッションはやめよう!

「000」ブランドを担うのは、ケミカル刺繍のアクセサリーだけになった。だが、伸びているとはいえ、売上は「笠盛」の屋台を支えるほどの額にはなっていない。いまの紐状のアクセサリーでは限界がありそうだ。

片倉さんは考え込んだ。

写真:「000」に使う糸の在庫の前で片倉さん