桐生を誇りたい! アマチュア史家・森村秀生さん 第15回 家康はどこで神になったのか

森村さんの研究が次に向かったのは、家康の遺体の遷座である。
徳川家康は元和2年(1616年)4月17日、駿府城で身罷った。当時の数え年では75歳の生涯、満年齢で数えると、73歳4ヵ月の生涯だった。亡骸は遺言に従い、その日のうちに久能山久能寺に葬られ、その1年後の元和3年4月、亡骸が日光に遷された。

「そうであれば、不死の道とは徳川家康が神となって永遠の命を手に入れるために通らなければならない道程だったのではないか」

と考えついたのである。不死の道は一直線に描かれていた。もちろん、実際に家康の亡骸が久能山から日光まで完全に一直線に進むことはできないことだ。だが、できるだけ不死の道に沿って進もうとしたのではないか?

森村さんは行程表をつくってみた。

3月15日 久能山出発
3月15日 善徳寺(富士市今泉) 1泊 36.1㎞
3月16,17日 三島(三島市) 2泊 21.1㎞
3月18,19日 小田原(小田原市) 2泊 40.0㎞
3月20日 中原(平塚市) 1泊 21.3㎞
3月21,22日 府中(東京都府中市) 2泊 46.3㎞
3月23,24,25,26日 仙波(川越市) 4泊 30.6㎞
3月27日 忍(埼玉県行田市) 1泊 27.4㎞
3月28日 佐野(栃木県佐野市) 1泊 23.5㎞
3月29日、4月1,2,3日 鹿沼 4泊 40.7㎞
4月4日 日光到着 29.0㎞

※旧暦3月は小の月で、29日しかない。

「日光市史」によると、家康の御霊を乗せた神輿には、鎧兜に身を包んだ騎馬武者や槍を抱えた兵らに加え、僧侶、重臣、事務を執る役人ら、それに食事など身のまわりの世話をする従者も付き従う大行列だったという。いま日光東照宮の春秋の例大祭で催行される「百物揃(ひゃくものぞろい)千人武者行列」が当時の様子をいまに伝えているといわれる。

この行程表を見ながら、森村さんは仙波(川越)と鹿沼に目を惹かれた。ほかは1泊か、せいぜい2泊なのに、この2つの宿泊地では4泊もしている。亡骸を運ぶ旅である。同じ場所にどうしてそんなに長く滞在したのだろう?

ほかの史料にあたっていて、不思議なことに気が付いた。この遷座の旅には、都の朝廷から権大納言・烏丸光広卿が派遣され、後水尾天皇の綸旨(綸旨=天皇の命令文書)をもって加わっていた。家康が神になることを許す文書である。この綸旨がなければ、家康は東照大権現にはなれない。
ところが、川越までは確かに同行した烏丸光広卿は、一行が川越を発つと隊列から離れ、京に向かって旅立っているのである。なぜ日光まで同行しないのだろう? 不思議な行動だ。

そして、川越には喜多院がある。天海僧正は慶長4年(1599年)、この喜多院の第27代住職になっていた。慶長16年(1611年)に川越を訪れた家康は天海と親しく言葉を交わし、よほど心を揺さぶられたのだろう、寺領として4万8000坪と500石を与えたと伝わっている。家康の遷座が実行された元和3年にも、天海僧正はもちろん喜多院の住職だった。
加えて、一行が川越に4日間とどまっていた間に大きな法要が営まれたといわれている。

「この2つ事実を重ね合わせると、大規模な法要というのは、徳川家康を東照大権現、つまり仏から神に変化させる儀式だったとしか考えられません。なぜなら、天皇の使者である烏丸光広卿には、家康が神になったことを確認する責任があったはずです。川越の喜多院で家康が神となったことを見届けて役目を終えたので帰京したとしか考えられないではないですか

これまで、徳川家康がいつ、どこで神になったかに触れた研究はあっただろうか? 森村さんが研究書に目を通した限り、そんな記述はなかった。

「家康は元和3年3月23,24,25,26日、川越の喜多院で東照大権現という神になったのに違いない」

森村さんは歴史に新しい1ページを加えたのかも知れない。

写真:不死の道、謎の斜めの線、家康の亡骸を改葬する旅……。森村さんは数多くの地図を自作した。

桐生を誇りたい! アマチュア史家・森村秀生さん 第14回 山王一実神道の2

山王一実神道は難しかった。
まず、教義がはっきりしない。研究書がほとんどない。いったい、どんな宗教なのか?

徳川家康は山王一実神道の教えで日光東照宮に祀られた。であれば、日光東照宮になら山王一実神道の研究成果があるかも知れない。
森村さんは日光東照宮に出かけた。東照宮宝物館の学芸員に会って山王一実神道についてあれこれ質問した。だがはかばかしい答えは出て来ない。要を得ないまま帰宅するほかなかった。
その学芸員から突然、封書が送られてきたのはしばらくしてからである。何事だろうと封を切ると、1959年に日光東照宮が発行した雑誌「大日光 第12号」の一部分のコピーが入っていた。池上宗義さんという方が書かれた「山王一実神道私攷」という論文だった。

読んで

「なるほど。これじゃあ分からないはずだ」

と思った。山王一実神道は

 「江戸期は勿論、それ以後に於いても当宮の神秘について集成し、且之を公開するを厳に禁ぜられてゐた」

と書いてあったからだ。山王一実神道は秘教なのである。教義を編集することも公開することも禁じられている。それでは調べようがない。研究書がほとんどないことも当たり前なのである。山王一実神道は難物だった。

それに、森村さんが理解するところ、山王一実神道とは徳川家康を神にすることを目的にした宗教である。家康を東照大権現にしたことで役目を終えたともいえる。あとは東照宮で秘儀として守っていればよく、広く布教することを試みた痕跡はない。
調べても調べても、なんとも手の付けようがない難物だった。

慶応義塾大学法学部教授、片山杜秀さんが書いた「歴史を預言する」(新潮新書)を手にしたのはつい最近である。 その1項に「増上寺幻想—首相・将軍・大権現」があった。読み始めた森村さんの目が輝いた。森村さんが目を惹かれたところを引き写してみよう。

「新しい幕府は安泰か。いや、家康があの世に旅立ち、昔の思い出として墓所に祀られるだけになっては、威光も薄れざるを得まい。
どうするか。死してもこの世に行き続けている感じがほしい。家康のブレーンであった天台宗の僧侶、天海がみごとに工夫した。死した家康は東照大権現とされた。権現とは神と仏の一体化したものだろうが、権と現の2文字で構成されているのは伊達ではない。この世にいつも居て、日々現れて,強い権勢を示すから権現なのだ。しかも、天海によれば、東照大権現は権現の中でも山王権現と同体という。山王権現とは比叡山から生まれた神仏混淆思想のひとつの理想的形象だ。聖なるあの世と俗なるこの世は神仏を兼ねるひとりの権現によって統べられていて、この世を統べるとは万民に幸福をもたらして天下を泰平にすることだと考える。家康は、江戸に幕府を開き、長い戦乱の世を終わらせたことによって、衆生に地益をもたらし、聖俗を貫く絶対権威かつ権力としての一仏一神、すなわち山王大権現こと東照大権現と化した。そのように天海は説く。
そんな東照大権現はどこに居る? 静岡の久能山にもだが,やはり日光だ。日光は江戸の真北。北極星の輝く方向。道教では北極星を天皇大帝と呼ぶ。日本の天皇の語源はそこにあるとも言われる。さらに付け加えれば、天海によると、東照大権現は天照大神よりも格が上とされる。
家康と天海はこのようにして、武家の棟梁たちの直面してきた難題の解決をはかったのだろう。天下を泰平にした実力者がこの世でもあの世でも一番偉い。将軍は天皇の上に、大権現は天照大神の上にあると考えてもよい。家康は死してこそ、徳川の権威と権力を完成させたのか。日光の天と地で輝くことによって。天海の名プロデュースである」

山王一実神道はどこにも登場しない。しかし、その考え方は何となく分かる。
森村さんは

「我が意を得たり!」

と思った。

写真:送られてきた「大日光 第12号」のコピー

桐生を誇りたい! アマチュア史家・森村秀生さん 第13回 山王一実神道の1

森村さんが自宅に「桐生山王一実研究所」の看板をかけたのは2014年1月のことだった。不死の道と桐生新町の謎の斜めの線。その解明に行き詰まった森村さんは、であれば、徳川家康の人生観、世界観までを知らねば、と考えた。そこに謎を解く鍵があるのではないか。取り掛かったのは山王一実神道の解明である。

山王一実神道は天台宗を基礎として生まれた神道の一派で、晩年の家康が帰依したといわれる。極論すれば家康を神にするための宗教ともいえる。
徳川家康が死後、神になることを遺言で残したことは「第11回 世良田東照宮」で書いた。「八州之鎮守」になろうというのである。私は死んだ後も、八州=日本の、鎮守=守り神、になる。
では、何という神になるのか? 長く家康の側近だった金地院崇伝、家康の亡骸を久能山久能寺に祀った神龍院梵舜は「大明神」を押した。梵舜は吉田神道につらなり、吉田神道は神格化のプロ集団である。太閤秀吉は死して吉田神道の手で「豊国大明神(とよくにだいみょうじん)」になった。その前例にならおうというのである。

これに真っ向から反論したのが天海僧正だった。家康公はなぜ吉田神道で「大明神」にならねばならないのか?

最後の決め手は、この一言だったと伝わる。

「豊臣秀吉公が大明神になられた豊臣家は滅亡した。その例にならおうというのか? 家康公は権現の神になるべきである」

2代将軍秀忠は天海僧正の説を採った。こうして家康は山王一実神道によって東照大権現になった。

日本では奈良時代から神仏習合が進んだ。新しく渡来した仏教と、日本固有の神道の一体化を図ったのである。仏が神の姿になって日本に現れるという本地垂迹説が唱えられた。平安末期から鎌倉時代にかけて天台宗を基本として山王神道が生まれた。天台宗の僧である天海僧正がこれに「一実(森村さんは「蓮の実」でり、法華経の教えだと考える。一般的には「唯一の真理、だと解釈されている)」を加え、山王一実神道を提唱した。徳川家康はこの山王一実神道によって神になった。だが、家康が眠る日光東照宮でも長く秘儀とされ、全容ははっきりしない。

山王一実神道の研究を始めた森村さんは寛永寺が編集・出版した「慈顔大師全集」(慈顔大師とは天海僧正のこと)全2巻が発行されていることを知り、国会図書館に問い合わせて研究に必要だと思われる部分をコピーしてもらった。その1つが、上巻81ページから始まる「一実神道秘決」である。

「凡我大法に帰して、山王一実の法を信し、存生の日にもあれ、もしは滅後にもせよ、純一実相の神変に乗して……」

と始まるこの項を、森村さんは現代語訳してみた。

「おしなべて、私は、大乗の仏法を心のよりどころとして、山王一実の法を信仰している。生ある時も、もしくは死後においてでもある。純粋に現象界の真実の姿を極め突き詰め行動すると(一実)、神へと変化する。さらに、その力を重ね合わせ、大明の神呪へと変身・変現し神へと成りたるものは、その身は、必ず如来様のお住みになる常寂光の世界に、仏法を身につけた如来として安住するのである。故に、心身をあらゆる世界に張り巡らし、一実の誓いに全てを任せ、偏りない心を保ち、現世のあらゆる実態に対応して、現実的な富を人々に施せば、あなたの、信仰する姿に、仏は心を動かされ、あなたに、現象界の真実の不思議な大きな利益を授けて下さる。遂には、一実の力により神の世界と自由に行き来する力を自然と身につける事に成功するのである。それ故、それらの実現のために、日本の隅々の神社に舎利塔を布施として供える行いは、正に桓武天皇の尊いご配慮なのである。それ故、たとえ神通変化の力を持つ神々であろうとも、山王一実の法を学び信仰を否定するような輩は、すべて地獄世界に落ち、地獄の神々の手下とされて、地獄の苦しみからは、抜け出せず、遂には悪いことを永遠に繰り返し、過去・現在・未来、即ち三世の神仏の御恵みを独りじめして恨まれ、難事に出会い、災禍を辺りにまき散らし、邪神と成ってしまうのである。これらのことを知った今よりは、王法に立ち返って、天の神、地の神の神秘を崇むる人々は、皆この圓宗即ち山王一実の神道に統一されるべきである」

なるほど、徳川家康はこのような思想に基づいて大権現になったのか。それは何となく分かった。だが、不死の道とはいったい何なのか?
謎は深まるばかりである。

写真:森村さんは自宅に「桐生山王一実神道研究所」の看板を出した。

桐生を誇りたい! アマチュア史家・森村秀生さん 第12回 不死の道

森村さんはなんだかワクワクしていた。逸る心をなだめながら自宅に戻ると、桐生信用金庫に貰った関東の大きな地図を引っ張りだした。1mの長い物差しを取り出して久能山と日光の男体山を結ぶ線を引いてみた。久能山—富士山—世良田(太田市)—茶臼山頂上(桐生市)—半月峠(日光市)—男体山(日光市)。不死の道は確かに桐生の上を通る。

「桐生新町に浮かび出た斜めの線は、不死の道の一部だったのではないか?」

不死の道。それは、私は死後「八州之鎮守」、つまり八州を守る神になると遺言した徳川家康の魂が、東照大権現という神になるために通ったとされる道である。桐生はその道の下にあり、お稲荷さんがいまでもその道を守っている! やっぱり桐生は、徳川家康が特別な町として町立てを命じたのだ!

だが、興奮が冷めて冷静になると,違ったことが気になり始めた。森村さんが桐生新町に見出した斜めの線が不死の道だとすると、たくさんの辻褄(つじつま)が合わないことが出てくるのだ。

前回紹介した徳川家康の遺言は、亡くなる年の4月2日、本多正純、天海僧正、金地院崇伝に伝えたものである。家康が自分の死後について、まず久能山に葬り、1年後に日光に遺体を遷せと命じたのは、この遺言が初めてだというのが定説だ。それを覆す史料は見つかっていない。
一方、桐生新町の町立ては最も早い説では天正11年(1583年)、最も遅い説でも慶長10,11年(1605,6年)といわれている。桐生新町にお稲荷さんで斜めの線を描いたのは町立てと同時だったとしか考えられないから、それまでには家康と天海僧正の間で家康死後の計画がまとまっていなければならない。最も遅い慶長10,11年説を採ったとしても、遺言はその約10年後である。家康死後の計画に従って桐生新町の町立てが行われたとは考えにくいのではないか?

いや、遺言とは単なる形式である。家康は早くから自分が死んだ後のことまで考え抜いており、口にしたり文字にしたりはしないまま、死後の計画を実施していたと考えることもできる。関ヶ原の戦に勝利を収めたのが1600年。1603年に征夷大将軍になった家康は、わずか2年後の1605年、将軍位を秀忠に譲って大御所と呼ばれるようになった。この時期からいずれは訪れる自分の死を見つめ、自分の死後も徳川幕府、日本が安泰であり続けるにはどうしたらいいのかを考え始めたのかもしれない。

だが、家康は60代半ばである。大御所になったとはいえ、大阪城には豊臣秀頼がいた。家康はまだ天下を掌中にしていない。徳川家の安泰のためには現世でやるべきことが残っている。そんなに早くから、自分は死んだ後で神となって徳川家と天下の泰平を守るという計画を立て、神になるための準備を密かに桐生新町の町立てに反映させたのか?
家康は自ら漢方薬を調合するなど人一倍健康に気を配ったと伝わる。またこの頃は盛んに鷹狩りを催している。鷹狩りとは軍事演習の一環で、かなり体力を使う。つまり、健康には自信があったはずだ。その家康が、こんなに早く死後の準備を始めただろうか?

考えれば考えるほど泥沼に沈んでいくようだった。

迷った時は体を動かして頭を切り替えるに限る。実証すればいいのだ。森村さんは久能山から日光までの2万5000分の1の地図を手に入れた。これに「不死の道」を書き入れた。物差しを当て、慎重に赤のボールペンで久能山から日光・男体山まで線を引く。富士山を横切り世良田東照宮を経て茶臼山(桐生市)の頂上を越えた赤い線は、桐生天満宮の上を通っているように見えた。
勢いづいた森村さんは、さらに精密な1万分の1の地図で、確実に不死の道に重なった茶臼山の頂上から平井の山(桐生市梅田町)まで線を引いた。ところが、桐生新町に浮かび出た謎の斜めの線は不死の道とは一致せず、「不死の道」から10mほど西にずれていたのだ。だが、ほぼ平行して走っている。

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上が桐生新町に現れた斜めの線。久能山から男体山に引いた不死の道と平行している。

「真っ先に思いついたのは当時の測量技術の問題です。正確な測量ができなかったのではないか、と。しかし、久能山と男体山は一直線に結ばれ、その線上に世良田東照宮、茶臼山の頂上があります。茶臼山の頂上には八王子の碑まであるのです。八王子といえば桐生新町の町立ての責任者だった大久保長安が治めた地です。ここを正確に通っている。だから、技術の問題とは考えにくい。でも、桐生新町の斜めの線は不死の道に平行しています。何らかの意味があるはずです」

その意味とは何なのだろう? 頼れる史料がなく、考えても解明できないのなら、セレンディピティを待つしかない。いつかきっと、その答えは思いもかけなかったところから顔を出してくれるに違いない。
森村さんは楽天家なのである。

写真:茶臼山の頂上にある八王子の碑=森村さん撮影

桐生を誇りたい! アマチュア史家・森村秀生さん 第11回 世良田東照宮

徳川家康が亡くなったのは元和2年(1616年)4月17日である。恐らく自分の死期を悟っていたのだろう、家康は4月2日、本多正純、天海、金地院崇伝を呼び、遺言を伝えた。

「一,一両日以前、本上州(本多正純)、南光坊(天海)、拙老(崇伝)御前へ被為召、被仰置候は、御終候はゝ、御躰をハ久能へ納、御葬禮をハ増上寺ニて申付、御位牌をハ三州(三河)之大樹寺ニ立、一周忌も過候て以後、日光山ニ小キ堂をたて、勧請し候へ、八州之鎮守に可被為成との御意候。皆々涙をなかし申候」(金地院崇伝の「本光国師日記」より)

2代将軍徳川秀忠はこの遺言に従い、日光に小さな堂を建てて日光東照宮を創建、元和3年4月、家康の遺体を久能山からここに遷した。
現在の壮麗な日光東照宮を作ったのは3代将軍家光である。家光が「小キ堂」という遺命に背いてまで建て替えたのは、祖父家康を厚く敬ったためだろう。
こうして不要になった日光東照宮の古い社殿は、新田氏の開祖、新田義重の居館跡といわれる上野国世良田(いまの太田市世良田町)に移された。徳川家康は新田氏につながる世良田氏の末裔を自称しており、世良田氏はこの地を本拠地としていた。いわば家康ゆかりの地に古社殿が移されたのである。寛永21年(1644年)のことだ。
ここを「世良田東照宮」という。

「悦子さん、世良田東照宮までドライブしてみようか」

森村さんが妻の悦子さんに声をかけたのは、新型コロナウイルスの騒ぎが始まるずっと前だったから、2015年前後のことである。
世良田東照宮は子供の頃から知っていた神社である。徳川家康が祀られていることも知識としてあった。

「いまは参拝客もずいぶんあるようですが、あのころはすっかり寂れていましてね」

その世良田東照宮に行ってみようと思い立ったのは、懸命に徳川家康を調べていたからだろう。といっても、この神社で何か新しい発見があると期待したわけではない。ただ、何となく行ってみたくなっただけである。

駐車場に車を止め、参道を歩く。世良田東照宮は重要文化財の固まりである。日光東照宮奥社拝殿として造営された「拝殿」、日光東照宮奥社拝殿の前にあった「唐門」、左甚五郎作、狩野探幽彩画の彫刻「巣籠りの鷹」がある「本殿」、日本一の大きさを誇る「鉄灯籠」。境内を巡り、宝物保管陳列所でこれも重要文化財である太刀などを見た。寛永13年(1636年)、後水尾上皇が日光東照宮に奉納したといういわれのある太刀で、鎌倉時代末期の刀工、了戒が鍛えた名刀だ。

見物が一段落すると、お守りなどを売っている案内所で手渡されたパンフレットに目が行った。「世良田東照宮のご案内」とあり、由来や御祭神、祭事などがまとめられている。
何の気なしにパンフレットをながめていた森村さんの目が、左下に描かれた地図に吸い寄せられるまでに時間はかからなかった。本州の中央部を描いた地図上に、久能山から富士山、世良田を通って日光の男体山まで直線が引かれ、「不死の道」と書かれていた。略図なのでよく分からないが、森村さんは直感した。

11.不死の道_NEW


「この不死の道、桐生新町に浮き出た謎の斜めの線と重ならないか?」

あわてて解説文を読んだ。

久能山に祀られた一説
久能山の西方一直線上には薨去した駿府城、母親「お大の方」が子授け祈願した鳳来山(東照宮)、生誕の地、岡崎(東照宮)が東西一直線上に並んでおり、家康公の墓所である神廟は西を向いて建っています。これは太陽が東から西に沈む。そして、再び東に再生する、つまり,久能山にお祀りすることは、人として没した家康公が、「太陽」の如く、ふたたび「神」として再生するための葬送の地であったのです。

 日光山に祀られた一説
〇政治の中心、江戸から日光は宇宙の中心と考えられた北極星(宇宙を主宰する神=天帝の宮殿があると信じられた)・真北の方角にあります。このことは、東照宮は宇宙の中心軸線上に祀られたことになり、その神格は「宇宙を主宰する神」と一体化されたことを意味しています。
〇久能山の神殿は北北東を背にして建ち、その背後には富士山、更に延長すると世良田、そして日光に至ります。これは久能山に神として再生された家康公が富士(不死)の山を越えて永遠の存在となり、遠祖の地を通り、宇宙の中心軸線上に鎮まったと言うことです。

読み終えた森村さんはホッと息をついた。

「私、大変なことを見つけてしまったのかも知れない」

写真:世良田東照宮