日本1のフローリスト—近藤創さん その6 花清の方向転換

大器がいよいよ姿を現したのは、大学2年生の夏のことだった。夏休みで帰省した近藤さんに、父・宗司さんが声をかけた。

「おい、今年は新潟でJFTD主催のフラワーデザインのコンテストがある。俺は出るつもりだが、どうだ、お前も出てみないか」

JFTDとはJapan Flower Telegraph Delivery(日本生花商通信配達協会)の略である。全国の生花店がネットワークを組み、客が遠くの知り合いに花を贈りたいとき、地元の生花店で注文すると送り先に近い生花店が届けるシステムを構築した一般社団法人だ。桐生から札幌の知人に花を贈るには、桐生の「花清」に注文すれば、この組織に加入している札幌の生花店△△が花を届ける。輸送費が不要になるだけでなく、新鮮な生花を送り先に楽しんでもらうことが出来るようにした。社団法人日本生花商協会(日花協)から1953年に分離・独立し、1982年から毎年1回、フラワーデザインコンテストを開き、1986年からはジャパンカップと称している。
「花清」は日花協、JFTD両方に加盟していた。宗司さんが参加するというのは、この大会である。

活け花とフラワーデザインは似て非なるものだ。活け花は床の間や玄関の飾り棚に置いて動かさないものである。だから、鑑賞は一方向からだけになり、後ろ姿を見ることはない。一方のフラワーデザインは広い空間に置き、四方から鑑賞する。

「花清」は華道教室を併設する生花店として歴史を刻んできた。その歴史を宗司さんは数年前に書き換え始めていた。

「そろそろ活け花は限界ではないか」

と考えたのである。桐生に華道教室を併設する生花店が軒を並べたのは織都としての繁栄が背景にあったことは前に書いた。だがこのころ、その桐生の繁栄に陰りが出始めたのである。機屋さんの勢いが衰え、勢い、活け花の需要がしぼみ始めた。華道教室に弟子が集まらなくなった。

「これまでは機屋さんを中心とした法人需要に支えられてきたが、これからは個人消費の時代ではないか」

市場の変化、桐生の変貌、「花清」の将来を見据えて宗司さんは、経営の舵を大きく切ったのである。
店頭では鉢物に力を入れ始めた。贈り物としてちょっとした流行になったシンビジウムも数多く並べた。
同時にフラワーデザインに取り組み始めた。活け花の世界に比べれば、フラワーデザインは基本・原理・原則などに縛られることが少なく、個人の自由な感性、美意識による創作を重視する。フラワーデザインの方が個人消費の時代にはマッチしているのではないか? と考えたのだ。

中学1年から宗司さんの愛弟子になって華道の修行を始めた近藤さんは、時を重ねれば重ねるほど花の世界に惹かれ、高校生の時にははっきりと

    近藤さんの作品 6

「私は『花清』の3代目になる」

と心に決めていた。大学は経営学部を選んだのもそのためである。そして高校の3年間、受験勉強はそこそこで済ませ、店の手伝いに力を入れた。店頭に立って客の応対をし、活け花をする客には花を組んでやった。つまり、一杯の活け花をより美しくする季節の花の組合せを、近藤さんがやってあげていた。

「そういえば、高校生になってからは父に活け花を教えてもらった記憶がないなあ。私、中学時代に父から免状をもらったのだったかな?」

その近藤さんを、宗司さんは

「お前もフラワーデザインコンテストに作品を出してみないか」

と誘ったのだ。「花清」の未来がフラワーデザインにあるのなら、やってみなければならない。近藤さんは出場を決めた。だが、フラワーデザインはやったことがない。出来るだろうか?

写真:若き日の近藤さん

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です