花を産む さかもと園芸の話 その14 世代交代

花作りへの愛では正次さんに遠く及ばないだろう。しかし、花を作り、育てることをあくまで「事業」として考えて将来図を描こうという点では、創業時の正次さんに似通っているともいえる。加えてチャイさんはアメリカで最新の経営学を学んだ。その知識を活かして、正次さんが築き上げたさかもと園芸を、より合理的、近代的な企業に育てることができるのではないか。

アジサイは5月の第2日曜日=「母の日」のプレゼントとしての需要がほとんどを占める。2007年5月、チャイさんが帰国して半年ほどたったこの時期もアジサイの出荷が最盛期を迎えていた。坂本さん一家は毎日出荷作業に追われた。オランダ行きの準備を重ねていたチャイさんもその1人である。1日が終わればぐったりするほど疲れるが、手塩にかけたアジサイの巣立ちは充実感ももたらしてくれる。

「ああ、今年も無事に出荷できたな」

皆がホッと一息ついた5月9日深夜だった。突然、正次さんが自宅のトイレで倒れた。脳出血である。いまも続く闘病生活が始まった。

「あの時、なんか運命? みたいなものを感じたよ」

チャイさんは1週間ほどしたらオランダに旅立つ予定だった。滞在期間は1年の予定である。

「でも、考えたね。いま僕が黒保根からいなくなったら、さかもと園芸はなくなる。お義母さんはずっとお義父さんを手伝ってきたけど、お義父さんの看病があるでしょ。それに仕事の割り振りが苦手。佳子は花のことを私よりずっと知らない。だから、お義父さんがいなければさかもと園芸はやっていけない。じゃあ、この事業をやめる? でも、佳子のお腹には子どもがいた。僕、他に仕事のあてはなかった。僕が頑張ってさかもと園芸を続けるしかなかったよ」

チャイさんはオランダ行きを取りやめた。黒保根に残ってさかもと園芸を続けるしか自分の道はないと見切ったのである。

「僕にできるかどうかなんて考える暇はなかったよ。とにかく、やるしかなかったね」

中核だった正次さんを欠いて、さかもと園芸は、再びゼロからの出発を強いられた。

写真:ビニールハウスで、チャイさんと佳子さん

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