ミシンの魔術師—大澤紀代美さん 第17回  死のう

眼球の奥底に網膜と呼ばれる部分がある。眼球のレンズを通して入ってきた映像が像を結ぶところで、フィルムカメラのフィルム、今風のデジカメなら撮像素子に当たる部分である。網膜炎とは、網膜に不要な光が来ないように守っている色素上皮細胞に小さな穴が空き、水がしみだしてたまる病気である。フィルム、撮像素子の前に障害物が出来るわけだから、その部分だけ像が歪んだりぼやけたり、あるいは見えなくなったりする。自然に治ることが多いというが、大澤さんの場合は自然治癒しなかった。

いまでも、治療法として挙げられるのはレーザー治療である。水漏れを起こしている部分を焼き固めて穴を塞ぐ。

大澤さんはすでに自然治癒が期待できる段階を通り過ぎていたため、入退院を繰り返しながら何度かこの治療を受けた。目に麻酔をかけ、キセノンランプの強烈な光を左目に照射する。

人が一番不安を感じるのは、我が身に起きた病の原因が分からず、治療の可能性も不透明な時だろう。
目が見えなくなるかも知れない。目が見えない横振りミシンの職人ってあり得るか? あり得ない。だったら、ほかに出来ることはあるか? ない。ではどうする……。

大澤さんは落ち込んだ。不安に身を焼かれた。何しろ、自分の腕一本で母と2人生きていこうと心に決めたばかりの時期である。落ち込み方は半端ではなかった。

「お母さん、私、刺繍以外にできそうなこと、ないんだよね」

母・朝子さんにそんな話をした。

「あの話をした時はね、目が見えなくなったら自殺するから、って伝えたかったんです。私の勝手な思い込みかも知れないけど、母も私の思いは分かってくれたようでした。

死ぬ。じゃあどうやって死のうか。
多摩川の近くに住む親戚の家に遊びに行ったとき、水死体を見たことがある。

「あれ、無残ですよねえ。死んでもあんな姿にはなりたくない。だから入水自殺はやめようと」

ミシンの魔術師—大澤紀代美さん 第18回 悲母観音

右目だけは助けたい。その闘いは、さらに1年半ほど続いた。相変わらず自宅での静養、具合が悪くなれば入院、の繰り返しだった。

大澤さんにとっては視力を守り通せるか、失うかの闘いではなかった。生きていくことが出来るか、自殺するかの闘いだった。文字どおり、命をかけた闘いだったのである。
だが、そんな闘いのさなかにあっても、この人にはどうしても消せないものがあった。絵と刺繍に向けた、身体の奥底から吹き出してくる熱気である。

「最初の1年は絵を描いていました。フッと気がつくとスケッチブックを開いて鉛筆を持ってるのよ。お医者様にいわせれば、しょうがない患者だわね」

鉛筆を動かしながら、大澤さんは徐々に変わり始めた。
最初に訪れたのは、人生に対する冷めた気持ちである。

「自分の人生が決まっちゃったような気になって、そうしたら、自分や他の人が生きていることとが、何だか遠くに感じられるようになって、あれがどうだ、これがどうだ、あの人がこういった、こうした、なんてことがどうでもいいことのように思え始めたのよ」

では、遠くから眺めた自分の生とは何か?

「そう考え始めて、あ、私は刺繍に惚れてるんだな、って心の底から分かったんですよ。私には刺繍しかないんだって。病気になって、他にいい仕事、楽な仕事はないものだろうか、なんてことも考えた。母の暮らしを支えなきゃいけない、とどこかで思ってましたからね。でも、どう考えても、私には刺繍しかできないの。刺繍じゃなきゃいけないのね。刺繍がなければ私は生きていけないの。そりゃあ、周りから見れば、それまでの私にだって刺繍しかなかったわよ。でもね、ああ、私って、そんなに刺繍が好きで好きでたまらなかったんだって身体の芯から納得したのは、病気をして初めてだったんですよ」

ミシンの魔術師—大澤紀代美さん 第19回 右目は助かった!

「今になって考えると、無謀だったと思いますよ」

と大澤さんはいう。無謀とは、愛誠園の園長さんが去って1週間もしないうちに和筆を手にして下絵を描き始めたことをいう。下絵は刺繍を始める準備作業である。大澤さんはすっかり「悲母観音」と園長さんに魅せられ、刺繍をしようと心に決めたのだ。

「失明してもいいと覚悟を固めたかって? うーん、そんなことは考えなかったですね。というか、何にも考えなかった。ただ、悲母観音を縫いたい、という思いだけでした 」

いや、何も考えなかったわけではない。1972年に身罷った父・藤三郎さんが

「観音様の姿を見た」

という一言をいまわの際に残していた。

「それを思い出して、私が病と闘っているこの時期に観音様の仕事が来るなんて、何かのお導きではないか、と感じたんですよ」

大澤さんは仕事を再開した。もちろん、医師には内緒である。
刺繍をする時、下絵は描かないのが大澤流である。下絵はすべて頭の中にある。図案を示されても、その通りに縫わないのも大澤流である。大澤さんの感覚で図案は描き替えられ、仕上がりは大澤さんだけの作品になる。

「悲母観音」では、大澤さんはこのルールを捨てた。狩野芳崖への敬意のためである。あるいは、父が最後に見たという観音様を慕う思いもあったのかも知れない。

「ええ、これだけは私の絵になってはいけないと思いました。とにかく、もとの絵に忠実でなければいけないと」

作業は体調と相談しながら慎重に進めた。ミシンの前に座ったのは半年ほど後のことである。

「大丈夫なの?」

母・朝子さんが心配そうに声を掛けた。

「大丈夫よ」

自分でも大丈夫とは思えなかったが、それでも縫いたい衝動は抑えられないのだ。そう応えるしかない。それからは母も何も言わなくなった。

「きっと、この子は自分でやると思ったら何を言っても無駄だと分かっていたからでしょう。何も言わないけど、きっとハラハラしていたはずです」

ミシンの魔術師—大澤紀代美さん 第20回 そして、いま

大澤さんは2018年、78歳になった。10年ほど前に一度寝込んだがいまはすこぶる元気で、市内のマンションの一室を借りた自宅兼作業場「アトリエ きよみ」と、桐生の目抜き通りである本町通に設けた「シシュウ ギャラリー」を往復する毎日である。どちらにも愛用のミシンを備え付けていることはいうまでもない。

とはいえ、17歳で横振りミシンに魅入られてから半世紀はとうに過ぎた。60周年の大台すら突破した。世間の常識では、そろそろ落ち着いてもいいころだ。そこで、聞いてみた。

——これから何をしたいですか?

即座に答えが戻ってきた。

「もっと縫いたいの。もっともっと、これが私の作品というのを創りたい。それに、もう少し有名になってもいいし、そうね、お金も欲しいな」

まるで20歳の新進気鋭の刺繍作家である。身体は齢は重ねたが、大澤さんの心はちっとも老いていない。Forever Young。 年齢と一緒に老いるにはあまりにも内から吹き出す作家のエネルギーが強すぎるのだろう。

その大澤さんがいま力を入れているのは、後進の育成である。私に続き、私を乗り越えて道を切り拓く刺繍作家を育てたい。いや、育てるのが私の責任だ。
しかし、時代が違うのだろうか。これだけはなかなか思うに任せない。

刺繍の技を磨きたいという若人たちを教える仕事を始めたのは1990年頃からである。埼玉県大宮市にあったミシンメーカーが企画した、プロ向けの刺繍教室の講師を頼まれた。記憶では、初回は愛用のミシンを携えて全国から10人が集まった。

「みんな愛用のミシンをばらして空輸したんだって。いくらかかったんだろう、輸送費は受講料よりはるかに高いはず、って気の毒になったわ」

横振りミシンによる刺繍は、定説はないが桐生が発祥だといわれている。全国各地で横振りミシンを使っている職人たちは、桐生で学び、腕を見込まれて請われ、いまの地に移り住んだ人、それにその末裔が多い。

「だけど、桐生を離れた人たちは自分一人だけで刺繍を続けたのでいつの間にか自己流になっているの。その仕事を継いだ若い人たちも、教えられたとおりのミシンの使い方しか知らないから、発祥の地・桐生の刺繍職人から、本場の刺繍の技を学びたいと思ったんでしょうね」

大澤さんの目を驚かせた若者がいた。彼はミシンの下に自家製らしい箱を置き、その上に右足を置いて縫い始めた。右足は針の振れ幅を調整するレバーを操作する足である。

「あなた、どうして箱の上に右足を乗せてるの? そんな姿勢じゃやりにくいでしょう」

大澤さんの問いかけに、若者は答えた。

「オヤジがこうやってたんです」

振れ幅調整のレバーは上下に上げ下げして自分の体格に合わせることが出来る。だから足台なんていらないのに、この若者の父はそれを知らなかったらしい。右足を床に置くと、右膝がこのレバーに届かない。だから箱を置いて右足を乗せ、レバーを操作していたのである。それがそのまま子供に受け継がれた。

「あなたね、このレバーはこうすれば上下に動くのよ。自分の体格に合わせなさい」

まるで冗談のようなやりとりである。だがそれでも、この若者は大澤さんに出会ったおかげでミシンの正しい操作法を身につけた。

「そんな話はいっぱいあるわよ」

道具には正しい使い方がある。正しい使い方とは、一番疲れず、よりよい刺繍を縫える使い方でもあるのだ。

ミシンの魔術師—大澤紀代美さん 21回 番外編

大澤紀代美さんの半世紀は前回で書き終えた。ずいぶん長い連載だったが、終えてみたら、大澤さんにお借りした写真が5枚、使わないまま残った。20回に渡って書いてきた話に、それらの写真を使うに相応しいところがなかったからである。

幸い、大澤さんのもとには、

「知らなかった話がたくさん出てきて、大澤さんへの親しみが増した」

「知らなかったが、大変な人生だったんですね」

などの反響が寄せられているという。
それだけでなく、大澤さんを取り上げるテレビ番組の基礎資料にもなっているようで、2018年10月に収録に訪れたテレビ朝日のスタッフは、この連載をもとに番組のシナリオを組み立ててきたそうだ。もっとも、進行役の松岡修造さんとの話が弾み、スタッフが用意したシナリオを無視した番組になってしまったそうだが。

という反響を大澤さんにうかがって、残った写真がもったいなくなり、すべて公開することにした。

テレビ朝日の取材でも伺われるように、大澤さんはメディアの寵児でもある。新聞、テレビは言うに及ばず、雑誌、女性誌、スポーツ雑誌、さらには銀行の顧客向け出版物までに登場した。テレビなどの依頼を受けて訪れたタレントもジャニーズ関係(誰だったのか、大澤さんの記憶にない)、お笑いタレント、双子タレントのマナ・カナ(三倉茉奈、佳奈)のどちらか、と多彩だ。

中には大変な反響を呼んだ番組もあり、NHKの「イッピン」に登場したときは、知人が作ってくれたホームページに8万件ものアクセスがあったそうだ。

いまでも年に3、4件の取材依頼が入る。松岡修造さんとの番組は11月に放映される予定だという。この番組も多くの方に見ていただきたい。

下の写真はそのうちの一つ、舞の海さんが取材にやってきたときに撮った。いつのことだったかは思い出せないというが、アルバムを開いて舞の海と言葉を交わす写真で見る大澤さんはずいぶん若い。

     

次は関取雅山の化粧回しだ。茨城県水戸市出身の力士で、ひいき筋から依頼されて縫った。鋭い視線で獲物を睨みつける獅子はひげの一本一本まで力に溢れており、大澤さんならではの化粧回しに仕上がっている。