ミシンの魔術師—大澤紀代美さん 第18回 悲母観音

群馬県民がこよなく愛する赤城山の麓にある児童養護施設「鐘の鳴る丘愛誠園」の園長さんが桐生市の自宅まで尋ねてきたのは、すでに左目を失明し、何とか右目だけは守ろうという闘いのさなかだった。

初めて会う人である。年の頃は60歳前後か。あまり上等とはいえないヨレヨレの服に泥がこびりついた靴。だが、話していて、不自由な子供たちへの愛が素直に感じ取れる人だった。でも、私にいったい何の用だろう?

「実は、あなたに刺繍画を縫っていただきたくてお願いに上がりました。新しく開く施設に悲母観音像を掛けたいのです。あなたの刺繍で慈母観音を描いて欲しいのです」

そういいながら園長さんは、狩野芳崖の「悲母観音」の複製画を取り出した。幕末から明治にかけて絵筆をふるい、近代日本画の父ともいわれる芳崖が死の4日前まで手を入れ続けた絶筆である。彼の最高傑作との評価を受けている名画だ。

「この絵を刺繍でお願いします」

みごとな絵だった。気持ちが動いた。だが、大澤さんは残る右目を何とか守ろうと療養中である。動くものを見てはいけないという医師は、前後左右に動くミシンの針先を見つめ続けなければならない刺繍を再開するなどといえば烈火のごとく怒るだろう。いや、怒られるのは仕方がないとしても、まだ残っている右目の視力を失いかねない。

「という私の事情で、お引き受けしかねます。是非手がけてみたい仕事ではあるのですが、お許し下さい」

大澤さんは丁重に断った。ほかに選択肢はなかった。
だが、園長さんは一歩も引かなかった。

「そうですか。ご事情は理解しました。しかし、新しい施設には『悲母観音』の刺繍画が何としても必要なのです。それが縫えるのは大澤さん、あなたしかいません。私は何年でも待ちます。刺繍が出来るまでに回復されてからで結構です。何としてもお願いしたい」

そこまでいわれれば断る術はない。
園長さんが去った後、大澤さんのもとには「悲母観音」の複製画が残された。大澤さんは毎日、この絵とにらめっこし始めた。

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