ミシンの魔術師—大澤紀代美さん 第11回  大将

1947年(昭和22年)9月、桐生市はカスリーン台風と後に命名される暴風雨に襲われた。町を挟むように流れる渡良瀬川、桐生川が氾濫、多くの死者・行方不明者が出ると共に63%の家屋が浸水被害を受けた。

大澤さんは当時、新築間もない家に住んでいた。1944年から3年をかけ、材料を選りすぐって建てられた豪邸である。家中に檜の香りが漂っていた。

新居に移転したのは春。その夏に台風が襲い、桐生川のそばだった大澤家は床上30㎝の浸水被害を受けた。

「私は背負われてすぐ近くの、水が来ていないところに避難させられました」

幸い家族は全員無事だった。が、柱や壁には襲いかかった水の痕がくっきりと残り、あれほど馥郁としていた檜の香りは二度と戻っては来なかった。

家には電蓄があり、当時としては珍しいジャズやブルースがいつもかかっていた。

「ベニー・グッドマンやフランク・シナトラが多かったわ」

大澤さんはこの頃、長唄のお稽古に通わされた。琴や三味線を楽しんでいた母の命令だった。父には反発した大澤さんも、母・朝子さんには従順だったようだ。ワンマンの父に対抗する女同盟を結んでいたのかも知れない。

「稽古に行くのにお付きが2人、それに見張り番が1人ついて来るんですよ」

乳母日傘で育っている女の子が一方ではガキ大将であり、他方ではセミプロについて絵を描き、ジャズのリズムに囲まれ、長唄を学ぶ。なんだかハチャメチャな組み合わせである。
そんな少女は1952年(昭和27年)、中学に進んだ。

間もなく、大澤さんにニックネームがついた。

「大将」

である。

男の子の取り巻きがたくさんいた。ボーイフレンドではない。子分である。
いつしか、先生までが大澤さんを頼りにするようになった。先生が頭を下げに来る。

「おい、大将、頼むわ。あの悪(わる)、何とかしてくれないか」

荒れて手がつけられず、生徒ばかりか先生までもが怖がって近寄らない「不良」をなだめ、意見をするのは大澤さんの仕事であった。
中学生の大澤さんは一大勢力を築いていたのである。

「母を泣かせることが多かったので父には反感を持って育ったんだけど、やっぱり親子なのかなあ。大勢の人たちを差配していた父の血をどこか受け継いでいたのかも知れませんね」

ミシンの魔術師—大澤紀代美さん 第12回 出会い

出会った日のことは、いまでも明瞭に覚えている。17歳の春だった。

数日前、父の知り合いが遊びに来ていた。日頃から、大澤さんが高校にも行かずに絵に没頭している話を聞いていたらしい。顔を見ると、話を切り出した。

「紀代美ちゃん、いっぱい絵を描いてるんだって? うちねえ、刺繍やってるのよ。絵も刺繍も似たようなものでしょ。一度見に来てみない? 何だったら教えてあげるから」

聞くと、内職でスカジャンの虎や鷲などを刺繍しているのだという。

と言われても、絵に夢中になっていた時期である。そもそも、絵と刺繍は似て非なるものではないか? との思いもある。手刺繍ぐらいはやったことがあったが、ミシンでの刺繍にそれほど魅力を感じたことはない。
いってくれた人は親切心からだったのだろう。だが大澤さんはむしろ、

「私が毎日ブラブラしているように見えるのか?」

と少々ムッとした。とはいえ、相手は父の知り合いだ。無視するわけにもいかない。数日後、仕方なく出かけた。

「一度顔を出せば義理は果たしたことになる、ぐらいの気持ちしかなかったのよ、あの時はね」

自宅から歩いて5分ほどのその家に入ると、10台ほどの電動ミシンが並び、女工さんたちが真剣な目つきで刺繍していた。そのミシンが横振りミシンという呼び名を持っていることを知るのはもう少し先のことである。

大澤さんの目の前で、見る見るうちに刺繍が出来上がっていく。何でもない無地の生地に絵が浮かび上がる。見ているうちに引き込まれてしまった。ミシンの針が絵筆に、針に通った糸が絵の具に見え始めた。

「これよ。私はこれをやるのよ!」

いつしか拳を握りしめ、心の内で叫び始めていた。

「私、ミシンでもっといい絵を描いてみせる!」

次々に生まれてくる刺繍画に魂を抜き取られたのだろうか。ふと気がつくと、来る時は天高くあったお日様が山の向こうに隠れようとしていた。その間、身体を動かした記憶はない。身動きもせず、何時間立ち続けていたのだろう?

フラフラとその家を出て自宅に戻るなり、出迎えた母にいった。

「私、やりたい。あの仕事を覚えたい!」

頭の中は刺繍ミシンが創り出し続ける刺繍画でいっぱいになっていた。

翌朝、母に連れられてその刺繍屋さんを再訪した。

「お願いします。私を雇って下さい。仕事を教えて下さい」

深々と頭を下げた。すぐ後で母の朝子さんが

「どうせ長くは続きません。本人が諦めるまででいいですからお願いします」

と頼み込んでいたことを、この時の大澤さんは知らない。

ミシンの魔術師—大澤紀代美さん 第13回 20時間

日本の伝統的な技術の世界では、技は教わるものではなく盗むものである。大澤さんが踏み出した世界も、技は先輩の作業を見ながら盗むものだった。

毎日が格闘だった。絵心はあるはずなのに、ミシンの針先から思ったような刺繍が生まれない。線が乱れ、先輩と同じ糸を使っているはずなのに思った色が出ない。何だ、この虎。目が死んでるじゃない。いったい先輩たちはどんな縫い方をしているのか?
だが、誰も教えてはくれない。

毎朝6時に作業場に出て部屋とミシンの手入れを続けながら先輩たちの仕事ぶりを注意深く観察し、大澤さんは技を盗んだ。盗んだ技を改良し続けた。

見よう見まねから始めて半月、やっと商品になりそうな刺繍が縫い上がった。1ヶ月もすると、先輩の作品にも劣らない出来になった。先輩たちは、自分の縫ったものを大澤さんに見せなくなった。追いつかれた、競争相手になったと認められたらしい。

「それで、2ヶ月たったら、先輩たちを抜いちゃってたのね」

1日に仕上げる枚数で首位に立った。
みなと同じ絵柄を縫っても

「大澤さんが縫ったヤツは何か違うよねえ」

と評価されるようになった。

「だって、努力しましたモン」

毎朝6時に職場に出る大澤さんが帰宅するのは毎晩10時を過ぎてからだった。皆が帰ってガランとした作業場で一人ミシンを相手に格闘し、一段落すれば作業場の最後の掃除して鍵を閉める。
思うような刺繍が出来なかった日は、

「どこが悪かったのか?」

と思案しながら家路につく。それから夕食、浴を済ませて床に入る。日付変更線はとうに越えてしまっている。
後で母・朝子さんがいった。

「紀代美ちゃん、あなた、昨日の夜もうなされながら手と足を動かしていたわよ」

大澤さんは夢の中でも横振りミシンと格闘していた。

ミシンの魔術師—大澤紀代美さん 第14回 独立

わずか2ヶ月で、先輩の女工さんたちを追い抜いてしまった大澤さんの技術は、そこで止まりはしなかった。自分に厳しい人である。
刺繍の目に力を持たせるには。
生きているような毛並みに縫い上げるには。
自分で自分にテーマを課し、今日できなければ明日、明日も出来なかったら明後日にはきっと、と自分を励まして乗り越えていった。ハードルを越えるたびに、技術は一段と高くなる。

「もう、ここで学ぶものは何もなくなった」

と退職したのはわずか19歳の時である。仕事を覚えて独り立ちできるようになれば独立するのは、当時の業界では常識だった。勤め先からは記念に刺繍枠をプレゼントされた。

勤めていた刺繍屋さんから後輩の女工さん2人が

「私も連れて行って下さい」

とついてきた。さらに見習いの若い女性も数人加わった。自宅に作業場をつくり、10台連結の横振りミシンを入れた。社長は父・藤三郎さんである。買い継ぎ商で培った幅広い人脈で営業も引き受けた。大澤さんは現場の責任者である。

朝6時には作業場に入り、掃除をしてミシンの手入れをする。終わればミシンの前に座って刺繍に取りかかる。羽織に入れる刺繍、帯に施す刺繍、晴れ着を飾る刺繍……。仕事はいくらでもあった。藤三郎さんは腕利きの営業マンだった。

8時頃に出勤してくる女工さんたちの技術指導も大澤さんの仕事だった。一日でも早く自分のレベルに追いついて欲しいと思うから、

「あんた、これじゃあ竜の目が死んじゃってるでしょう!」

と強い口調で叱責したこともある。

一人一人の技術の進歩度合い、得意不得意に合わせて仕事を割り振る。できあがりを点検する。仕上がりがまずいものは手を入れる。現場責任者の仕事はいくらでもあった。大澤さんが作業場を離れるのは早くても午後10時。ほとんどの日は午前1時、2時までかかった。勤めていた時よりはるかに忙しかった。

「私、睡眠時間が少なくても大丈夫な特異体質なの。いまでこそ6時間ほどだけど、若い頃は4時間寝れば充分だった」

仕事の速さも仕事の質も、少なくとも勤めていた刺繍屋さんでは他の追随を許さなかった大澤さんが率いる刺繍集団である。そこに藤三郎さんの巧みな営業が加わって業績はうなぎ登りに拡大した。わずか1年で有限会社にしたころには、女工さんは20人を数えるまでに増えていた。それだけの人数でかからなければこなしきれないほどの仕事が押し寄せたのである。

ミシンの魔術師—大澤紀代美さん 第15回 解散

キム・ノヴァクから始めた肖像画は年間3、4枚のペースで縫い続けた。第3回で書いたように、日を追って注文は増え、肖像刺繍作家としての名は上がってきた。

それでも、気持ちが荒むのを止めることは出来なかった。

「多分、父との対立、だったのだと思うわ」

藤三郎さんは作家ではない。あくまで有能な経営者である。社員である娘が刺繍の肖像画を縫うことは認め、営業で売り込みもしたが、会社の利益の多くは、注文を受けて仕上げる刺繍にある。

「紀代美、肖像画ばかりにかまけてないで、取ってきた注文をさっさと仕上げろ」

何度も叱責を受けた。

「私がやりたいのは、どこにでもある刺繍じゃない。私にしかできない作品を縫いたいのよ」

言い方は変わっても中身は変わらない言い合いを何度繰り返したろう。
確かに、理は父にある。会社である以上、まず利益を出さねばならない。いつも引っ込むのは大澤さんだった。

晴れない気持ちのままミシンの前に座り、注文の刺繍を始める。嫌々だから身が入らない。時間がかかり、仕上がりもピリッとしない。

「これ、失敗作だわ。明日縫い直そう」

そう思って作業場に放り出していた刺繍を、藤三郎さんが勝手に注文主に届けるようになった。納期が来たのだろう、とは頭で理解できるが、

「あんな失敗作を客に渡すなんて」

とプライドが傷つき、憤懣がたまる。一段と気持ちが荒む。

「何だかすべてがいやになって仕事を放り出し始めたんです」