ミシンの魔術師—大澤紀代美さん 第12回 出会い

翌日から、毎朝6時に出勤した。始業は8時である。だが、先輩の女工さんが顔を見せる前に作業室とミシンの掃除をする、中でもミシンは埃を払うだけでなく油を差しておく、と決めたのだ。これからお世話になる刺繍ミシンである。お世話になる自分がお世話をするのは当然ではないか。

数日は、他の女工さんの仕事をただ見ていた。だが大澤さんは、見るだけに時間を費やすような柔な人ではない。

「あの人が縫っている形は、どこかおかしいな」

「虎を縫っているようだが、どうしてあんな虎にしてしまうのだろう? あれじゃ不格好で虎がかわいそうじゃないの」

目の前で進む一つ一つの作業を目に焼き付け、自分で縫う時に備えた勉強をしながら、出来上がった作品を批判者の視点で見る。入門したばかりの初心者としては生意気この上ない。

だが、それが大澤さんである。人と同じことは死んでもしない。同じ作業をするのならはるかにいいものを創り出してみせる。
良くも悪しくも、それが大澤紀代美さんなのである。

見学の日々は数日で終わった。

「そろそろ紀代美ちゃんも縫ってみる?」

大澤さんをこの世界に誘ったお師匠さんがミシンへの糸のかけ方と横振りミシンの操り方を説明してくれた。

横振りミシンは、針が左右に振れる。振れる幅は右足のひざでレバーを操作して調整する。刺繍の細い部分は振れ幅を小さくし、横幅が広いところは広くする。といっても、振れ幅は最大1cmほどだから、それより広い場所は糸を重ねる。いや、狭い場所も糸を重ねて狙った風合いを出すこともある。

というのは、後知恵である。この時大澤さんが教えてもらったのは、

「糸はこうかけて、針の振れ幅は、ほらこのレバーで調整するの。そう、右足で動かすのね」

程度だった。

「さあ、やってご覧」

大澤さんの挑戦がスタートした。

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