ミシンの魔術師—大澤紀代美さん 第15回 解散

起業から6、7年たった頃だった。
大澤さんは現場のプレイングマネージャーである。自ら刺繍を縫うだけでなく、この頃は50人前後にまで増えていた女工さんたちの腕前、性格を見ながら仕事を振り分け、仕上がりを点検し、新しく入った女工さんには位置から仕事を手ほどきする。

そのプレイングマネージャーがやる気をなくした。会社に起きるべきことが起き始めた。

「女の子がやめていくんですよ。引き抜かれる子もいました。多分、荒れた私を見て『大澤のところも長くはない。いつ潰れるか分からないところで働くよりうちに来ないか』って誘われたんでしょうね」

仕事の注文も目に見えて減った。ますますやる気がなくなった。

悪い時には悪いことが重なる。父・藤三郎さんが振り出した手形が不渡りになった。

大澤さんと藤三郎さんが共同で興した会社だが、経営は藤三郎さんに任せっきりだった。藤三郎さんも経営については何も教えてくれなかった。手形の不渡りは大澤さんには寝耳に水である。

「問いただしたら、兄の中学時代の先生から泣きつかれて、お金を貸す代わりに手形を切ったというの。その返済が受けられず、手形を買い戻さないと会社の経営にも響くっていわれてね」

業容の拡大に伴い、父が家と土地を担保に金融機関から多額の設備資金を借りていたことも初めて知った。手形を買い戻せなければ家も土地も金融機関に取られ、家族全員が放り出されてしまう。

「聞いてるうちに、何だかばかばかしくなってきてね。だって、私がこれだけ働いてるのに、私が知らないところでそんなことが起きてたわけでしょ。完全に仕事をする気をなくしてしまったんです」

大澤さんは父が取ってきた仕事は一切やらなくなった。現場の仕切りも放り出した。それから3年あまり、好きなことだけしかしなかった。ますます自分にしかできない「作品」づくりにのめり込んだのである。

会社は荒れた。悪い時には悪いことが重なる。藤山愛一郎氏から中国土産をもらって桐生に戻った翌日、父が亡くなった。劇症肝炎だった。社長がいなくなった会社は解散に追い込まれた。1972年(昭和47年)のことだった。

周恩来総理の肖像画を手がけて日中の架け橋になって華やかなスポットライトを浴びていた時、一方で大澤さんは崖っぷちに立たされていたのである。

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