街の灯 「PLUS+ アンカー」の話  その4 別れ

雅子さんにとってみれば、ふみえさんは母親の年代の方である。でも、気が合う、とはこういうことをいうのだろう。お互いに気を遣いながらちょうどいい距離を保つ付き合いは心から楽しかった。ふみえさんはもう高齢だったから、そんな関係が10年も15年も続くとは2人とも考えてはいなかっただろう。しかし、まさかわずか1年半で終止符が打たれるとは想像もしていなかった。

2013年5月だった。1階の不動産会社アンカーの事務所で仕事をしていた雅子さんは、いつものようにヘルパーさんが来たことに気がついた。ヘルパーさんが来れば、間もなくふみえさんが降りてくる。今日も元気で介護施設に行くんだな、と瞬間思ったような記憶がある。しかし、すぐに仕事に紛れて忘れてしまった。適度な距離感とはそういうものである。

昼を過ぎたころだった。ヘルパーさんが、どういう訳か民生委員を伴ってアンカーの事務所に入ってきた。何事だろう?

「今朝、ふみえさんが出てこられなかったんです。これまでそんなことはなかったのですが、何かご存じありませんか?」

ドキッとした。それじゃあ、今朝、ふみえさんは降りてこなかったのか。ひょっとしたら自力では部屋から出られなくなっている? いまふみえさんはどうなっている? 無事?

「私、ヘルパーさんには私の携帯の番号も知らせてあるのに、なんにも連絡してくれなかったじゃないですか」

街の灯 「PLUS+ アンカー」の話  その5 縁

ふみえさんが住んでいた本町通り沿いのビルは、亡くなったご子息が設計したものだった。ふみえさんにとっては喜びと悲しみの思い出がいっぱい詰まっている特別な建物だ。それを

「是非川口さんに買って欲しい」

とふみえさんが頼んできたのは亡くなる1年ほど前のことである。他の人には譲りたくない。何としてでも川口さんに受け継いで欲しい、というふみえさんの思いがひしひしと伝わってきた。

2人はふみえさんの思いを受け止め、譲り受けることにした。すぐに売買契約を結び、それまで住んでいた桐生市菱町から引っ越した。
住まいは3階である。テナントが入っていた1階は相変わらず空いていた。そして、ふみえさんが亡くなった。

「よし、私、ここでカフェを開こう」

ふみえさんの葬儀を終えて間もなく、たくさんのお年寄りの「知ってる人」になろうという雅子さんの計画が動き始めた。ふみえさんに頼まれてこのビルを買ったのも、

「雅子さん、たくさんのお年寄りが集まれる場所をつくってね」

というふみえさんのメッセージだったのではないか? これもきっと何かの縁なのだ。ふみえさんに応えるにはカフェを開くのがいい!

心が決まればあとは準備を急ぐだけだ。貴志さんは今回もあっさり同意してくれた。
1階の広さは約100m2。少し狭いかな、と思ったが、何しろ空きスペースである。採算を考えないカフェを開くには、家賃がいらないのは何よりありがたい。

街の灯 「PLUS+ アンカー」の話  その6 角田家

いま「PLUS アンカー」がある一帯は、角田さんの祖父が明治の末に買い取って住宅兼染色工場にした。「角田染工場」といった。町中にもかかわらず敷地は約230坪と広大で、当時の屋敷は江戸時代末期に建てられたものだった。

染色工場は戦争中に廃業に追い込まれた。布を染める金属製の巨大な釜は供出させられ、従業員も次々に兵役に取られて事業を続けることが出来なくなったのだ。角田家は戦後、羽織の裏地を染める捺染業を家業とするようになった。

昭和37年(1962年)、本町通近くにあった家屋を解体して奥に新しく家を建て、空いた敷地を衣料のチェーン店に貸した。この時新築されたのがいまの「PLUS アンカー」である。

といっても、角田家が経済的な苦境に追い込まれたわけではない。新しく建てた家も贅をこらしたものだった。床の間の柱は欅(けやき)で、客間に使われていた部屋の4隅にある柱は1本の丸太を4本に割ってつくられており、節が1つもない。応接間などのガラスは波をうったようにも見えるイタリア製で、マントルピースのそばには大きなステンドグラスがはめ込まれていた。

庭にも惜しげなく金を投じた。当時の記録をひもとくと、樹木や灯籠、石などを含めた造園費用総額は376万9000円かかったとある。厚生労働省の統計によると、その年の大卒初任給は1万7800円。2019年春の大卒初任給は21万2304円(労務行政研究所)でざっと12倍になっている。これをもとに造園費用を今の金額に直すと4520万円にも登る。普通の生活人には天文学的な造園費用である。

角田さんはこの家に心からの愛着を持っていた。豪邸だからではない。

角田さんがこの場所を離れたのは東京の大学に学んだ4年間だけである。古い家で生まれ、大学を卒業すると古い家に戻った。長男で家業を継ぐのが当然と思っていたから地元で仕事の修行に出た。ちょうど結婚する頃、父が建坪60坪(約200m2)の新しい家を建てた。そこで新婚生活を始めた。子供が生まれたのも育てたのもこの家だ。

街の灯 「PLUS+ アンカー」の話  その7 灯りがともった

客の多い、賑やかな家で育ったからだろうか。角田さんは人が集まってワイワイがやがやする雰囲気が大好きである。だから、捺染業もたたんですっかり人の出入りが少なくなったのが何より寂しかった。いや、自分だけではない。この家もきっと寂しい思いをしているに違いない。

「この家に、なんとか賑やかさを取り戻す方策はないだろうか? 知恵を貸していただきたい」

家と土地を高く売ってくれ、ではない。できるだけ高く借りてくれる客を捜して欲しい、でもない。不動産会社への相談として、角田さんの話は型破りだったろう。

いくら型破りではあっても、持ち主の意向である。アンカーは社員を集めて知恵を絞った。しかし、型破りの問いかけに答を見いだすのは難事である。どう考えても、これだという解決策が出ない。出てくるのは、

「コンビニに貸しては」

「レストランチェーンを誘致しては」

「この家は広い。それに敷地も充分にある。そこで、住宅の外観は変えず、内装に手を入れて高齢者介護施設にする。そして、敷地の隅に小さな家を建てて角田さんには住んでもらう」

その中でいえば、角田さんの家への愛着を考えれば、高齢者用の施設が一番近かったろう。愛着のある家はそのまま残るし、たくさんの高齢者が住み着いて賑やかになるからだ。角田さんも、その計画が最も気に入った。

街の灯 「PLUS+ アンカー」の話  その8 船出

「ホントに、明日にも工事契約をしようというときになって、自宅ビルの1階でカフェを開くことに、突然違和感を感じたんですよ。何となく無理があるような気がしたんです」

設計事務所がまとめてきた設計図ではとてもオシャレなカフェになるはずだった。だが、オシャレになればなるほど、お年寄りがそこで雑談に花を咲かせているイメージが薄らいでいたのだった。オシャレなカフェにお年寄りが集うイメージがどうしても湧いてこないのだ。何かが、違う。

「そんなことを考えていたら、活用策が行き詰まっていた角田さんのお宅が浮かんだんです。あ、私のやりたいカフェにはあの家がピッタリなんじゃないか、って」

まず、夫の貴志さんに相談した。

「それ、いいね。うん、私もいまの場所には何となく違和感を感じていたんだよ。なるほど、角田さんの古民家をカフェにするのは面白い。ママ、それ、いいと思うよ」

計画が最終段階になりながら、2人して、

「このまま計画を進めてもいいのだろうか?」

と感じていたのである。そして、その打開策でも2人の考えが一致したのだ。2人は改めて、それまでとは違った目で角田さんのお宅を見せてもらった。2013年暮れか14年はじめのことだ。
50年以上も前に建てられた古い家である。間取りはいまの住宅のように各部屋の採光を考えたものではない。南側に並ぶ応接間、客間、書斎、玄関には日が差すが、各部屋を繋ぐ廊下、その北側にある部屋には日が届かず、昼間でも薄暗い。
だが、応接間の南側にある縁側が広々としていた。なぜか、それが大変に魅力的だった。