その14 デザイナーズブランド

世の中とは良くできたものである。繊維製品の対米輸出が激減して国内の繊維関係者が青くなっていた頃、その落ち込みをカバーする意図があったとは思えないが、Made in Japanのデザイナーズブランドがムクムクと頭をもたげていた。欧米から流れ込む一方だった衣服のデザインを、日本でも創って世界に発信しようというデザイナーが雨後の竹の子のように現れたのである。彼らは、その素材を当然のように国内で物色し始めた。

衣服のデザインとは、人に優れたデザインセンスがあれば、あとはデザイン帳と鉛筆、消しゴムさえあればできる、というものではない。素材となる生地を、色、柄、風合い、肌触りなど様々な要素をもとに選び出し、それを裁断して組み合わせ、縫い上げて身にまとう衣装にまでに仕上げなければデザインは完成しないのだ。そのすべてに最高のものを求めるのがデザイナーという人たちである。

桐生に戻った敏夫専務は商社で培った人脈を活用した。注目され始めていたデザイナーたちに次々に営業をかけていったのである。すぐに反応が戻り始めた。山本寛斎、コム・デ・ギャルソン、イッセイ・ミヤケ、ハナエ・モリ、ドン小西、VAN、JUN……。いまでは多くの人が知っているデザイナーたちが松井ニット技研の編み物に注目してくれたのだ。数多くの新進デザイナーが次から次へと桐生の松井ニット技研を訪ねて来た。

おそらく、アメリカからの注文通りのマフラーを編むために編み機を改造し、編み上がったマフラーを1本1本自分たちの目で点検した上で出荷する真面目で前向きな姿勢と、だからこそ現れた美しい編み目が敏夫専務が持ち歩いた商品サンプルに現れ、デザイナーたちの信頼を勝ち得たのに違いない。

「一番足繁く通っておいでになったのは、ギャルソンの川久保玲さんでした。とても頭のいい方で、私の話を熱心にお聞き下さり、驚くほどの速さで自分のものにされる能力にいつも驚かされたものです」

と智司社長はいう。

デザイナーからの仕事とはいえ、向こうの注文通りのニットを編み上げて納品するという点ではこれまでのOEM生産と何の違いもない。しかし、デザイナーが求めるニットには量産品のマフラーとは違うものがあった。

デザイナーたちは、自分が生み出そうとしているデザインに命をかける。半端な仕上がりでは世界のファッション市場で高い評価を得ることはできないのだ。それだけに、松井ニット技研に注文してくるニットの仕上がりへのこだわりは半端ではなかった。

自分が作るのはこれこれこういう服である。その中で、松井ニットの生地はここでこう使いたい。だから、こんな色にして、手触りは、風合いは……。

詳細を極める注文が舞い込み始めた。

写真:ドン小西さんの求めで編み上げた「フィッチェ・ウォーモ」ブランドのマフラー。

その15 期待を裏切る

「しかし」

と智司社長は当時を思い出す。

「みなさん、そうそうたるデザイナーさんたちとはいえ、ラッセル編み機のことはご存じありません。ニットにはどんな編み方があるのか、こういう編み目、風合いを出すにはどうやって編めばいいのか、どんな糸を選べば求めている肌触りが出るのか。そんなことを一つ一つご説明しました。ええ、世界的に注目を集めるようになっていらっしゃったデザイナーさんでもセーターなどに使う緯編(よこあみ)と、下着やカーテンが主な用途の経編(たてあみ)の違いをご存じなかったですねえ」

次々に訪ねてくるデザイナーたちに説明しながら、智司社長は一つのことを思い定めていた。

「せっかく作るのだから、この人たちがが頭に思い描いているもの以上のものを作ろう。いい意味で期待を裏切ってやろう」

工場には、慣れ親しんでその癖まで頭にたたき込んであるラッセル編み機が並んでいる。この愛機を活かして期待を裏切ってやろう。工場のベテラン職人さんたちと相談しながら、最高のニットを編むように心血を注いだ。

そんな積極的な姿勢が評価されたのか、みんな重宝がってくれた。やがて、新しいデザインの素材としての編み物を求めてくるだけでなく、新しいデザインを産み出す上での相談相手を智司社長に見いだしているかのような付き合いにまでなった。

デザイナーとは、いいものを作るためには金に糸目をつけない人たちである。手間暇がとてつもなくかかる生地を注文しているということは彼らも十二分に承知していた。そのためか、支払いは鷹揚だった。対米輸出が壊滅状態になった松井ニット技研の生産量は大きく減ったが、利益はそれまでと同じ水準か、時としては凌ぐことさえあった。

「ええ、おかげさまで、当時は社員たちと、今年は香港だ、今度はシンガポールだ、って毎年のように社員旅行に出かけていました」

デザイナーたちが求めたのは、生地だけではなかった。中には

「うちのブランドで売るマフラーを作って欲しい」

という注文も舞い込んだ。当然、色彩デザインが施されたマフラーである。

真知子巻きのブームで売れたマフラーも、対米輸出用のマフラーも、どちらも白一色だった。編み方の違い、編み目の面白さ、正確さなどで他とは違うマフラーを造っていた自信はある。だが、デザインされたマフラーとはまだ言い難い。

「そうか、マフラーも色をつけてデザインすればより美しくなるんだ」

世界に羽ばたこうというデザイナーたちはフォルムに、色選びに、その組み合わせに命を削っていた。彼らとの付き合いは、デザインすることの厳しさ、面白さだけでなく、「色」を使うことの大切さを智司社長に教えてくれた。

彼らとの共同作業で手に入れたのは、会社の利益だけではなかった。智司社長はソロリ、ソロリとデザイナーへの入り口に近づいていた。

写真:美しいデザインのマフラーを編み出すラッセル編み機

その16 ヨーガン・レール

運はいつも目の前を飛び交っており、その運をうまく掴めるかどうかは、それまでに重ねた準備次第だという。

中には、運をしっかり捕まえているのに、その時は気がつかない人もいる。あとになって

「ああ、あれだったのか」

と手の中に納まっている運を眺めやるのである。

智司社長とヨーガン・レールさんの出会いがそうだった。

レールさんを捕まえてきたのは敏夫専務だった。かつて勤めていた商社の人脈を辿り、数多くのデザイナーに営業をかけていた専務が出会った一人がレールさんだった。

レールさんはポーランド生まれのドイツ人である。10代の終わりからパリでデザインを学び、やがてニューヨークで活躍し始める。昭和46年(1971年)に旅行目的で来た日本になぜか定住し、翌年、ファッションブランド「ヨーガンレール」を立ち上げた。敏夫専務が接触したのはようやく軌道に乗り始めた時期だった。

2人で尋ねた。事務所は山手線浜松町駅から海の方に歩いた倉庫の上の方にあった。

レールさんは人嫌いでも知られる。よほどのことがないと、訪ねて来た人の応対は社員に任せ、本人は顔を出さない。この時もそうだった。

それでも、こちらは営業に来たのである。レールさんが出てこないからといって引き下がるわけにはいかない。対応してくれた社員に編み見本を見てもらいながら、松井ニットのラッセル機を詳細に説明した。反応は悪くなかった。

それから2、3日後だった。

「ヨーガン・レールがお目にかかりたいと申しています」

という電話を受けた。どうやら1次試験には通ったらしい。さあ、最終面接だ。

初めて会ったレールさんはスラリとした長身で、確か190㎝近くあった。智司社長より6歳下だが、同じくらいの年齢に見えた。その堂々たる体躯を、いかにも

「デザイナーだな」

という衣服で包んでいる。

智司社長によると、初対面らしい雑談は一切なかった。流ちょうではないが日本語も出来、その口からは質問しか出てこなかった。

「ええ、ホントに仕事の話しかないんです」

頭のいい人だった。ラッセル機の機構もすぐに理解してしまう。小1時間続いた質疑は徐々にパイルに絞られた。

※パイル:生地から出ている繊維。タオルを思い浮かべていただくと分かりやすい。パイルを輪っかのままにしたループパイルと、それをカットしたカットパイルがある。

当時、織物のパイルはいくらでもあったが、編み物のパイルは少なかった。松井ニット技研はOEMでずいぶん作っていて、編み見本にも入れていた。それに関心を持ったらしい。

レールさんの口から、驚くような一言が出た。

「これを多色でやりたい。できますか?」

編むパイル地は先染めの糸を使う。無地で良ければ生地になる糸とパイルになる糸の2本があればよく、編み工程はそれほど難しくはない。そんな機構だから、生地とパイルの色を違える程度ならすぐに出来る。しかし多色となると、パイルになる糸は数種類になる。それぞれの糸を巻くボビンの数が増え、工程は複雑さが幾何級数的に増える。そんな難しいことをやりたいと?

「先ほどのラッセル機の説明を聞いていて、あなたはそれが出来ると思った。多色で市松模様の生地が欲しい」

生地はベージュ、そこから生えるパイルは確か5、6色。

「いやあ、苦労しました。何しろ、そんなものはまだ世の中にない。私もやったことがない。しかし、私も職人です。出来るでしょ、といわれて、出来ません、とは言えませんからね」

その生地を使ったヨーガンレールは、売れに売れた。1シーズンだけでブームは終わらず、3シーズンも売れ続ける大ヒットになった。

「それを見て、他の編み屋さんも多色のパイル地を作るようになりました。編み物業界を変えたんです」

多色を編む。今のカラフルなマフラーに向けた松井ニットの第1歩はここで踏み出された。

写真:ヨーガン・レールさんの依頼で編んだストール。

その17 多色のリブ編み

レールさんの事務所から2度目の依頼があったのは、それから4、5年後だった。事務所を訪ねた2人に、レールさんはいった。

「多色でリブ編みの服地が欲しい」

いまでこそリブ編みは、松井ニット技研のお家芸である。毎年新しいデザインが出てくる毛混マフラーは、多色の組み合わせが生み出す独特のハーモニーと、やさしい肌触りのリブ編みが多くのファンを生み出している。

しかし、この時の松井ニット技研には、まだリブ編みに力を入れてはいなかった。リブ編みは普通の編み物に比べて手数がかかる。だから、発注先の求めに応じて無地のリブ編みは作っていたが、多色は手がけていない。

正直に打ち明けた。

「多色にすると色ごとに編み針の配置を変えねばなりません。針は鉛で固定しますが、耐久性に問題があり、不良品がたくさん出る恐れがあるのでまだ手がけていません」

レールさんの表情が変わった。

「いや、前回伺ったラッセル機の機構からいくと、この部分にこんな工夫をしたら出来るでしょう」

おそらくレールさんはラッセル機など見たこともないはずだ。だが、ずいぶん前に智司社長が説明した機構がすべて頭に入っており、新しい編み方の提案までする。レールさんは素晴らしい頭脳の持ち主だった。

レールさんの求めるリブ織りの服地には、条件があった。使うのはウールとシルク。細い糸に強く撚りをかける。もちろん、レールさんが指定した色を使う。レールさんが示したのはそれぞれ10色前後を使った4種類の生地だった。

「会社に戻って工場の職人たちと話し合い、とにかく編み始めました」

まず困ったのは色だった。茶色である。馴染みの染め屋さんに色を作って染めてもらうのだが、近い色は出るが同じ色がどうしても出ない。

「というわけで、どうしてもこの茶色が出ないんです」

と説明すると、意外な答えが返ってきた。

「いいよ。あなたが持って来たこの色、秋の枯葉の臭いがする。気に入りました」

突き返されるかと思っていた智司社長は感心した。

「この人は判断に幅がある。こんなデザイナーには会ったことがない」

次の障害は編み上がりから出てきた。傷が多いのである。使っているのは強く撚った糸である。編み上がると撚りが戻ろうとし、それが傷になるのだ。傷が出来れば手作業で修復するしかない。

「社内の女性軍から、こんな注文は2度と取ってくれるな、散々叱られました」

こうして生み出した生地もヒットして松井ニット技研の業績を助けたのはいうまでもない。

レールさんと仕事をしたのは、この2度だけである。せっかく生み出した多色のリブ編みも、その後はぷっつりとやめた。ほかにそんな注文はなかったし、女性軍の抗議もあったからだ。

それから4半世紀ほどあと、智司社長は再び多色のリブ編みに挑戦することになる。ニューヨークのA近代美術館のために取り組んだのだ。

「女性軍の抗議もありましたので、あの時は編み機を独自にカスタマイズして編み傷が出ないように変えました」

レールさんは多色によるデザインの楽しさを教えてくれた。計算されつくした多色のリブ織りの可能性を知らせてくれたのもレールさんである。

智司社長は目の前に飛んできた運をしっかりつかみ取りながらその時は気がつかず、後になって握りしめていた運を活かして独自のマフラーを作り上げたのだ。

写真:これもヨーガン・レールさんの求めで編んだストール。

その18 2冊の本

「その1」で書いたが、この連載を始めるとき、筆者は松井ニットデザインの原点にこだわった。美しさを愛でるだけでなく、どこからこんな「美」が生まれてくるのかを解き明かしたいと思った。

「じゃあねえ、これを読んでみてくれますか」

と智司社長が私に渡した本が2冊ある。

1冊は

「カンヂンスキーの芸術論」

とあった。縦25.5㎝、横19.5㎝の大型本で、たいそう古い。古色蒼然とした紙製のケース入りだ。取り出すと表紙は布製で、各ページの上の切り口には金色が施されている。「天金」と呼ばれる仕上げである。

奥付を開いてみた。大正13年(1924年)11月1日の発行で、定価6円とある。発行元はイデア書院(現在の玉川大学出版部)。著者はワシリー・カンディンスキー本人である。

「確かねえ、神田の古本屋街で買った古本です。いつだったかなあ」

と智司社長が付け足した。確かに、裏表紙の裏側に、鉛筆で「350」の書き込みがある。おそらく350円で売られていたのだろう。

すっかり黄ばんでしまったページを繰って本文にたどり着く。

「凡ての藝術品はその時代の子供である、然も亦屢々我々の感情の慈母である」

と始まる難しい本だ。

いま1冊は

「カンディンスキーとわたし」

ワシリーの妻だったニーナ・カンディンスキーが書いた。こちらは1980年8月25日発行である。

「帝政時代のロシアには古いおおみそかのしきたりがあって、婚期を迎えた年頃の娘たちのあいだで大へん人気があった」

と書き出されるこちらの方がずっと読みやすいし、分かりやすい。

ご記憶かも知れないが、カンディンスキーと智司社長については「KNITTING INN その10 ワシリー・カンディンスキー」、「その24 グッケンハイム美術館」で触れた。「Knitting Inn」という新しいブランドを立ち上げようとしていた若手デザイナーが智司社長をパリのポンピドゥ・センターへの旅に誘い、

「松井さんに、是非彼の絵を見ていただきたかった」

といった画家である。その時、30代後半だった智司社長は一目でカンディンスキーが創りだした世界に魅せられた。そのカンディンスキーの著書、彼の2人目の妻が書いた本を読めという。

松井ニット技研のマフラーの色彩は、マスメディアでは印象派の絵画に例えられることが多かった。智司社長、敏夫専務が揃って、印象派の絵画を好んでいるからだろう。

だが、智司社長はふと口にしたことがある。

「印象派の絵画に使われている色でマフラーをデザインすると、全体の印象が何だかぼけてしまうんですよね」

そうなのか。だとすると、智司社長が影響された西洋の美は、実は印象派の絵画ではなかったのではないか? 色使いの魔術師とでも呼びたくなるカンディンスキーの絵画、中でもその色使いが智司社長の原点の一つなのではないか?

そうであれば、どれほど読みにくかろうとこの2冊の本を読まねばならない。
自宅に戻った私はページを繰り始めた。

写真:ワシリー・カンディンスキーの「黄・赤・青」