その23 買い漁る

日本のデザイナーたちからの仕事受けるようになって、松井ニット技研もオシャレっぽいマフラーの製造を始めてはいた。だが、マフラーは先に染めた糸を使って編む。編んだあとで染めるのならたくさんの色が使えるが、先染めでたくさんの色を使うのは編む工程が複雑になりすぎる。だから、オシャレっぽいとはいいながら、ほとんどは単色のマフラーだった。使ってもせいぜい5色である。

しかし、フィレンツェでオシャレを楽しんでいるらしい男性たちがのぞき込んでいるウインドウには、たくさんの色を使ったマフラーがいくつも並んでいる。綺麗だ。

面白い。いずれ松井ニット技研もこんなマフラーを編むことになるのではないか。そんな予感を持ちながら智司社長はドアを開けて店内に入ると、

・全体の雰囲気

・色柄

・風合い

・糸の使い方

・サイズ 

・編み方

など参考になりそうなマフラーを10本前後購入した。

フィレンツェを出てミラノ、ローマを歩くと、智司社長の買い物は本格化する。目に着いたマフラーを片っ端から買ったのだ。ローマを出るときには、スーツケースがマフラーであふれかえっていた。

この旅で智司社長はいくつかのことを学んだという。

当時の日本のマフラーには楽しさが足りなかった。真知子巻きを例外とすれば、日本のマフラーは二重に折って首にかけ、前でクロスさせてその上から服を着るものだった。もっぱら首筋を寒気から守るもので、見せるものではなかった。だから色柄も地味だった。

しかしイタリアでは、マフラーは衣服の外に出して見せるものだった。だから明るい色が使われ、色数も多い。それにしても、男性用の真っ赤なマフラーとは!

日本のマフラーに足りないもの、それは「楽しさ」だった。

イタリアの洋品店のウインドウにも感心した。セーターやマフラー、傘などがみごとにコーディネートされ、ウインドウが一つのファッションの提案になっている。見ていて心が浮き立つ。フィレンツェでたくさんの男性がウインドウに見入っていたのもそのためだろう。

智司社長がミッソーニに出会ったのはミラノだった。そのブティックに並んでいる商品群に思わず目を奪われた。使われている色が実に綺麗である。それにミッソーニ独自の多色使いはみごとだ。色と色が喧嘩することなく、一つの世界をつくりだしている。

「思わず手を伸ばして買おうとしました。ところが、高い! マフラー1本が、当時の日本円に換算すると数万円もするんです。とても買えないと諦めました」

そのブティックに中年の婦人が入ってきた。何を買うんだろうと見ていると、やがて頭のてっぺんから足のつま先まで、その店で買ったミッソーニで身を固めて現れた。そして優雅にドアを開けると、歩き去った。

「いったいいくらの買い物をしたんだ!」

唖然としながら、

「でも、沢山の色が使われているのに、みごとにバランスが取れていてファッショナブルなんですよ。さすがにミッソーニです」

初めてのヨーロッパ旅行で智司社長は、ワシリー・カンディンスキーとミッソーニに出会った。後の智司社長から顧みれば、運命的な出会いだった。

だが、この時の智司社長はまだ、自分が多色のマフラーをデザインすることになるとは考えてもいなかった。イタリアのマフラーを買い集めたのは、あくまでマフラーメーカーとしての技術を高める参考資料としてでしかなかった。

写真:松井智司社長がイタリアで買い集めたマフラーの一部。いまでも大事に保存している。

その24 森山亮さん

桐生は衰退する繊維産業の町である。いま初めて桐生を訪れる人がいても、この町がかつて織物で全盛を誇った町と気がつく人は少ないかも知れない。

それは桐生人が一番痛切に分かっている。だから、織物の町、織都桐生を再興しようという試みは何度も繰り返されている。

昭和62年(1987年)にオープンした桐生地域地場産業振興センターもその試みの一つだった。織物の町桐生に勢いを取り戻す核にしたい、と関係者は意気込んだ。そして、

「この人ならやってくれるのではないか」

と白羽の矢が立ったのが森山亮さん(故人)である。明治時代、桐生の地で染色法、織機の改良に大きな功績を残し、近代の繊維産業史に名を残す森山芳平氏の血筋を引く森山亨さんは当時、大和紡績に勤めて衣料部長、製品部長、マーケティング部長などを歴任していた。職業柄、繊維についての深い知識と見識には定評があった。そして、ビジネスで培った幅広い人脈を持った人でもあった。

そこを見込み、

「桐生に戻ってこい」

と口説いたのは、桐生が生んだ世界的なテキスタイル・デザイナー、故新井淳一氏だった。

口説き落とされて桐生に戻った森山亮さんは桐生地域地場産業振興センター初代専務理事に就任するとすぐに動き始めた。翌昭和63年、産地桐生の新製品を一堂に集めた桐生テキスタイルプロモーションショー(TPS)を始めたのである。

「ええ、私どもも森山さんにお誘いいただいて展示会に出品しました」

と智司社長はいう。それが森山亮さんとの付き合いの始まりだった。

智司社長の記憶では、ショーは散々だった。あちこちからバイヤーが会場を訪れてくれたのだが、桐生の買い継ぎ(産地商社)が

「この人はうちの客だ。あんたたちは話さないでくれ」

と営業を遮った。だから、せっかく出品したのに、ちっとも客がつかない。

「しかし、森山さんからは、そんなものよりずっと大切なことを、数多く教えていただきました」

森山亮さんはTPSを毎年開くだけでなく、デザイナーやマーケティングのプロを桐生に招き、何度も講演会を開いた。おそらく、桐生に閉じこもってややもすると井の中の蛙になりがちな桐生の繊維関係者に

「世の中は広い。もっとたくさんのことを知り、たくさんの工夫をし、たくさんのネットワークを構築しなければ桐生の繊維産業の衰退は止まらない」

といいたかったのだろう。

智司社長には、そんなメッセージが心に響いた。

もっと琴線を揺すぶられたのは、親しくなった森山亮さんから、折に触れてもらったアドバイスである。

「発注元にいわれた通りに作っていてはダメです。自分で企画をし、作り、販売するようにならないといけません」

一言で言えば脱下請けを目指せ、ということなのだろう。下請けを脱して自分のブランドで商売をしなさい。あなたが創り出すものを直接市場に問いなさい。自立しなさい。

子供時代から工場の中が遊び場だった智司社長は、ものづくりが心の底から大好きだ。だからOEMメーカーではあっても、いい意味で発注者を裏切る製品を作り出そうと頑張ってきた。だが、それでもOEMメーカー、下請けであることに変わりはない。

「ええ、私、勘は鈍い方ですから、お話しを承った時は『なるほど、そんな時代が来るのだろうなあ』と感じただけだったのですけどね」

それが、しばらく後に花開くことになる。

写真:桐生地域地場産業振興センター

その25 世界一

松井ニット技研が生み出したマフラーが、突然「世界一」に選ばれたのは、2013年夏のことだった。コンテストがあって応募したのではない。宇宙飛行士、毛利衛さんが館長を務める日本科学未来館が勝手に選んだのである。

この年の4月、大阪・梅田に開業した複合施設「ナレッジキャピタル」が「THE世界一展」を企画した。これに日本科学未来館が協力、科学技術史グループの鈴木一義氏が監修して

「世界に誇る日本の優れた技術」

として170あまりの製品を選んだ。ソニーのウォークマン、ホンダのスーパーカブ、マツダのロータリーエンジン、日清食品のカップヌードルなどと並んで、松井ニット技研のアクリルミンキーマフラーが選ばれたのだった。すべての製品がまず大阪、次に東京で開かれた「THE世界一展」で展示された。

ひょっとしたら、あれは森山亮さんにたたき込まれた

「発注先にいわれた通りに作っていてはダメです。自分で企画をし、作り、販売するようにならないといけません」

というアドバイスが智司社長、敏夫専務の背中を押して作らせたものだったのかも知れない。作ったのは1990年代の半ばである。

このころ、三菱レイヨン(現三菱ケミカル)が新しいアクリル繊維を作った。毛羽立ちがしやすく、ミンクのような風合いが出せる、という触れ込みだった。そこは編み物職人である。興味を惹かれ、いくつか試作品を見てみた。どれも緯(よこ)編みのニット製品だった。

「この糸を経(たて)編みしてマフラーを作れないかな」

敏夫専務は別の機会に試作品を見たのだが、2人は全く同じことを考えた。松井ニット技研はやはりマフラーメーカーなのである。

・糸の特性を活かしてミンクタッチのものにする

・後処理で起毛する

・肌にまとわりつくのを防ぐため、帯電防止剤を使う

・柔軟剤を加える

と方針を決めると、新しい糸に職人魂を突き動かされた2人は早速作り始めた。

まず三菱レイヨンに数種類の太さの糸を発注した。そしてどんなものを作るか、2人で工夫を凝らした。

ミンクタッチにする。そのためには先染めは出来ない。染色と染料、染めるときの温度、染料に付けておく時間を組み合わせる技だが、100℃前後の高温にさらされたアクリル繊維は硬化して風合いが失われてしまう。一度硬化すると、元には戻せない。だから後染めにしよう。

編み方にも工夫を凝らした。ここは智司社長の出番である。ミンクの風合いを出すにはどんな編み方が相応しいのか。使い慣れたラッセル機を駆使して何度も試作を繰り返した。

「皆さんお気づきではないかも知れませんが、うちでしかできない編み方にしました。ええ、あの編み方を真似できるところはないと思います」

写真:「世界一」に選ばれたアクリルミンキーマフラー。

その26 指名買い

これだと思うものが編み上がると、次は染色である。

敏夫専務は商社時代、化学の知識も身につけていた。仕事に必要になったため、メーカーの研究所を尋ねて教えを請うたのだ。だから思いついた。

「特殊な帯電防止剤と柔軟剤を私は知っている。あれを使えばミンクそっくりのタッチが出せるはずだ!」

そして、後染めが出来るのなら是非グラデーションに染めようと決めた。染め屋さんを何件も訪ね、やってくれるところが見つかると敏夫専務が付きっきりで2つの薬剤の使用法を指導した。こうして出来上がったのがアクリルミンキーマフラーだった。

毛足が長く、柔軟剤の働きもあって肌に優しい。特殊な帯電防止剤を使っているから毛玉が出来ない。見ても触ってもミンクの毛皮のようだ。

それに、グラデーションも素晴らしい仕上がりだった。濃い緑が中央部に行くに連れてだんだん薄くなり、やがて白くなる。緑だけでなく、黒、茶、ブルー、ベージュ、紫、オレンジとたくさんの色を用意した。

「とあるアパレルにOEMで出しました。売れました。一時は生産が追いつかないほどで、嬉しい悲鳴を上げました」

やがて粗悪な類似品が出回るようになった。編み方が違い、染めの手順も違うからだろう、肌触りも風合いも全く比べものにならないものだったが、

「やっぱり良貨は悪貨に駆逐されるんですね」

安く売られる類似品に押されて売り上げが落ち、4、5年後に生産を止めた。そして、それっきりにした。

大人気商品を自力で創り出しながら、それを足場に自立しようとは考えもしなかった。だからだろうか、やがて粗悪品に市場を食い荒らされ、単なる一発屋で終わってしまった。まだ

「独自ブランドを持ってOEMメーカーを脱しよう」

とまでは思ってもみなかった松井ニット技研の歴史の一幕である。
森山さんの教えは頭にあったが、自立とは、頭にある知識だけでは出来ず、知識が心にストンと落ち、経営環境を含む周りが背中を押して初めて出来ることなのだろうか?

だが智司社長はこの時、自分の職人技、デザイン力が充分に通用するという確信は得た。いまから振り返れば、それも自立への一つの準備だったのだろう。

あれから10年以上たって、突然「世界一」に選ばれた。

「松井ニット技研といえばリブ織りのカラフルなマフラーが定番です。ミンキーとどちらを選ぼうかと迷いました」

とは、日本科学未来館開発企画担当者の話である。

2013年の「日本一」は仕事を生んだ。三越・伊勢丹グループから

「売りたい」

と声がかかったのである。ところが、生産を止めて10年以上もたつ製品だ。グラデーションの染めを頼んでいた染め屋さんはすでに廃業していた。他に当たったが、出来るというところがない。せっかくの商談も断るしかないと思い始めると、デパートの担当者は断らせてくれなかった。

「では、出来る工場を当方で探します」

店頭に並んだアクリルミンキーマフラーは、初日から

「松井ニットの黒のグラデーションが欲しい」

と指名買いが入るほどの人気を博したのである。

写真:アクリルミンキーマフラーにはこんな色もあった。

その27 UNTHINK

桐生に「UNTHINK」という勉強会が出来たのは、1995年のことである。立ち上げたのは黒沢レース(太田市)を率いた故黒沢岩雄さんだ。

この年、桐生市にある群馬県繊維工業試験場の親睦団体である群馬県繊維工業技術振興会の会長に黒沢さんが就任した。親睦団体だから、折に触れて講演会を開くのが主な活動だった。黒沢さんは前向きな経営者だった。

「俺は何かをする会長になりたい。何かいい考えはないか」

と声をかけられたのが、日頃から可愛がられていた智司社長だった。黒沢さんに

「松井君なら何かやってくれる」

と期待されていたのだろう。であれば、応えなければならない。

「こういうのはどうでしょう? 繊維の世界は縦系列ばかりです。機屋は編み屋のことを知らず、編み屋は刺繍屋のことを知りません。ちっぽけな世界で動き回って視野狭窄になっているような気がします。でも、この世界にも元気な若者はいます。編み物には経(た)て編みと緯(よこ)編みがあるように、そんな若者を縦だけではなく、業種の垣根を越えて横に繋げば、もっと業界全体が盛り上がるのではないでしょうか?」

二つ返事で採用された。機屋が編み物の技術を知る。編み屋は機屋の考え方を知る。それに刺繍、縫製などが加わって知恵を出し合えば、これまでになかった製品を生み出せるかも知れない。若い力で桐生の繊維産業を再興する!

「やってみろ」

これは、と思う若手に声をかけた。刺繍の笠盛、買い継ぎの丸中、和装小物メーカーの佐啓産業……。たちまち10数人が集まり、「UNTHINK」が生まれた。集まれば、まず飲み会である。だが、飲んでいるだけでは繊維産業の再興は出来ない。

県の助成金を得て、毎月1回例会を開いて講師を呼んで勉強を始めた。最初は、西武百貨店の婦人服部長などを歴任、後に独立してファッション業界に重きをなした三島彰さんだった。

2回目の例会に招いたのが、「ニットの神様」ともいわれた桑田路子さんである。森山亮さんが

「是非話を聞いた方がいい」

と紹介してくれた。

ニット、つまり編み物は智司社長の世界である。講演を二つ返事で引き受けてもらったあとは、ワクワクしながら例会を待った。

約1時間の講演はとても参考になった。中でも次の一言が頭にこびりついて忘れられなくなった。

「これからの時代、『多い』をキーワードに考えていくと面白くなるだろうと思っています」

なぜか、その言葉がストンと胸に落ちたのだ。

そういえば、私は「多い」に囲まれてこれまで生きてきた。子どもの頃大好きだった和服は様々な色の集まりだし、どんな色を使うかは画家の生命線の一つだ。高校生で惹きつけられた印象派の絵画も多彩な色彩が使われていたし、いまだに脳裏にこびりついているワシリー・カンディンスキーは色彩の魔術師ではないか。そして、ヨーガン・レールさんの求めに応じて、ラッセル機で多色の生地を編んだこともある……。
智司社長は新しい事業構想を考え始めた。

「多い、をキーワードにすると、多色、多重、多様、他面などいろんな言葉が生まれます。松井ニットのマフラーは、多色はもちろんですが、リブ編みで編むと組織が二重になっているので多重になり、男性にも女性にも使っていただけるジェンダーフリーという多様性もあります。リブ織りの畝は立体構造ですから多面ということにもなるんです」

智司社長は

「私は、何だか50代ですべてが始まったような気がしてるんですね」

という。半世紀にわたる様々な蓄積が混ぜ合わされ、やっと智司社長の中で熟成し始めたのがこの頃なのだ。

それから数年後、松井ニット技研はニューヨークのA近代美術館に見いだされた。間もなく独自ブランド「KNITTING INN」が生まれ、多くのファンの心を掴んでいるのはご存じの通りである。

写真:前列右端が故黒沢岩雄さん(黒沢レースにお借りしました)。