その16 ヨーガン・レール

運はいつも目の前を飛び交っており、その運をうまく掴めるかどうかは、それまでに重ねた準備次第だという。

中には、運をしっかり捕まえているのに、その時は気がつかない人もいる。あとになって

「ああ、あれだったのか」

と手の中に納まっている運を眺めやるのである。

智司社長とヨーガン・レールさんの出会いがそうだった。

レールさんを捕まえてきたのは敏夫専務だった。かつて勤めていた商社の人脈を辿り、数多くのデザイナーに営業をかけていた専務が出会った一人がレールさんだった。

レールさんはポーランド生まれのドイツ人である。10代の終わりからパリでデザインを学び、やがてニューヨークで活躍し始める。昭和46年(1971年)に旅行目的で来た日本になぜか定住し、翌年、ファッションブランド「ヨーガンレール」を立ち上げた。敏夫専務が接触したのはようやく軌道に乗り始めた時期だった。

2人で尋ねた。事務所は山手線浜松町駅から海の方に歩いた倉庫の上の方にあった。

レールさんは人嫌いでも知られる。よほどのことがないと、訪ねて来た人の応対は社員に任せ、本人は顔を出さない。この時もそうだった。

それでも、こちらは営業に来たのである。レールさんが出てこないからといって引き下がるわけにはいかない。対応してくれた社員に編み見本を見てもらいながら、松井ニットのラッセル機を詳細に説明した。反応は悪くなかった。

それから2、3日後だった。

「ヨーガン・レールがお目にかかりたいと申しています」

という電話を受けた。どうやら1次試験には通ったらしい。さあ、最終面接だ。

初めて会ったレールさんはスラリとした長身で、確か190㎝近くあった。智司社長より6歳下だが、同じくらいの年齢に見えた。その堂々たる体躯を、いかにも

「デザイナーだな」

という衣服で包んでいる。

智司社長によると、初対面らしい雑談は一切なかった。流ちょうではないが日本語も出来、その口からは質問しか出てこなかった。

「ええ、ホントに仕事の話しかないんです」

頭のいい人だった。ラッセル機の機構もすぐに理解してしまう。小1時間続いた質疑は徐々にパイルに絞られた。

※パイル:生地から出ている繊維。タオルを思い浮かべていただくと分かりやすい。パイルを輪っかのままにしたループパイルと、それをカットしたカットパイルがある。

当時、織物のパイルはいくらでもあったが、編み物のパイルは少なかった。松井ニット技研はOEMでずいぶん作っていて、編み見本にも入れていた。それに関心を持ったらしい。

レールさんの口から、驚くような一言が出た。

「これを多色でやりたい。できますか?」

編むパイル地は先染めの糸を使う。無地で良ければ生地になる糸とパイルになる糸の2本があればよく、編み工程はそれほど難しくはない。そんな機構だから、生地とパイルの色を違える程度ならすぐに出来る。しかし多色となると、パイルになる糸は数種類になる。それぞれの糸を巻くボビンの数が増え、工程は複雑さが幾何級数的に増える。そんな難しいことをやりたいと?

「先ほどのラッセル機の説明を聞いていて、あなたはそれが出来ると思った。多色で市松模様の生地が欲しい」

生地はベージュ、そこから生えるパイルは確か5、6色。

「いやあ、苦労しました。何しろ、そんなものはまだ世の中にない。私もやったことがない。しかし、私も職人です。出来るでしょ、といわれて、出来ません、とは言えませんからね」

その生地を使ったヨーガンレールは、売れに売れた。1シーズンだけでブームは終わらず、3シーズンも売れ続ける大ヒットになった。

「それを見て、他の編み屋さんも多色のパイル地を作るようになりました。編み物業界を変えたんです」

多色を編む。今のカラフルなマフラーに向けた松井ニットの第1歩はここで踏み出された。

写真:ヨーガン・レールさんの依頼で編んだストール。

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