織物で描く「絵画」 アライデザインシステムの1

【絵画織】
衣・食・住。それ無しでは暮らしが成り立たないギリギリの要素を、私達はそう呼び習わしてきた。体毛が薄い私たちが寒さから身を守るには衣服が必要なのは確かだが、生きるためにまず必要なのは「食」ではないか? しかし、3要素のはじめに「衣」を据えたのは、四季の寒暖がくっきりした日本列島で生をつないできた私達の先祖の美意識が埋め込まれているのかも知れない。
かつては動物の毛皮を身にまとっていた先祖たちは、やがて紡いだ糸で布を織る知恵を身につけた。毛皮に比べて、寒暖に応じて重ねたり、脱いだりするのが簡単である。当初は厳しい自然から体を守ることが出来さえすればよかった「衣」も、時代が下るにつれて技に磨きがかかって模様や織り柄が入り、色も多彩になって絢爛たる美を競い始める。桐生はその波に乗って織都になった。
昭和から平成に年号が変わる頃、
「織物はもっと美しくできるはずだ」
と考えた職人が桐生にいた。アライデザインの先代、新井實さんである。
織物は経糸(たていと)と緯糸(よこいと)を交差させる。織物に色柄をつけるのは主に緯糸の役割である。新井さんは経糸の上に現れる緯糸を「ドット」として見ることを思いついた。パソコンに接続したプリンタが打ち出す文書や写真は「ドット」の集まりである。そうであれば、織物で「点描画」が描けるはずだ。
それまでの織物では見られなかった精細度を持つアライデザインの独自技術「絵画織」はその時産声を上げた。

【婆娑羅像】
新井實さんが知り合いに絵はがき大の織物を見せられたのは昭和60年(1985年)前後のことだった。

「これ、中国の織物でね。白と黒の糸で織り、後で色を塗って絵画のように見せてるんだよ」

織物は先染めした糸で柄を織るか、無地に織り上げて後で染めるのが常識である。だが、白黒の糸で織って、あとで白いところに色を塗りつけて絵のように見せるとは。織りは粗く、出来上がった絵も絵画「風」でしかなかったが、何故か實さんはこの手法に興味を持った。

「よし、うちでもやってみよう」

だが、仕事については人一倍凝り性である。中国の粗い織物の真似をする気はさらさらない。さて、この白黒の2色で下絵を作るような中国の織物を、どうひねってやろう? 考えているうちに、布の表に現れる緯糸を「ドット」と考えれば、もっと繊細な絵が描けるはずだと思いついた。精度を極めれば、後で色を塗らなくても水墨画のような織物が出来るはずだ。

布のマジシャン トシテックスの3

【相次ぐマジック】
プリーツとは、織り上がった生地にプレスをかけて入れるもの、というのが常識である。ところが、

「最初からプリーツが入った生地は織れないものだろうか?」

という思ってもみなかった注文が舞い込んだのは2010年代半ばのことだった。常識をまったく無視した注文である。普通の機屋さんだったら

「そりゃあ無理ですよ」

とにべもなく断るのが普通だろう。金子さんも一度は

「できません」

という言葉が喉まで出かかった。だが、次の瞬間、

「ひょっとしたらできかも知れないぞ」

という思いが浮かんだ。思い当たることがあったからだ。

まだ金子織物にいたときのことである。糸や織物についてすべてを知っているのではないか、という先輩の職人さんがいた。金子織物で営業を担当していた金子さんは、客から難しい注文が入ると、必ずこの先輩に相談を持ちかけていた。
ある時、その先輩がふとつぶやいた。

「おい、この糸を使ったら、プリーツのような織物が出来るよな」

先輩の手にはポリウレタンの糸があった。ポリウレタンはウレタンゴムとも呼ばれる伸び縮みする繊維である。
その先輩の言葉が頭に浮かんだのである。

金子さんは答えた。

「解りました。やってみましょう」

ヒントは先輩の言葉だけである。ポリウレタン繊維を使えば何とかなるはずだ。しかし、どう使えばいい?
ポリウレタン繊維の縮む力を使う。プリーツの折り目にするところだけ縮んでくれれば、織り上がったときにプリーツが出来るはずだ……。

試行錯誤を続けた。完成したプリーツの入った布は、織機から出てくると、ほとんど自力で小さく折りたたまれて棒のようになる。普通の織物は巻いて納品するが、このプリーツ付き織物は箱に入れて納品する。

「なんかねえ、ああでもない、こうでもないとやってるうちに出来ちゃってね」

注文主に無事納品した金子さんはさらに一歩を踏み出した。

「この原理を活かせば、編み物でもプリーツを付けられるんじゃないか?」

プリーツの入ったマフラー

こうして登場したプリーツマフラーは、誰でも知っている著名デザイナーが採用した。彼のブランドで店頭に並んでいるから、目にされた方もいらっしゃるかも知れない。

マフラーだけではない。ジャケットの背中にこのプリーツを組み込み、新しい感覚のファッションを作り上げたデザイナーもいる。

布のマジシャン トシテックスの2

【鎖を編み込む】
「こんなの、編めませんかね」

ヨーロッパから戻ったばかりだという東京の客が鞄から取り出したのは、幅が1㎝ほどのテープだった。良く見ると、テープの端は編んだ紐で、真ん中に金属製のチェーンが梯子状にかかっている。2007、8年のことだ。

「イタリアで買って来たんだけど、同じものが作れたら欲しいと思って」

金子さんの工場に備わっている編み機もイタリア製である。ひょっとしたらそれを知って訪ねて来たのかも知れない。

左右の紐を先に編み、それにチェーンを手作業で渡していけば出来るだろう。だが、そんなことをしたら工賃がかさんで商品にはならない。編み機でチェーンを編み込むことが出来るか。

「うーん、出来るかも知れないね。少し時間を下さい」

客が帰ると、金子さんは近くのDIY店に車を走らせた。先ほど見たのと同じような金属製のチェーンを買うためである。
戻ると編み機の前に陣取り、普通は糸をかけるところにチェーンを装着して編み機を動かした。

「なーんだ。簡単に編めるじゃないか」

やや拍子抜けだった。そこで止まっていたら、単にコピー商品が出来たというだけである。編み機から出てくるテープを見て、金子さんの中でムクムクと湧き上がるものがあった。チャレンジ精神と呼んでもいい。あるいは金子さんのどこかに生き続ける、子供っぽい遊び心だったか。

布のマジシャン トシテックスの1

【故新井淳一氏】
日本を代表し、世界的にも大きな評価を受けた桐生市のテキスタイル・プランナー。それまで誰も目にしなかったテキスタイル、つまり織物を数多く産み出し、三宅一生氏、川久保玲氏ら、国際的にも名高いデザイナーに素材を提供した。作品を集めた個展を国内外で幅広く開催し、世界のテキスタイルデザインを牽引したといわれる。また、国内繊維産地の技術アドバイザーを務める一方、美術・工芸大学の教壇にも立って後進の指導に力を注いだ。
一般的にはテキスタイル・デザイナーと呼ばれることが多いが、新井氏はデザイナーという言葉を避け、プランナーと称した。布地のデザインをするだけでなく、織り方を含めた織物の総合的なクリエイターであるとの自負からだったと思われる。
1983年、毎日ファッション大賞特別賞受賞。1987年には英国王室芸術協会から英国名誉産業デザイナーを与えられた。また2003年、英国芸術大学連合から名誉博士号を受け、経歴は栄光に包まれている。そのためか、新井氏を慕って県内外から桐生市に移り住み、繊維産業に飛び込んだ若者も数多い。いまや彼らが繊維産地桐生の中核になろうとしている。

【開眼】
トシテックスを経営する金子俊之さんも新井氏の影響を受けた1人である。といっても、同じ町で生まれ育った大先輩に、地の利を活かして教えを受けたというのではない。

「新井さんの作品を初めて目にした時、なんかこう、開放感みたいなものを味わったんですね。新井さんが創り出した物って、それまでの織物では考えられなかったものかりでしょ。伝統的な織物に囲まれて育った目に、ああ、織物ってこれでもいいんだ、これでも織物として評価されるんだ、って映りまして。ええ、世界が広がったように思ったんです」

金子さんは2000年、一族が経営する金子織物から独立した。東京・六本木で開かれた新井さんの個展に足を運んだのは独立する前のことだ。

「これでいいんだったら、私にも出来るんじゃないかな、ってね」

独立した金子さんは機屋を開業した。自分では織機を持たず、新しい織物を求める客と企画を練り上げ、纏まったら外注に出す仕事である。独立当初は順調だったが、時を追って仕事が減った。これはいけないと、イタリア製の編み機を導入して群馬大学、群馬高専と炭素繊維の編み物を水質浄化に活かす研究・開発を始めた。その後スカーフを編み始めたが、どれも思ったように行かない。
そんなとき、新井さんの作品を思い出したのは、あの時思いがずっと頭の片隅で生き続けていたのかもしれない。

化学を極める ホリスレンの3

【洗面器からの出発】
前回、スレン染料は素人に扱えるような代物ではない、と書いた。だが、ホリスレンの初代、堀照尉(てるい)さんは、ほとんど素人同然の状態でこの事業を立ち上げた。昭和36年(1961年)のことである。

桐生工業高校の定時制を卒業した照尉さんは桐生市内の機屋に職を得た。染色まで手がける機屋で、照尉さんは染め終わった糸を干す仕事を割り振られた。しかし、その程度の仕事では満足な給与はもらえない。見切りをつけて独立、染色業を始めたのは、糸を干す傍らで染色の仕事を手伝わされ、自然に技が身についていたからである。

といっても、満足な開業資金はない。染色用の機械を備えるなど夢のような話だった。思いあまった照尉さんは洗面器に染料を入れて糸を染めた。夜を日に継ぐように仕事をしたが、それでも染め上がる糸はほんのわずかでしかない。赤貧洗うが如し、という暮らしからなかなか抜け出せなかった。

「あんた、スレン染めをやってみないか」

声をかけたのは、市内で糸に撚りをかける仕事をしている知り合いだった。取引先の、パールヨットという新進の刺繍糸メーカーが、スレン染めが出来るところを探しているという。パールヨットは色の堅牢度が高いスレン染めの糸に特化し、評価をぐんぐん伸ばしていた。

スレン染め? 知らない言葉ではなかった。工業高校の授業でほんの2時間余り、実習したこともある。記憶によると、あの染め方は難しい。俺に出来るか? しかし、選択肢はなかった。それが出来なければ今の暮らしから抜け出す術はない。

市内にスレン染めをする所があると聞いて教えを請いに行った。高価なスレン染料を市内の販売店で小分けしてもらい、見よう見まねで染めてみた。参考書が欲しかったが、そんな本は見当たらなかった。
そして、ほんの少しずつだが、市内の糸屋さんから注文が来始めた。

間もなく、パールヨットから注文が来た。綿糸を黒に染めてみろという。採用されれば、相手は伸び盛りの刺繍糸メーカーである。暮らしぶりは一転するに違いない。

黒に染めた。突き返された。

「濃度が足りない」

また染めた。また戻ってきた。3度、4度……。

10回突き返されて、あれほど膨らんでいたやる気が急速にしぼんだ。

「これ以上何をやれっていうんだ、ってね。それで妻とも話して、俺たち、食うにも困ってるけど、今度駄目だったら諦めよう、ってことにしたんです」

11回目の試作品。最後の試作品だった。数日後、パールヨットから知らせが来た。

「おい、あれでいいんだってさ。合格したよ、合格だ!」

その日、堀さん一家に喜びと安堵が爆発した。以来ホリスレンは、パールヨットと二人三脚で発展した。