街の灯 「PLUS+ アンカー」の話 その19 まちおこし

話を少し戻す。
そもそも、まちづくりとは何をすることだろうか?
川口さんは長い間、この問いに解を出そうと自問自答し続けてきた。

人通りがなくなった中心商店街に賑わいを取り戻そうという取り組みは数多く試みられてきた。だが、なかなか成果に結びついていないもの確かだ。そもそも、商店街に賑わいを取り戻すことがまちおこしなのか?
まちおこしとは、いろいろな意味で「選ばれる」まちにすることではないか? いま、いろいろな人たちが自分の生き方を求めて模索している。その模索の先に浮かび上がるまちのひとつになることではないか?
では、桐生に相応しいまちおこしとは?

「PLUS アンカー」で様々な人との繋がりができて、川口さんの脳裏に桐生のまちづくりの輪郭がおぼろげながら浮かんできた。
桐生は繊維産業の町である。かつては機屋や染色業、買継商(産地商社)、繊維機械工場、修理工場などが軒を連ねて全国一ともいえる賑わいを謳歌していた。言い換えれば、社長さんが山のようにいた町だった。
繊維産業の中心が日本を離れてアジアに移るにつれて、経営者である親が、あるいは後継者になるはずだった子供が事業の将来に見切りをつけるようになった。事業転換に成功したり、世界に誇る繊維製品を作り続けたりしているところもあるが、その数は少ない。

「だとすれば」

と川口さんは考えた。

「桐生の課題は後継者と事業承継ではないか」

いままで生きながらえている企業には10年先も20年先にも生き延びてもらいたい。

「事業を継ぐのが親族ではなくてもいいはずだ」

街の灯 「PLUS+ アンカー」の話 その20 「PLUS+ アンカー」って?

長くお読みいただいた「街の灯」も今回が最終回である。という段になって、迂闊な筆者は大事なことを忘れていることに気がついた。
「PLUS アンカー」の「PLUS」って、どういう意味なんだろう? 不動産会社「アンカー」に何を付け加えたというのだろう?

歴史的事実としては、命名作業は次のように進んだ。これからの説明をお読みいただく前提として、このページの見出しにある「PLUS+ アンカー」の表記は、ページ作成に使っているWordPressの機能の制約で「+」を小さく出来なかったことをお断りしておく。本当は、本文にあるように「」と小さく表記するのが正しい。

「さあ、名前を決めようよ」

と「アンカー」社内で声を出したのは貴志さんだった。改装工事が進み、そろそろ看板を作らねばならないころだった。
当初は「アンカー」を店名から外す予定だった。ところが、それを聞いた人たちが

「アンカーが運営していると明示してもらった方が安心だ」

と言い始めた。
そもそも「アンカー」とは船の碇(いかり)のことだ。船が漂流するのを防ぐために海に投げ込まれる碇は、船にとっては最後の「頼みの綱」である。

「みんなの頼みの綱になる会社にしたい」

創業時に貴志さんが選び抜いて決めた社名だ。いわれてみれば、新しく開くカフェだってそんな存在になりたいではないか。よし、「アンカー」を店名に入れよう。

社内から様々な案が出た。その中に「PLUS アンカー」があった。

「これだ!」

貴志さん、雅子さんをはじめ全員の意見が一致した。

貴志さんは宣言した。

「だから、アンカーに小さな『+』をプラスする。いまの『アンカー』では出来なかった何かを加える場所。本当は大きな『+』の方がいいが、最初は欲張らない。小さな『』から出発して、いつかは大きな『+』に育てよう。それに、カフェのお客様にも小さくてもいいから『』をプラスできる場所にしていこう」

桐生えびす講 その1  3丁目の大火

桐生市の目抜き通り、本町通は南北に走る長さ2.5kmにも及ぶ直線道路である。いまでこそシャッターが目立つ地方都市の一風景にすぎないが、桐生が織物で繁栄を極めていたころは大きな店構えの商店が軒を連ねてひしめき合い、人通りが絶えなかった。桐生近郊の人々はここを「おまち」と呼び、出向くときは下着まで取り替えて晴着を着込み、いまの東京・銀座にまさるとも劣らぬ人混みを楽しんだ。

その本町通の北の端に桐生天満宮がある。日本武尊(やまとたけるのみこと)の父とされる第12代の景行天皇の時代に起源を持つと伝わる。寛政5年(1793年)に落成したいまの社殿は当時の建築装飾美術の粋を集めたといわれ、群馬県指定の重要文化財である。

この桐生天満宮を起点に、本町通は1丁目から6丁目に向かって南に下がる。

その火は、天満宮から800mほど南に下がった3丁目の北端にあった綿屋、せんべい屋、座布団屋が入った長屋から出た。明治31年(1898年)5月12日、町が目覚め始めた午前7時20分のことだったと記録に残っている。

もう120年以上も昔の火事である。いま3丁目を歩いても火事の痕跡はひとかけらもない。出火原因も損害額も調べた限りでは分からなかった。火事で焼け出された人、目撃した人はすべて鬼籍に入っているのだから、いまさら調べようもない。

それでも猛火の記憶が残る家もある。3丁目の燃料商、原勢商店である。店主で町会長も務める原勢隆一さんは、

「親父から聞いたんですが」

と話し始めた。

その日は早朝から強い北風が吹いていた。その風が火勢を煽ったらしい。3丁目に立ち並ぶ木造家屋は北から南にかけて次々に火に包まれた。

このあたりは当時桐生新町と呼ばれ、桐生町の一角だった。突然の大火に、発足したばかりの桐生町の消防組合だけでなく、近隣の堺野村、相生村、大間々村、黒川村からも消防の応援が駆けつけ懸命の消火作業を続けたが、なかなか火勢は衰えない。隣家から隣家へと燃え移った火は63戸を全焼、5戸を半焼した(被災家屋は79戸、罹災者は294人という記録も残っている)。

原勢さんはいう。

「ええ、うちも全焼だったそうです。それで、やっぱり火事は怖いということになって、焼け跡に建て直した店舗兼住居は防火仕様にした。はい、厚さ30cmもある土壁でできた土蔵造り(注:冒頭の写真を参照して下さい)にしたんです。いまでもそのままですよ。なんでも、その後に起きた火事の時は土壁の外に張った板は類焼で焼けたが、土壁はそのまま残ったそうです。それがいまに繋がるわけです」

火事は、いまも3丁目の本町通沿い、八百友商店の敷地にひっそりと鎮座する「新田不動尊」の手前で鎮火した。

新田不動尊の建屋は2018年、新築された

「それでね、新田動尊の御利益はすごいものだ、ということになって、参拝客や信者が急増したそうですよ」

火事と喧嘩は江戸の華、という。江戸で流行った竹田からくりの後継者として江戸の文化を受け継ぐと自負する桐生にも、花だったかどうかは別として、火事は多かった。なにしろ、当時は木造家屋である。加えて、絹織物で繁栄を極めていた桐生の中心部だから、家と家の間にはほとんど隙間がない。それに、名物赤城おろしが吹く。明治4年、350軒に火の手が広がった4丁目の火事、明治8年には1丁目、2丁目を焼き尽くした「あかまや火事」、明治35年には1丁目の57戸を消失した火事が発生、明治36年には桐生警察署までが焼けた。

だが、この明治31年の大火は桐生に思わぬものをもたらした。桐生西宮神社と、関東一の賑わいを誇る桐生えびす講である。

だが、火事が何故そんなものをもたらしたのだろう?

桐生えびす講 その2 逆バネ

その頃、機屋や買い継ぎ商(地元商社)が軒を並べた1丁目、2丁目、4丁目などに比べて3丁目に大金持ちは少なく、資産家と呼べる規模の商家も多くはなかった。

だが、それは本町通のほかの町内に比べてのことである。3丁目が織都桐生の中心部に位置する豊かな町内だったことに変わりはない。残念ながら記録は見あたらなかったが、3丁目を総なめにした大火で煙と消えた資産は相当な額に上ったはずだ。

この大火のころ、桐生一の買い継ぎ商として桐生経済の牽引車の一つであった佐羽商店が店を閉めた。三井家と手を組んで明治20年(1887年)に創業した日本織物株式会社が、三井家が経営から手を引いたことやイギリスへの輸出に問題が起きたことなどからうまく回らなくなった。明治31年になると

「佐羽家がえらい損害を受けた」

という噂がたち始めて本町4丁目にあった佐羽商店に取り付け騒ぎが起き、家財や帳簿類がみな持ち出された。佐羽家は商売に見切りをつけて日本織物会社の経営に専念するようになった。

桐生市織姫町に残る大正期のタービン

ちなみに、日本織物会社は繊維製品の輸入を減らし、逆に輸出で国を富まそうと、糸から製品まで一貫生産する織物会社として資本金50万円で設立された。本部は東京に置き、桐生には9万坪(約30万㎡)の広大な工場があった。この工場は日本で最も古い水力発電所を持ち、工場と従業員宿舎で使う電力を自ら発電していた。この会社から手を引いた三井家は、政府から富岡製糸場を5万円で払い下げを受けて経営を始めた(後に、再び日本織物会社に参画する)。
冒頭の写真は、日本織物会社にあった「織姫神社」である。

「そちら(富岡製糸場)の方がこちらに出すよりはるかに得なのです。三井は非常にうまく立ち回るのです」

とは、佐羽家の子孫、故佐羽秀夫さんの話である。

話を元に戻そう。

桐生の近代化を担うはずだった日本織物会社の経営不振、桐生経済を引っ張っていた佐羽商店の廃業、そして追いかけるように起きた3丁目の大火。一つの町をこれだけ次々に不幸が襲えば、普通は町を挙げてシュンとなる。しばらくは町から賑わいが消えてしまう。

ところが、桐生は常識が通用しない町なのかも知れない。町衆と呼ばれる桐生の旦那衆は、クヨクヨ、メソメソするどころか、逆に拳を振り上げて立ち上がった。

「災いを転じて福としよう。福の神=えびす様を祀る西宮神社を桐生に招聘しようではないか」

いつ、誰が言い出したのかははっきりしない。だが、3年後の明治34年(1901年)11月15日には桐生の代表2人が西宮市の西宮神社本社にお願いに上がり、分霊を認められた。その5日後の20日、桐生西宮神社が誕生した。桐生えびす講は桐生西宮神社の神事として、その年から始まった。

最終的な調印する代表団を送り出すまでには様々な下準備がいる。まず、町の総意を取り付け、分霊勧請、社殿造営に必要な資金を集めなければ話は始まらない。地元でそんな準備をコツコツと積み上げながら、西宮神社本社を何度も足を運んでお願いを繰り返したはずだ。

一方で町は3丁目大火の後始末に追われていた。記録によると、総額で1637円の義援金が集まって被災者に配分されている。

西宮神社招聘に向けた準備は、その中を縫うように着々と進んでいたのである。

どうしようもない災禍に見舞われ、どん底に落ちかけたときに

「なにくそ!」

と踏みとどまり、町の未来のために種をまく。筆者はこれを

桐生の逆バネ

と名付けた。

昨今の桐生は目覆いたくなるほどの衰退が進む。

「おい、どこまで落ち込むんだ? それとも、逆バネが働き始めるには、まだ落ち込み方が少ないのか?」

ふと気がつくと、筆者はそんな目で桐生を見ていることがある。桐生はそんな想いを呼び起こす、実に面白い町なのだ。

桐生えびす講 その3 翁鉾

たった一例だけで

桐生の逆バネ

こちらを向いたのが「翁鉾」

とは大げさすぎる、と思われる方もあるかも知れない。実は、筆者が知るだけでも、もう一つ実例がある。桐生えびす講から少し外れるが、それを紹介したい。あの大火で町を総なめにされた本町3丁目の

「翁鉾」(冒頭の写真)

である。

いまも桐生の夏の祭典、桐生祇園祭に使われる「翁鉾」は文久2年(1862年)の祇園祭でデビューを飾った。最上部に身の丈2mほどもある翁の面をつけた人形(源頼朝の像だといわれる)がすっくと立ち、全高は7.5m。金箔を張り巡らせた龍の彫り物が施された偉容は、往時の桐生の勢いをしのばせるに十分だ。桐生祇園祭では多くの引き手に引かれて本町通を静々と巡幸する。祭りの2日目の夜、南隣の本町4丁目の「四丁目鉾」(明治8年=1875年作)と行き違う「曳き違い」で桐生祇園祭の賑わいは頂点に達する。

「翁鉾」ができた文久2年、桐生には一触即発の不穏な空気が流れていた。仕事がない、暮らしていけない、という不満、憤懣、不安が渦巻いていた。きっかけは、

「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たった四杯で夜も眠れず」

という狂歌で知られるペリーの来航である。

はるばるアメリカからやって来た四隻の蒸気船の開国圧力に屈した江戸幕府は鎖国政策を放棄し、安政6年(1859年)、横浜、長崎、函館の港を米・英・仏・露・蘭の5カ国に開港した。それが尊皇攘夷を唱える討幕派の志士たちを刺激して討幕運動が激しくなり、明治維新につながったというのが歴史の流れである。

その大きな流れの中で、桐生は思っても見なかった苦難に直面する。絹織物の町桐生に、原料である絹糸が回ってこなくなったのだ。

それでなくても数年前から繭の不作が続き、安政6年の春には生糸が5割も値上がりしていた。そこへ、開港と同時に生糸の輸出が始まった。この頃、生糸を輸出すると国内で売りさばく数倍の利益が生まれていた。そのため、生糸商は手持ちの生糸のほとんどを輸出に回した。おかげで国内の生糸価格はうなぎ登りになり、夏には2倍、秋冬には3倍にも高騰した。これでは仕事にならない。

桐生の旦那衆は何度も生糸輸出の禁止を幕府に願い出た。ついには時の大老井伊直弼、老中間部詮勝(まなべ あきかつ)に直訴に及ぶ。それでも生糸価格は下がらず、桐生では、生糸商が輸出用に大量の生糸を買い集めているから生糸が手に入らないのだ、という噂が飛び交い始めた。お救い米で食いつなぐまでになっていた職人たちに不穏な動きが出始めたのも無理からぬ事だった。

万延元年(1860年)、桐生祇園祭は、6町が万灯を飾るだけの質素なものになった。翌文久元年はその万灯を出したのも1町だけという寂しさで、加えて米の価格も急騰した。桐生はどん底まで追い詰められた。

そして文久2年。この年の天王番(祇園祭を取り仕切る町内)は本町3丁目だった。その3丁目が祭りの準備のために4月30日に開いた町会で、突然

「桐生には鉾がない。この際、鉾を作ろうではないか。それも後々まで使える半永久的なものがいい」

と衆議一致したのである。

もちろん、事前に組んでいた予算で足りる話ではない。町会の予算は倍増され、豊かでない人にも5割増しの負担を求めた。それをみんなが受け入れた。

最も贅をこらしたのは龍の彫り物だ。彫り物名人の名をほしいままにしていた石原常八に依頼した龍の彫り物は、全体に金箔を施した。新調の鉾は6月23,24日の2日間、町を練って見物客を惹きつけた。

以上が桐生に残る歴史だが、あの壮大な翁鉾がたった2ヶ月足らずでできるはずがない。準備はもっと前から進められ、数年前には発注されていたはずだ。つまり、桐生が塗炭の苦しみを嘗めていたさなかに贅をこらした翁鉾の建造計画は始まったはずなのだ。

これも

桐生の逆バネ

ではないか?

これで納得していただけただろうか?