桐生えびす講 その2 逆バネ

その頃、機屋や買い継ぎ商(地元商社)が軒を並べた1丁目、2丁目、4丁目などに比べて3丁目に大金持ちは少なく、資産家と呼べる規模の商家も多くはなかった。

だが、それは本町通のほかの町内に比べてのことである。3丁目が織都桐生の中心部に位置する豊かな町内だったことに変わりはない。残念ながら記録は見あたらなかったが、3丁目を総なめにした大火で煙と消えた資産は相当な額に上ったはずだ。

この大火のころ、桐生一の買い継ぎ商として桐生経済の牽引車の一つであった佐羽商店が店を閉めた。三井家と手を組んで明治20年(1887年)に創業した日本織物株式会社が、三井家が経営から手を引いたことやイギリスへの輸出に問題が起きたことなどからうまく回らなくなった。明治31年になると

「佐羽家がえらい損害を受けた」

という噂がたち始めて本町4丁目にあった佐羽商店に取り付け騒ぎが起き、家財や帳簿類がみな持ち出された。佐羽家は商売に見切りをつけて日本織物会社の経営に専念するようになった。

桐生市織姫町に残る大正期のタービン

ちなみに、日本織物会社は繊維製品の輸入を減らし、逆に輸出で国を富まそうと、糸から製品まで一貫生産する織物会社として資本金50万円で設立された。本部は東京に置き、桐生には9万坪(約30万㎡)の広大な工場があった。この工場は日本で最も古い水力発電所を持ち、工場と従業員宿舎で使う電力を自ら発電していた。この会社から手を引いた三井家は、政府から富岡製糸場を5万円で払い下げを受けて経営を始めた(後に、再び日本織物会社に参画する)。
冒頭の写真は、日本織物会社にあった「織姫神社」である。

「そちら(富岡製糸場)の方がこちらに出すよりはるかに得なのです。三井は非常にうまく立ち回るのです」

とは、佐羽家の子孫、故佐羽秀夫さんの話である。

話を元に戻そう。

桐生の近代化を担うはずだった日本織物会社の経営不振、桐生経済を引っ張っていた佐羽商店の廃業、そして追いかけるように起きた3丁目の大火。一つの町をこれだけ次々に不幸が襲えば、普通は町を挙げてシュンとなる。しばらくは町から賑わいが消えてしまう。

ところが、桐生は常識が通用しない町なのかも知れない。町衆と呼ばれる桐生の旦那衆は、クヨクヨ、メソメソするどころか、逆に拳を振り上げて立ち上がった。

「災いを転じて福としよう。福の神=えびす様を祀る西宮神社を桐生に招聘しようではないか」

いつ、誰が言い出したのかははっきりしない。だが、3年後の明治34年(1901年)11月15日には桐生の代表2人が西宮市の西宮神社本社にお願いに上がり、分霊を認められた。その5日後の20日、桐生西宮神社が誕生した。桐生えびす講は桐生西宮神社の神事として、その年から始まった。

最終的な調印する代表団を送り出すまでには様々な下準備がいる。まず、町の総意を取り付け、分霊勧請、社殿造営に必要な資金を集めなければ話は始まらない。地元でそんな準備をコツコツと積み上げながら、西宮神社本社を何度も足を運んでお願いを繰り返したはずだ。

一方で町は3丁目大火の後始末に追われていた。記録によると、総額で1637円の義援金が集まって被災者に配分されている。

西宮神社招聘に向けた準備は、その中を縫うように着々と進んでいたのである。

どうしようもない災禍に見舞われ、どん底に落ちかけたときに

「なにくそ!」

と踏みとどまり、町の未来のために種をまく。筆者はこれを

桐生の逆バネ

と名付けた。

昨今の桐生は目覆いたくなるほどの衰退が進む。

「おい、どこまで落ち込むんだ? それとも、逆バネが働き始めるには、まだ落ち込み方が少ないのか?」

ふと気がつくと、筆者はそんな目で桐生を見ていることがある。桐生はそんな想いを呼び起こす、実に面白い町なのだ。

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