桐生えびす講 その4 ポケットマネー

話を桐生西宮神社と桐生えびす講に戻そう。

桐生には江戸時代から「えびす信仰」が広まっていた。絹織物の生産地であり、絹織物取引の一つの中心地でもあった桐生には、いまでいう「社長さん」がたくさんいた。事業の繁栄を願う「福の神信仰」は自然な流れなのだろう。毎年のように西宮神社本社に参詣する人たちもかなりの数に上っていた。

だから、桐生にえびす信仰の記録は数多い。

夷請前市(えびすこまえいち)と呼ばれる絹市が古くから開かれ、明和3年(1766年)には、人出が多いので町中の警備と火の用心を役人に願い出た記録が残っている。

桐生の豪商だった佐羽家は,文政8年(1825年)に定めた家定家訓(いまの社訓にあたる)に「西宮大神宮を信仰せよ」と明記している。その改訂版である天保9年(1838年)版には、勤務時間は朝4時から夜10時までが通例だった時代に、蛭子様(えびすさま)の日には夜なべ仕事はしなくてよい、と書いている。

また佐羽家と並ぶ買い継ぎ商だった書上(かきあげ)家は、毎年えびす講の日には取引先、同業者、町内有力者、出入り職人などを招いて大宴会を開いていた。

それほどえびす信仰が浸透した町だから、

「災いを転じて福とする。それにはえびす様をお招きするに如(し)くはない」

という空気が3丁目の大火をきっかけに盛り上がったのだろう。
えびす様を兵庫・西宮から桐生へお招きするには費用がかかった。

信任金:50円

御分霊料:30円

遷座に伴う諸費用:399円

合計:479円

である。この費用はすべて、町の総意を取り付けた19人の世話人が負担した。

御霊を分けてもらっただけでは神社はできない。社殿がなければ神社とは呼べないのである。社殿を新しく建てなければならない。

本殿・拝殿用材料費:750円

大工手間:552円

本殿・拝殿屋根:342円

石工一式:220円

左官一式:45円

建具:100円

その他:480円

合計:2489円

これを270人の町民が3293円50銭を寄付してまかない、桐生市史によると明治38年、式内社である美和神社の境内に落成した(年代には異論もある)。

雪の桐生西宮神社

現代のように「政教分離」という考え方はなかった時代である。いまなら

「何も、全額我々が負担することはない。国や県、市から補助金を出させよう」

という人が現れるのかもしれない。だが、当時の人たちがそんなことを言い出した記録はない。町を元気にするのは自分たちのためなのだ。その費用を自分たちが出すのが当たり前ではないか。

それは、時代の空気だったのか。それとも、桐生の先人たちの心意気だったのか。

「しかし、この費用をいまの貨幣価値に直したらどれくらいになるのか?」

と試算した人がいる。郷土史家の平塚貞作さんである。米の価格を元に計算すると、社殿造営費は618万8181円になった。しかし、いまはこのこれしきの金では個人住宅が建つかどうかも不確かだ。違和感を持った平塚さんは日本銀行の「消費者物価指数」「企業物価指数」ではじいてみたが、それでも862万円にしかならない。

試行錯誤のすえ、とりあえずの指標として平塚さんは、この間の賃金の推移を指標にした。それによると、明治30年頃の小学校教員やお巡りさんの初任給は8円から9円、1人前の大工さんや工場のベテラン技術者の賃金が月に20円程度だったことから、当時の1円はいまの2万円程度にあたるとはじきだした。

それで計算すると、

分霊勧請の費用は958万円、社殿造営費は4538万円ということになる。あわせれば5496万円。

桐生の先人たちがこれだけの金をポンとポケットマネーから出し、桐生西宮神社が生まれ、一緒に桐生えびす講も誕生したのである。

桐生えびす講 その5 おおらかさ

えびす講とは、一方では神社の神事である。旧暦10月は別命「神無月」と呼ばれる。すべての神様が出雲大社に集まって会議をする。この間、それぞれの神社は神様が留守になるのでこう呼ばれる。だから、全国の神様が集まってくる出雲では、同じ月を「神在月」という。

本当にすべての神様が自宅を留守にするかというと、実はそうでもない。えびす様だけは出雲への団体旅行に出かけることなく、しっかりと留守番をする。だから神無月にえびすの神を祀る神社で

「留守番ご苦労様です」

と感謝を捧げ、合わせて五穀豊穣、商売繁盛などを祈願するのだ。桐生西宮神社は旧暦に合わせ、毎年11月19日、20日に「えびす講祭礼」を執りおこなう(これとは違う言い伝えが残る地方もある)。

だがえびす講は他方で、神社の経営マインドが現れたイベントでもある。

「神様にお詣りするだけではちと寂しかろう」

と考えたのかどうかは分からないが、この2日間、参拝客だけではない人の賑わいを創り出そうというプランナーが神社関係にいたらしい。本来は神事であるえびす講を、気持ちがワクワクし、身体がソワソワと動き出す楽しいお祭りにしてしまったのである。

境内に芝居小屋や見せ物小屋を出し、役者や歌手を招いてたくさんの人たちを惹きつけた。できた人の波は商いにとっては福の神である。地元商店は我も我もと神社のまわりに屋台を出し、本店ではえびす講協賛のバーゲンセールを開く。やがて人の渦に引かれて街露商も次々と店を出して華やかな祭り気分を盛り上げた。
神商一体、とでもいおうか。

この賑わいぶりを見よ!

神殿内に店を開く商人たちに

「わたしの父の家を商売の家としてはならない」

と怒りの声を揚げて追い払ったのはイエス・キリストである。

えびすの神は

「きばりなはれや。儲けなはれや」

と背中を押してくれる。実におおらかな神様なのだ。

桐生に西宮神社を招き、桐生えびす講を立ち上げた先人たちも、えびすの神に押されるようにきばり、儲けを心がけた。明治34年、第1回のえびす講では相撲が興行された。その費用は30円(先の1円=2万円に従えば、いまのお金で60万円)かかったと記録にある。翌年の第2回では興行師を起用し、子供たちによる賑やかなお囃子がついた花山車(はなだし)が登場して祭りを盛り上げた。こちらには50円が支払われているから、いまに直せば100万円である。

こうしたイベントを挙行するには、原資がいる。だから先人たちは収入確保にも意を配った。桐生西宮神社の信仰組織として「請」を育てたのである。栃木県や埼玉県、また群馬県内でも遠いところには、10人が一組になってその1人が代表して桐生西宮神社の神事に参加する「代参請」を組織した。毎年桐生まで足を運ぶのは難しくても、10年に一度ならそれほどの負担にはならない。そして、桐生とその周辺では「一人請」である。

「代参請」で出向いた人には、第1回えびす講では金色の恵比須大黒像を贈呈し、御神酒と折り詰め寿司の昼食でもてなした。2回目以降も毎回変わった「福の神グッズ」を用意した。

こうした工夫の成果だろう。明治34年には1000人だった請員が、翌35年には2000人に倍増している。広告宣伝費を使いながら収入増を図る。企業経営のノウハウがここにも活かされていたのである。

だが、それでもえびす講の運営は大変だったらしい。

いま、えびす講を運営する世話人会の代表(これを「総務」と呼ぶ)の岡部信一郎さんは世話人になりたてのころ、えびす講の間は裏方として忙しい世話人に弁当を出すことにした。すると、長く世話人を務めていた父に注意を受けた。

「弁当なんて贅沢だ。俺が世話人の頃はサンマを買ってきて七輪で焼き、それをおかずに飯を食って経費を減らしたもんだ」

入るを量りて出ずるを制す、は商売の原点だ。こうした先人たちの努力と工夫が、今年119回目を迎える桐生えびす講を支えてきたのである。

桐生えびす講 その6 関東一

桐生えびす講は「関東一の賑わい」を自称する。関東一? 目を東京に移せば、三社祭、神田祭など、人であふれかえる祭りは数多い。明治神宮や浅草寺には300万人前後の初詣客が押し寄せる。

では、桐生えびす講は?

かつては

「40万人の参拝客」

といわれたこともあるが、その数はお手盛りが過ぎるらしい。世話人総務の岡部さんによると

「お札の売れ行きや監視カメラの映像の分析から試算すると、20万人前後だと思います」

では、

「関東一の賑わい」

とは何なのだろう?

一つは境内や参道の狭さによる人混みではないか。桐生西宮神社は、式内社(平安時代に編纂された「延喜式」に記載された神社)である美和神社の境内摂社である。つまり、美和神社の境内に建てられた。この境内がすこぶる狭い。

中でも、桐生西宮神社の社殿にいたる61段の上り階段は幅11m程度しかなく、ここが登りと下りに分離されている。上り階段は幅7mほどなので、冒頭の写真のようにえびす講の開催中、時間によるとこの階段が人の列で埋まってしまう。列の最後尾は61段下の山手通りにまではみ出し、参拝するのに40分、1時間待ちとなってしまう。それでも参拝客は、アリの歩みが100mの桐生祥秀選手のスピードにも思われる列の中で、なかなか巡ってこない自分の順番を待ちながら半歩、一歩ずつ前に進む。

この混雑ぶりは、確かに関東一かも知れない。

の人混みが「関東一」を支える

本町通から桐生西宮神社の鳥居前に続く参道は、別命「えびす通り」というが、幅は7mほどしかない。その両側に露天商の屋台がずらりと並び、参拝客はわずかに残った隙間を、ともすれば行き交う人と肩を触れあいながら神社を目指す。

鳥居の前で「えびす通り」と交わる山手通りも歩道を含めた幅は10m強で、こちらも「えびす通り」と同じ人の波が現れる。

雑踏時の東京・銀座でもここまではないという人いきれで一帯は包まれる。これも関東一の賑わいぶりかも知れない。

いずれをとっても、条件付きの「関東一」でしかない。では「関東一の賑わい」は誇大宣伝なのか?

桐生にはえびす講がなければ生まれなかっただろう、という不思議な風習がある。「その4」で書上家が取引先などを招いて宴を張ったことは書いたが、同じようなことは桐生の機屋さんでは広く行われていた。

それだけでなく、この日は奉公人にも恩恵があった。長い勤務時間をこの日だけ「午後は早じまい」にした機屋さんは数多くあった。それに、江戸から明治にかけては、朝食と昼食のおかずは漬け物だけ、夜は煮豆と煮浸しが加わる程度の粗食しか出なかったが、この日は豪勢な食事が振る舞われ、酒が出た。そして、奉公人に小遣いを渡してえびす講に送り出す機屋さんも結構あったという。

いまは世界的なマフラーメーカーの松井ニット技研は、創業時は銘仙やお召しを織る機屋だった。

「ええ、祖父の代までえびす講の日は仕事を早めに終えて職人さんたちにお小遣いを渡していましたね。それが終わると,職人さんたちは嬉しそうにえびす講に出かけていました」

と語るのは、松井智司社長である。

桐生市役所の給料日は、毎月22日である。ところが、桐生えびす講がある11月だけは、19日に繰り上げて支給されていた。市内の企業が従業員に小遣いを支給しているのにあわせたのである。旧新里村、黒保根村と合併した翌年の2006年まで実施されていた特別措置だ。

それでなくても、

「えびす講になると財布の紐が緩む」

といわれる桐生だ。従業員に小遣いを渡し、給料日を前倒しするのは、みんなこぞって桐生えびす講をもっと盛り上げよう、2倍、3倍の賑わいを創り出そうという、町、市を挙げての、いまでいえば民間主導の住民運動であったのだ。

確かに、「関東一」の賑わいではなかったろう。だが、桐生人たちは「関東一の賑わい」を自分たちの手で生み出そうという心意気を持ち、工夫と努力を積み重ねていたのだと思う。その心意気は「関東一」ではないか?

いかがだろう。やや桐生贔屓が過ぎる解釈だろうか?

桐生えびす講 その7 関東一社(上)

ある経営書によると、自分の会社にある「No.1」を探すのは,経営計画の入り口である。製品の品質の高さなのか、最新鋭の生産設備と効率的な生産システムによる価格の安さか、それともデザイン力か。

満天下に

「我が社のこれはNo.1です」

と胸を張れるものがあるかどうか。

この経営書には確か、No.1が見つかるまで、どんどん分野を細かく区分けしなさい、とあった。ネジのメーカーなら、例えばネジ全部から、ステンレスネジに狭める。それでもNo.1でなければ、ステンレスの平ネジ、とさらに狭める。それでもダメなら、1.8cmのステンレスの平ネジ、と、どんどん小さな範囲に絞る。自社の製品の何かが「No.1」と呼べるまでこれを繰り返すのである。

筆者がとある音楽ホールの支配人をしたとき、この手法を採用したことがある。

就任したとき、ホールのキャッチコピーは、

「世界で9本の指に入る音楽ホール」

であった。前任者に根拠をただすと、アメリカの音響学者が世界中のおもだったホールを調査して出した結論だという。英語で書かれたその本を見ると、最優秀に3ホール、その次の優秀に6ホールが挙げられており、その6つのホールの一つに私が任されたホールがあった。確かに9本の指に入っている。だが、「No.1」ではない。

「優秀」の6つのホールを横並びと見れば、世界で4番目の音響を誇るホールともいえそうだが、「4番目」では何とも落ち着きが悪い。そこで一覧表を何度も眺めていてあることに気がついた。ほかの8つのホールはすべて1500人以上の収容力がある大ホールである。フルオーケストラが演奏できる。しかし、我が社のホールの収容力は552人。ステージも小さく、せいぜい30人の小編成オーケストラしか乗ることができない。

「これだ!」

と私は膝を叩いた。生まれたキャッチコピーは

「世界で最も響きが美しい室内楽専用ホール」

である。

私は「No.1」を見つけた。それからのホール経営の基盤にすえた上であれこれ手を打って、たった1年間でホールの赤字を1億2000万円ほど縮小できた。同じようなことは、数多くの成功企業で試みられているに違いない。

桐生西宮神社を作り、運営してきた人々にそんな経営学の知識があったかどうかは不明だが、ここも「No.1」を持つ。とはいえ、西宮神社本社から分霊勧請を受けてできた、いわば「支社」格の神社だから、「日本一」「世界一」は本社に譲らなければならない。そこで桐生西宮神社が選んだのは

「関東一社」

というキャッチコピーだった。冒頭の写真に見るように、「関東一社」を刻み込んだ石柱まで立て、桐生西宮神社は関東で唯一の西宮神社である、と満天下に宣言して今日まで続いてきた。

ちょっと待て、と首をひねられる方が多いかも知れない。群馬県内を見ても沼田市に沼田西宮神社があるし、隣の栃木県足利市には足利西宮神社がある。東京にも、えびす、大黒の姿を描いた御神影札(おみえふだ)を頒布している神社はある。それなのに、なぜ桐生西宮神社が「関東一社」なのか?

桐生えびす講 その8  関東一社(下)

繰り返しになるが、桐生西宮神社は明治34年、西宮神社に分霊を認めてもらってできた。西宮神社を名乗るところでこうした記録が残っているのは関東では桐生だけだ。

隣の足利西宮神社は慶長8年(1603年)、時の代官が寄付を募って摂津国西宮大神を作ったのが始まりとある。桐生より歴史ははるかに長いが、西宮神社本社との関係は明らかでない。関東にあるほかの西宮神社も同じような事情で、本社直系と名乗ることができるのは関東では桐生西宮神社だけなのだ。

では、本社直系だと何が違うのか?

西宮神社本社は寛文3年(1664年)、江戸幕府から「日本国中像札賦与御免(にほんこくちゅうぞうさつふごめん)」を受けた。いわば、西宮神社が配布する御神影札だけが「本物」であると認められたのである。江戸幕府を後ろ盾にした著作権が確立したといってもいい。

その後西宮神社本社は、この著作権を背景に、お札と御神影札を布教のキーグッズとして使ってきた。全国各地に、本社から免許状を受けた「願人(がんにん)」というお札を配る人を置いた。この願人たちが、信者の家を1軒ずつ歩き、本社で版木刷りしたお札と御神影札を届けた。願人たちに免許状を出したのは、当時、えびす、大黒を描いた札を勝手に配布する動きがあったためだ。著作権を持つ西宮神社本社は、願人が届けるものだけが「本物」であると説明することができたわけだ。

願人は信者たちから「初穂料」を受け取り、集めて本社に送る。全国から集まった初穂料が本社を経済的に支えたのはいうまでもない。

それだけでなく、信者が増えれば願人の手元に残るお金も増える。つまり、本社と願人は、いまでいうWIN-WINの関係で結ばれていた。

そして、わざわざ遠い西宮まで足を運ばなくても、毎年新しいお札や御神影札を手にすることができる信者たちにとっても、このシステムはありがたかった。ここまで含めれば、WIN-WIN-WINの関係となる。巧みなシステムが布教の大きな動力になったのである。

明治維新で江戸幕府は崩壊した。西宮神社の著作権も、だから失効した。

制度としては意味がなくなったが、心は残る。本社に分霊勧請を認められた桐生西宮神社は、本物のえびす様を求めたのである。著作権が失効したのなら、勝手にお札と御神影札を作って売っても、どこからも後ろ指を指されることはない。だが、桐生西宮神社が頒布するお札と御神影札は、本社でお祓いを済ませたものである。

2018年の桐生えびす講に献幣使として参列した吉井権宮司

桐生西宮神社のえびす講には、西宮神社からの献幣使が来る。いまその役を果たしているのは本社権宮司の吉井良英である。
吉井さんはいう。

「桐生西宮神社の特徴は、本社の神札を直々にお受け頂き、頒布されているというところで、関東地区におきましては唯一です。本社と一体的な運営に近い分社ということで関東一社いう表現になっている」

だから、わざわざ兵庫県西宮市まで足を運ばなくても、桐生で本社と全く同じお札、御神影札を手にすることができる。

高品質の絹織物が町を栄えさせた桐生である。原料から染色、織り方からデザインまで、先行商品のまがい物を作っていたのでは、西の西陣、東の桐生といわれるブランド力は身につかなかったに違いない。

「例え著作権はなくなっても、本物とそうでないものの違いは残るはずだ」

本物に敬意を払い、本物にこだわり抜く。桐生西宮神社と桐生えびす講には、織都の歴史を通して桐生人のDNAに刻み込まれた習性が埋め込まれているのである。