デザイナーの作り方 片倉洋一さん 第15回 ヤコブ・シュレイファー

スイスにヤコブ・シュレイファーという生地の総合メーカーがある。

「We produce here something which nowhere else in the world could be produced.」
(我々は世界中どこを探しても見つからない製品を作り出す)

と唱える会社で、ルイ・ヴィトンなど超一流ブランドメーカーために生地をデザインし、織り上げて提供している。
その社長兼デザイン・ディレクターのマーチンがチェルシー・カレッジにやって来たのは、チェルシーの1年生の終わりころだった。何でも、チェルシーの2年生とプロジェクトを始めたいという。
キャンバーウェルでテキスタイルに関心を持ち始めていた片倉さんは

「チャンスだ!」

と小躍りした。
テキスタイルに関心を持ち始めたころから、ヤコブ・シュレイファーのデザイン力、生産技術に関心を持っていた。今回のプロジェクトに参加する資格はないが、何とかヤコブと接点を持ちたい。そのヤコブの社長兼デザイン・ディレクターがわざわざチェルシーまで来る。この機を逃したら、いつ次のチャンスが来てくれるか分からない。よし、突撃あるのみだ!

これまで実習でつくってきた生地をそろえ、その日を待った。キャンパスで待ち受ける。マーチンが姿を現した。片倉さんは突進した。

「この生地は、私がデザインして創りました。私は1年生ですから、今度のプロジェクトには参加できません。でも、是非スイスに、ヤコブに行きたいと考えています。よろしくお願いします」

わずか10分ほどの短い会話だった。マーチンは用意した布地は見てくれたものの、何も答えずに歩き去った。私をヤコブに招いてはくれないのか?

片倉さんがケイ・ポリトヴィッツの呼び出しを受けたのは、数日後である。学部長室に出向くと

「洋一、ヤコブのマーチンが、あなたをスイスに招くといっている。あなた、行きますか?」

マーチンは片倉さんの行動力を面白いと思ったのか、それとも片倉さんがデザインした生地に惹かれたのか。期間は2000年9月から12月にかけての3ヵ月。会社の寮が利用でき、給料も出る。チェルシー・カレッジは日本では考えられないほど融通の利く学校で、片倉さんのヤコブ行きをあっさり認めた。卒業に必要な単位にも響かないという。
考えたこともない好条件である。もちろん、行く。

3か月。片倉さんはヤコブのアトリエで、テキスタイルをデザインした。毎年2回パリで開かれる世界最高峰のテキスタイル見本市、プルミエール・ヴィジョンに向けた仕事を手伝ったのである。
それだけではない。

「洋一、この仕事が入ったから君がやってみて」

ブラジルのデザイナーからの依頼だった。フリンジ(房飾り)にする生地をデザインしてくれというのだ。片倉さんはよほどマーチンに見込まれていたらしい。
あれこれ考え、片倉さんは植物の柄を乗せることを思いつく。厚い金属のフィルムを観葉植物状に切り抜き、ヤコブ独自の技術を駆使してフリンジに張り付けた。そして、片倉さんがデザインして織り上げた生地は、ブラジルのデザイナーに納品された。
仕事をして給料を頂く。片倉さんは、自分の腕で収入を得るデザイナーの1歩を踏み出した。

デザイナーの作り方 片倉洋一さん 第14回 勉強の虫

ロンドンで大学の新学期は9月に始まる。4月に渡航した片倉さんはその間、大学の英会話無料プログラムに通った。イギリスの大学に進むには、英語検定試験に通ることが絶対条件だ。
必死だった。日本の大学で英会話の授業を取ったとはいえ、もともと英語は苦手なのである。しかし、デザイナー、クリエーターをめざしてここに来たのだ。ここは何としても検定試験をクリアしなければならない。

必死だった。英語漬けの暮らしを続けた。耳から入るのも、目で追うのもみんな英語。2ヶ月たち、3ヵ月、4ヵ月と過ぎるうちに、あれほど苦手だった英語が耳に、目に自然に入るようになった。考えてみればロンドンでは、子どもだって英語を使う。いまや立派な成人である片倉さんに理解できないはずはない。要は、慣れ、なのだ。

8月片倉さんは無事検定試験に合格した。

9月、キャンバーウェル・カレッジ入学した。やっとデザイナー、クリエーターの入口までやって来た。

・グラフィック・デザイン
・ファッション&テキスタイル
・プロダクト・デザイン(工業デザイン)
・ファインアート(一般的な美術)

以上が、必修の講座である。デザイナー、クリエーターにつながる分野は全部、一通りやりなさい、というのが大学の方針だった。
勉強漬けだった。しかし、苦しいと思ったことはない。これほど勉強したことはないという日々を送りながら、楽しくて仕方がなかった。目標に向かって、着実に歩を進めているという充実感があった。

   ロンドン時代の片倉さん

片倉さんはここで初めて、テキスタイル(生地)に出会う。それまで生地とはファッションを構成する素材でしかないと思っていた。世に存在するテキスタイルから自分の狙いに合ったものを選び出せばいいのだ、と余り関心を持たなかった。
ところが、ファッションのためのテキスタイルがある、新しいファッションを生み出すためにテキスタイルをデザインする人たちがいる、と聞いて

「面白いな」

と思ったのである。それが後に、片倉さんを桐生市に引きつけることになるが、まだ片倉さんの意識には上っていない。

1年後、チェルシー・カレッジに進んだ。ここで自信を失いかけ、ケイ・ポリトヴィッツに出会って進むべき方向がはっきりしたのは、前に書いた通りだ。
それだけではない。当時ロンドン芸術大学は5つのカレッジから構成されている。

・セントラル・セント・マーチンズ
・ロンドン・カレッジ・オブ・ファッション
・チェルシー・カレッジ・オブ・アーツ
・キャンバーウェル・カレッジ・オブ・アーツ
・ロンドン・カレッジ・オブ・コミュニケーション

である。のちにウィンブルドン・カレッジ・オブ・アーツが加わるが、当時はまだ存在しなかった。
各カレッジはそれぞれ充実した図書館を備えていた。蔵書はカレッジごとに違う。片倉さんが選んだのはチェルシー・カレッジだが、このすべての図書館を利用できたのである。
いまや片倉さんは勉強の虫となっていた。足繁く5つの図書館に通った。ますます勉強に拍車がかかり、知識の幅が広がった。

デザイナーの作り方 片倉洋一さん 第13回 ロンドン

大学2年。片倉さんは、まだ卒業後の進路を決めていない。大学で学んでいたシステムデザインには何となくしっくりこない感じを持ち始めていた。この世界が好きなのかどうか。考えてみれば、そんなこともはっきりしないまま学んでいた気がする。
だが、これまで勉強を続けてきたのである。これから違った選択肢を選ぶのはリスクがある。どんな分野を選ぼうと、すでにその分野で研鑽を積んでいる同輩がいる。今から追いつけるか?

その年、片倉さんは友人に誘われて、アメリカ・ニューヨークに遊びに行った。それまでは

「私は自主的に鎖国をしていました」

英語ができなかったからである。
ニューヨーク、シカゴ、ナイアガラの滝、サンフランシスコ、ヨセミテ公園とアメリカの旅を続けた。
旅をしている間に、何かが変わった。片倉さんたちを受け入れた友人の住んでいたアパートは、日本のものと全く違っていた。すべてが大きい。
アメリカは人種の坩堝だった。日本にも外国人の居住者が増えたが、その比ではない。
そして、英語ができる日本人がまぶしく見えた。カッコいいのである。
新しい世界を知る。それは人生の選択肢を増やすことでもある。

「あ、海外で暮らすっていうのもありなんだな。知らずに過ごすのはもったいない、と思い始めたんです」

卒業後の進路に迷いが消えたのは、この旅のおかげである。

「私はデザイナー、クリエーターになる」

高校以来募っていたファッションへの思いが抑えがたいほど大きくなっていた。
ファッションを楽しむだけでなく、自分で創り出したい。そのためには日本にいてはダメだ。ファッションの本場、海外で学ばなくては。

まず、ニューヨークを考えた。一度行ったから多少の土地勘はある。だが、あの町に住むことには何となく違和感があった。あまりに日本での暮らしとかけ離れていると感じたためだろう。

「よし、ロンドンに留学する」

イギリス人は歩きながら考える、といわれる。そのためだろう、原理的な発明が多い国である。

「クリエータに育つためには、デザインを学ぶためには、ロンドンが最適だろう」

それに、イギリスには好きなバンドがいた。アンダーワールド(Underworld)である。彼らの「Born Slippy」という曲が1996年に公開された映画「トレインスポッティング」(Trainspotting)のラストシーンに使われていた。一度聴いただけで惹きつけられた。そして彼らはデザイン会社「TOMATO」を持ってデザインや映画の制作を進めている。やっぱりロンドンだ。

インターネットを駆使して、学校選びを進めた。ロンドン芸術大学のキャンバーウェル・カレッジに1年、そこを出たら同じ大学のチェルシー・カレッジに進む。
そう決めると、通っていた東海大学で英会話の授業に出始めた。

「全くできなかったので、やらないよりいいだろう、程度の勉強でしたが」

準備を終えると、両親に話した。

「デザイナー、クリエータになりたい。ロンドンに留学したい」

長男がやっと大学を出る。親としては

「やっと親の責任が果たせた」

と一安心する時である。が、さらに海外で学びたいという。それも、特殊な能力を持つ人が集まるファッションの世界のクリエーターになるためだという。
県立研究機関の職員だった父・義則さんにとっては考えてもみなかった息子の進路だろう。だから、

「反対されるのではないか」

と覚悟していた。そのときの説得の言葉も用意していた。
だが、義則さんはいった。

「お前の人生だ。お前が決めたのなら、そうすればいい」

父が示した条件は、今の大学を卒業することだけだった。

1999年4月、大学卒業から間もなく、片倉さんはロンドンに向かう飛行機に乗り込んだ。

デザイナーの作り方 片倉洋一さん 第12回 ファッション少年

多くの人を魅了し、心を明るくする、暮らしを豊かにするもの。片倉さんはファッションをそう考える。

ファッションに関心を持ったのは高校生の時だった。一念発起して私立高校に挑んだ片倉さんは、東海大学付属相模高等学校に入る。そこでH君と知り合った。アパレルメーカー経営者の子息だったからだろう、雑誌のグラビアページから飛び出してきたようにおしゃれだった。ファッション雑誌をいくつも読んでいるらしく、知識が豊富である。話していても、わからない単語がポンポン出てくる。

「私は、といえば、両親が着るものにそれほど気を使いませんでしたのでファッションにはあまり関心がない。服装もみんなと同じようなものばかりで」

そんな2人が、何故か気が合った。

「おい、今度の日曜日、渋谷から原宿に回ろうと思うんだ。付き合えよ」

いつしか、月に1、2度はH君と、若者のファッションのメッカといわれる東京・原宿に出るようになった。最初はH君の買い物に付き合うだけだったが、羨ましくなるほど服を買い集めるH君に感化された。小遣いをため、時には自分でも服を買うようになったのである。

「服を自分で買ったのは中学時代以来でした。中学生の時は、ケミカルウォッシュのジーンズに憧れてEdwinのやつを買った。原宿で初めて買ったのは、チャンピオンの古着のスウェットでした。確か、1万円ぐらい。枯れた感じが何ともカッコよくて。両親は服装に関心がない。だから、自分の小遣いを貯めて買ったとはいえ、何だか後ろめたい思いがして、しばらく罪悪感が」ありました」

だが、一度燃え始めたファッションへの憧れは、罪悪感を大きく上回る勢いだったようだ。片倉さんの原宿詣では頻度が上がる。
ショップを訪れても、最初はH君が店員と親しく話すのを訊いているだけだった。ファッション用語も余り知らないのだから仕方がない。だが、聞いていればいつしか言葉を覚える。知識が増える。いつしか自分でも、店員と会話をするノウハウを身につけた。

ショップによって強いジャンルが違うことを知った。この店はTシャツに強い。ヴィンテージもののGパンなら、あの店だ。掘り出し物が揃っているのは、あっちの店……。

父・義則さんは公務員である。家庭は決して豊かではなかった。だから、ショップを回りながら、買わずに帰ることが多かった。しかし、知識は増える。

「LEVI’Sのジーンズは、年代によって呼び名があるんです。例えば、1970年代前半の製品はビッグEと呼ばれます。60年代はLEVI’SのEが、小文字のeでした。それが大文字のEに変わったからです」

10万円ほど奮発してヴィンテージモデルのジーパンを3本買ったのは、高校3年の時だった。

「親戚が多いので、お年玉が結構集まりました。それに、祖父の家には八重桜の木が沢山あり、季節になると桜茶の材料にするため花を摘んで出荷するんですが、これがいいアルバイトになりました」

高校時代は、アメカジ(American Casual)が好きで、専ら古着を探し歩いた。大学に入ると、関心は古着からデザイナーズファッションに移る。いつの間にか、ファッション仲間は4人に増え、原宿、高円寺を闊歩した。

「町を歩いていると、結構声をかけられるんです。『ファッション雑誌に載せたいんだけど、写真を撮ってもいいかな』って。一番多かったのはO君ですね。私? 私が声をかけられたのは1回だけです」

出入りするショップも変わった。いわゆるセレクトショップである。もう会話に不自由することもなかった。相変わらず、買い物をすることはあまりなかったが、それぞれの服を作った人のこだわり、工夫など、店員の話はファッション奥深さを教えてくれた。

まだデザイナーになろうなどとは、爪の先ほどにも考えていない。しかし、後で振り返れば、片倉さんはデザイナーへの1本道を歩いていた。

デザイナーの作り方 片倉洋一さん 第11回 洗う研究室

片倉さんが同僚の飯野尚子さんを誘って、「洗う研究室」を立ち上げたのは2016年か17年のことだ。

時折、「000」の修理依頼がある。金具が壊れたり、無理に引張って糸が切れたりした「000」が戻って来る。買って頂いた「000」はできるだけ長く楽しんでいただきたい。そう願う「000」チームは、出来るかぎり修理に応じる。飯野さんはその担当である。

「だけど、これ、洗った形跡がないよね」

修理にやって来た「000」を見ていて、片倉さんがふと気が付いた。「000」はすべて糸でできたアクセサリーだ。肌の上に着けるものが多いから、どうしても汗が染み込んで汚れる。だから、「000」の箱には取扱説明書を入れ、汚れが目立つ前に洗って下さいと呼びかけている。
だが、修理依頼品が洗われていないということは、取扱説明書があまり読まれていないということだ。

そうか、説明書を同梱しているのだから、メーカーの責任はそれで終わり。あとはユーザー責任。私たちにそんな思い上がりがあったのではないか?
考えて見れば、「伝えた」だけでは十分ではない。伝えたい内容を相手が理解して初めて「伝わった」ことになる。

ユーザーは何故洗ってくれないのか。
もっと洗ってもらえるようにするにはどうしたらいいのか。
より簡単に洗う方法はないか?
洗剤の選び方も考えなくては。

そんな思いが次々に沸き上がり、飯野さんを半ば強引に誘って「洗う研究室」を作ったのだ。もっとも、会社の正式な組織ではなく、会社内での自主的な「運動」に過ぎなかったが。

洗うのはきわめて日常的な行動である。何かを洗ったことがないという人はまずいないだろう。だが、「000」のメーカーとして「000」を洗うことをユーザーに理解してもらおうと考え始めると、疑問が次々を沸き起こった。そもそも「汚れ」って何なんだ? 汚れは何故洗剤で落ちるのか? その時、何が起きているのか?

「そうなると、社内には専門知識がありません。専門知識をお持ちの方の助力を得なければなりません」

たった2人の「洗う研究室」は、大阪の石けんメーカーと、桐生市にある群馬県繊維工業試験場に相談を持ちかけた。

社内では「000」を洗う実験を始めた。市販の中性洗剤、合成洗剤、漂白剤、石けん、繊維工業試験場が用意してくれた薬剤。どれが汚れを一番落としてくれるか。洗濯が簡単なのはどれか。湯の温度や洗剤に漬けておく時間を様々に設定した。

困ったのは、汚れた「000」がないことである。出荷を待つ新品の「000」は沢山あるが、落とすべき汚れがまだついていない。社内でボランティアを募った。

「毎日『000』を肌身に着けて汚して下さい」

社員が汚してくれた「000」半分に切った。この半分だけを洗って汚れの落ち方を見るのである。
実験の結果分かったのは、汚れがひどくなると、何を使っても汚れがほとんど落ちないことである。日常的な洗濯が「000」には必要なのだ。
そんな結果を受けて、「000」専用の洗剤を開発しようかとも考えた。それが難しいと分かると、

「じゃあ、汚れにくい『000』にしたらいいのではないか」

と考えた。繊維工業試験場と共同開発したのがトリプルプロテクト加工である。汚れにくく、汚れがついても落ちやすい糸を作り出したのである。2021年秋のことだった。

いまの「000」にはこの加工をした糸を使っている。ただ、それでも汚れから解放されるわけではない。繰り返し身につければ少しずつ汚れは着くし、何度か洗っていれば汚れを防いでいた薬剤が落ちてしまう。

「だから、いまはトリプルプロテクト加工の耐久性を上げる研究を続けている段階です」

汚れから完全に解き放たれた糸は、まだ存在しない。いつかはそんな技術が生まれるのかも知れないが、すべて糸で作るから

・軽くて肩が凝らない
・金属アレルギーがあっても楽しめる

のが「000」なのだ。糸の宿命からはなかなか逃れられない。
だからいまも、洗い方を書いたリーフレットを添えている。紹介しているのは手洗いである。

「気軽に洗濯機に放り込んで洗えるよう、専用の洗濯ネットができないか、とも考えています」

片倉さんは、もっと「000」を楽しんでもいたいと願い続け、開発を続けている。