デザイナーの作り方 片倉洋一さん 第12回 ファッション少年

多くの人を魅了し、心を明るくする、暮らしを豊かにするもの。片倉さんはファッションをそう考える。

ファッションに関心を持ったのは高校生の時だった。一念発起して私立高校に挑んだ片倉さんは、東海大学付属相模高等学校に入る。そこでH君と知り合った。アパレルメーカー経営者の子息だったからだろう、雑誌のグラビアページから飛び出してきたようにおしゃれだった。ファッション雑誌をいくつも読んでいるらしく、知識が豊富である。話していても、わからない単語がポンポン出てくる。

「私は、といえば、両親が着るものにそれほど気を使いませんでしたのでファッションにはあまり関心がない。服装もみんなと同じようなものばかりで」

そんな2人が、何故か気が合った。

「おい、今度の日曜日、渋谷から原宿に回ろうと思うんだ。付き合えよ」

いつしか、月に1、2度はH君と、若者のファッションのメッカといわれる東京・原宿に出るようになった。最初はH君の買い物に付き合うだけだったが、羨ましくなるほど服を買い集めるH君に感化された。小遣いをため、時には自分でも服を買うようになったのである。

「服を自分で買ったのは中学時代以来でした。中学生の時は、ケミカルウォッシュのジーンズに憧れてEdwinのやつを買った。原宿で初めて買ったのは、チャンピオンの古着のスウェットでした。確か、1万円ぐらい。枯れた感じが何ともカッコよくて。両親は服装に関心がない。だから、自分の小遣いを貯めて買ったとはいえ、何だか後ろめたい思いがして、しばらく罪悪感が」ありました」

だが、一度燃え始めたファッションへの憧れは、罪悪感を大きく上回る勢いだったようだ。片倉さんの原宿詣では頻度が上がる。
ショップを訪れても、最初はH君が店員と親しく話すのを訊いているだけだった。ファッション用語も余り知らないのだから仕方がない。だが、聞いていればいつしか言葉を覚える。知識が増える。いつしか自分でも、店員と会話をするノウハウを身につけた。

ショップによって強いジャンルが違うことを知った。この店はTシャツに強い。ヴィンテージもののGパンなら、あの店だ。掘り出し物が揃っているのは、あっちの店……。

父・義則さんは公務員である。家庭は決して豊かではなかった。だから、ショップを回りながら、買わずに帰ることが多かった。しかし、知識は増える。

「LEVI’Sのジーンズは、年代によって呼び名があるんです。例えば、1970年代前半の製品はビッグEと呼ばれます。60年代はLEVI’SのEが、小文字のeでした。それが大文字のEに変わったからです」

10万円ほど奮発してヴィンテージモデルのジーパンを3本買ったのは、高校3年の時だった。

「親戚が多いので、お年玉が結構集まりました。それに、祖父の家には八重桜の木が沢山あり、季節になると桜茶の材料にするため花を摘んで出荷するんですが、これがいいアルバイトになりました」

高校時代は、アメカジ(American Casual)が好きで、専ら古着を探し歩いた。大学に入ると、関心は古着からデザイナーズファッションに移る。いつの間にか、ファッション仲間は4人に増え、原宿、高円寺を闊歩した。

「町を歩いていると、結構声をかけられるんです。『ファッション雑誌に載せたいんだけど、写真を撮ってもいいかな』って。一番多かったのはO君ですね。私? 私が声をかけられたのは1回だけです」

出入りするショップも変わった。いわゆるセレクトショップである。もう会話に不自由することもなかった。相変わらず、買い物をすることはあまりなかったが、それぞれの服を作った人のこだわり、工夫など、店員の話はファッション奥深さを教えてくれた。

まだデザイナーになろうなどとは、爪の先ほどにも考えていない。しかし、後で振り返れば、片倉さんはデザイナーへの1本道を歩いていた。

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