その12 デザイン力

だが、相手は誇り高いA近代美術館である。この2年で良好な関係を築き、目覚ましい売れ行きという実績が伴って信用も得られたとは思う。だが、だからといって、日本の、地方都市の、一介のちっぽけなマフラーメーカーの提案に彼らが耳を貸してくれるだろうか? デザインに口を挟ませてくれるだろうか? 思い上がりもいい加減にしろと門前払いされ、取引に響くのではないか?

ダメかもしれない。いや、鼻の先でせせら笑われるかも知れない。でも、松井ニット技研が自立して自分のブランドを持つマフラーメーカーになるためには、この一歩は絶対に必要な一歩である。ここで躊躇してどうする? ダメだったら次の手を考えればいいじゃないか。
何度も考え抜いた末の働きかけだった。

ジリジリしながら反応を待った。1日1日が長かった。

「まだ返事は来ないのか?」

相手は世界有数の美術館である。即断即決というわけにはいかないだろう。そうは考えてみるものの、返事を待ち焦がれる思いは日々募るばかりだ。一日千秋とはそんな思いをいうのだろう。
2人の心の中にある時計は故障しっぱなしだった。ちっとも時間が過ぎてくれないのである。ずいぶん前に仕事を始めたはずなのに、まだ午前11時にしかならないじゃないか。どうなってる!

ジリジリするような2人の思いとは別に、時間は同じペースで流れていた。待ちかねた返事がエージェント経由で2人に届くまでに、わずか1週間ほどしかたっていなかった。組織としての意思決定には時間がかかることが常であることからみれば、異例とも思える速さである。

「ご提案を承りました。素晴らしいことです。是非そうしましょう。協力して素晴らしいマフラーを創ろうではありませんか」

予想以上、いや期待以上の返答だった。松井ニットのデザイン力が、A近代美術館から対等なパートナーとして認められたのである。

「ホントに? って思わず、頬をつねりたくなりました」

と智司社長はいう。

2001年秋からA近代美術館の販売部門で売られた松井ニットのマフラーには相変わらず「A近代美術館」のタグしか下がっておらず、マフラーにもタグにも「松井ニット技研」の文字はなかった。だが、デザイン、色使いにはいまに繋がる松井ニットの色彩が濃く出ていた。
そして、売れ行きは相変わらず好調だった。松井ニットのデザインが消費者に受け入れられたのである。

「これで独り立ち出来る」

そんな確信が2人を包んだ。

写真:松井ニット技研の工場には、こんな時計が2つあります。

その13 名誉

お互いを認め合うA近代美術館との関係は年々深まった。松井ニット製のマフラーを求める消費者の列は相変わらずで、A美術館では好調な売り上げが続いた。

松井ニットは間もなく、自社ブランドとして「KNITTING INN」を立ち上げた。A近代美術館との関係は大事にしながらもOEM(相手先ブランドによる生産)の比率を年々減らして完全自立への道をひたすら歩んだ。

2011年の秋だったと記憶する。2人は来日したA近代美術館購買担当の女性に招かれた。すでに2012年モデルのマフラーデザインは仕上がっている。

「突然何の話だろう?」

といぶかりながら、智司社長と敏夫専務は待ち合わせ場所に指定された東京・渋谷のホテルに向かった。彼女と日本人のエージェントが2人を出迎えた。

「お呼び立てして申し訳ありません。今日は新しいお願いがあって来ていただきました」

そう切り出した彼女は、1冊の本を取り出して2人に見せた。

「この中の色を使ってマフラーをデザインしてもらえませんか」

※これは美術館に依頼されたマフラーではありません。
開いてみると、色見本の本だった。話の筋道が分からずに戸惑う智司社長に、彼女は言葉を継いだ。

「これは世界的に著名な建築家が、自分が設計した建物の外観や内装に使う色を集めたものです。A近代美術館はこの建築家が残した財団と大変親しい関係にあり、彼が選び抜いたこれらの色を使うことを財団に認めていただきました。私たちは、マフラーならこれらの色が生かせると考えました。そこで松井さん、この本にある色でマフラーをデザインしてください」

彼女が口にした建築家は、2人も知っている著名人で、いまでも世界中に数多くのファンがいる巨匠である。彼が残した建築は日本にも数多い。その建築家が独自に選んだ色でマフラーをデザインして製造するという大事な仕事を、A近代美術館は世界中でただ1社、桐生市の松井ニット技研に発注しようと決め、公式に依頼してきたのである。しかも、デザインに力を貸して欲しいというのではない。デザインを始めすべて任せるから、というのである。
A近代美術館の松井ニットのデザイン力に対する信頼はそこまで高まっていた。マフラーメーカーとして、これ以上の名誉はない。

「承知しました。お気に召すものが私たちに出来るかどうか分かりませんが、これから桐生に戻りまして早速デザインに取りかかりましょう」

1ヶ月ほどかけて2人は2種類のマフラーをデザインした。極めて品のよいマフラーに仕上がった。A 近代美術館も喜んでくれ、カタログに掲載して販売を始めたのはいうまでもない。

その14 そして、自立

松井ニット技研がA近代美術館から得たものはたくさんある。

まずは、安定した取引先として経営を支えてくれた。

美術館がマフラーの販売ルートになることを教えてくれた。A近代美術館に声をかけられていなかったら気がつきもせず、イギリスのコートールド美術館、スペインのプラド美術館などとの新しい取引が始まることはなかったろう。

A近代美術館と力を合わせて進めたマフラーのデザインで、色の使い方、組み合わせの勘所をつかむことができた。

A近代美術館のパンフレットに掲載され、一緒にデザインしたことが知る人ぞ知る噂となり、取引先の評価が格段に上がった。

自分たちのデザイン力が世界に通用することを確信させてくれたのも、対等のパートナーとしてマフラーデザインに参加させてくれたA近代美術館である。

そして、最後に与えてくれたのが、世界的に著名な建築家が選び抜いた色を使ってのマフラーデザインをすべ託されたという誇り、名誉だった。

A近代美術館との取引は2014年で突然終わった。彼女が購買担当から外れ、新しい担当者が松井ニットを取引先から外したからである。新しい担当者がなぜ松井ニットを切り捨てたのかは聞かないままだ。安定した取引先が一つなくなり、一時的に売り上げの減少にも見舞われた。
だがそれ以上に、懇意にしてきた、松井ニット技研をここまで育ててくれたパートナーから見捨てられたような寂しさの方が2人を落ち込ませた。

あれから5年(2019年現在)。幸い、A近代美術館に納めるマフラーとは別に立ち上げた自社ブランドのマフラーが年々売り上げを伸ばし、2年もすると売り上げは元に戻っていまでは当時を凌ぐ忙しさに追われている。プラド美術館を始めとする世界の美術館との取引も順調だ。
A近代美術館の力に支えられる松井ニット技研ではなく、自分の足で大地を踏みしめて立つ松井ニット技研に成長することが出来たのである。

だから、2人は心からの感謝をA近代美術館に捧げる。

「いまの松井ニットがあるのは、A近代美術館とのお付き合いがあったればこそ、です。足を向けては寝られません」

松井ニット技研を見いだしたA近代美術館の彼女が2016年12月1日、TBSの「朝ちゃん」で電話取材に応じていた。ボニー・マッケイという人である。
電話口で彼女はこう語っていた。

「初めて見たとき、素晴らしいと思いました。いままであんな綺麗なマフラーは見たことがなかったから。触ったときの感触も最高でした」

彼女が、いまの松井ニット技研の恩人である。

写真:NHK「イッピン」の取材を受けた際のものです。

その1  会社を閉じよう

「兄貴、もう会社を閉じようか」

敏夫専務が弱気の虫にとりつかれたのは、2004年の末だったという記憶がある。突然の話に驚いた智司社長がのぞき込むと、疲れ果てたような弟の顔があった。
会社を閉じる? 代々受け継いで守ってきたこの会社を俺たちがなくしてしまう? どうして?

敏夫専務は京都外国語大学スペイン語学科を出て横浜の商社に勤めた。サラリーマン生活を辞めて桐生に戻り、松井ニット技研の経営に加わったのは1975年のことだった。当時32歳である。
それ以来、2人で力を合わせて会社を盛りたててきた。

・経営は2人で話し合って進める。

・マフラー作りは智司社長が責任を持つ。

・商社で営業の世界を経験してきた敏夫専務は蓄えたノウハウを活かして売る。

2人の経験、能力を活かした二人三脚の経営である。A近代美術館との取引が始まり、まとまった量を毎年ニューヨークに送っている。まだ健康体といえるほど業績は回復していないが、それでも曲がりなりにもやってきたではないか。それなのに、いま会社を閉じるだって?

「だってさあ、とにかく、足を棒にして回るんだけど、ちっとも注文が取れないんだよ」

A近代美術館に見いだされ、A近代美術館で販売するマフラーのデザインにまで関与するようになって自信を深めていたとはいえ、当時の松井ニットはOEM(相手先ブランドでの生産)メーカーである。A近代美術館や問屋、アパレルメーカーからの注文がなければ仕事はなく、経営は成り立たない。

A近代美術館との取引は順調に拡大していた。しかし、松井ニットにマフラーの注文を出す問屋やアパレルメーカーはそうではない。A近代美術館に認められた松井ニットに一目置くようにはなってはいたものの、彼らにとっては便利な「工場」以上のものではない。自分の商売を取り巻く状況が変われば、松井ニット技研の事情なんて構ってはいられない。自分の商売を守るために松井ニットを切り捨てざるを得ないのは資本主義経済の原理である。

そして、繊維業界を取り巻く状況は急速に変わっていた。20世紀の終わり頃から、日本の繊維産業は激しいコスト競争にさらされるようになっていたのである。
みなが浮かれていたバブル景気がもろくも崩れ、いつ終えるとも知れない不況が日本列島を覆い続けていた。消費者は財布の紐を固く締めるから、物が売れない。財布の口をこじ開けて物を売るにはどうすればいいか? そんな試行錯誤から、誰かが低価格競争に火を着けた。一度火が着くと、多くの消費者は価格に敏感すぎるほど敏感になった。ファストファッションという言葉が定着したのはこの時代である。

その2  「遅かった」だけ

ファストファッションとは、最新の流行は取り入れながら、価格はギリギリまで抑えた衣料品である。

「同じような機能なら、安いもので充分。できればファッショナブルであってほしいが」

とは、バブル崩壊後の低迷する経済社会を生きていかねばならない消費者の知恵でもあった。

消費者が低価格を求める。アパレルメーカーはまず、国内の生産工場に納入価格の引き下げを求めた。それまでもギリギリのコストで生産していた工場は、さらなるコスト削減に追い込まれる。従業員の首を切り、家族全員で長時間労働に耐え、みなギリギリまではがんばった。それでも価格競争は止まらない。アパレルメーカーは賃金の高い日本でのモノ作りの時代は終わったといわんばかりに、先を争うように中国を中心にしたアジアに生産工場を移していった。

生産拠点をアジアに移す目的は価格の引き下げである。通貨同士の交換比率を決める為替相場はその国の経済力を反映する。経済先進国である日本の円に対し、アジア各国の通貨はずいぶん安い。円に換算すれば、現地の労働者の賃金は数分の1から数十分の1でしかない。だから輸入にかかる費用を差し引いても海外で生産する方が安くつく。そんな海外工場との生産コスト競争について行けなくなった国内工場は看板を下ろさざるを得ないところにまで追い込まれた。

「だけど、どんな時代でも、数は少ないかもしれないが、いいものがほしいというお客さんは必ずいらっしゃる。うちは、ほかではできないものを作っていたので、その影響を急には受けなかったんですが……」

と智司社長はいう。

それでも「遅かった」だけなのだ。2002年ごろから、松井ニットへの注文も目に見えて減り始めていた。去年は2割、今年は3割……。足を棒にして歩き回っても注文が取れない営業の敏夫専務は、松井ニットが置かれた環境の厳しさを肌身で感じざるを得なかった。我慢に我慢を重ねた末の泣き言だったのである。

当時、松井ニット技研には10人ほどの従業員がいた。仕事量が減り、やむなく減給をお願いした。しばらくはそれで我慢をしたが、それでも採算が合わない。とうとう3人に辞めてもらった。

「はい、辞めていただくのは優秀な人からお願いしたんです。仕事ができる人は、ほかで働き口が見つかるだろうと思って。せめてものお詫びというか……」

A近代美術館で大成功を収めながら、他方で松井ニット技研は存亡の危機に立っていた。