その1  会社を閉じよう

「兄貴、もう会社を閉じようか」

敏夫専務が弱気の虫にとりつかれたのは、2004年の末だったという記憶がある。突然の話に驚いた智司社長がのぞき込むと、疲れ果てたような弟の顔があった。
会社を閉じる? 代々受け継いで守ってきたこの会社を俺たちがなくしてしまう? どうして?

敏夫専務は京都外国語大学スペイン語学科を出て横浜の商社に勤めた。サラリーマン生活を辞めて桐生に戻り、松井ニット技研の経営に加わったのは1975年のことだった。当時32歳である。
それ以来、2人で力を合わせて会社を盛りたててきた。

・経営は2人で話し合って進める。

・マフラー作りは智司社長が責任を持つ。

・商社で営業の世界を経験してきた敏夫専務は蓄えたノウハウを活かして売る。

2人の経験、能力を活かした二人三脚の経営である。A近代美術館との取引が始まり、まとまった量を毎年ニューヨークに送っている。まだ健康体といえるほど業績は回復していないが、それでも曲がりなりにもやってきたではないか。それなのに、いま会社を閉じるだって?

「だってさあ、とにかく、足を棒にして回るんだけど、ちっとも注文が取れないんだよ」

A近代美術館に見いだされ、A近代美術館で販売するマフラーのデザインにまで関与するようになって自信を深めていたとはいえ、当時の松井ニットはOEM(相手先ブランドでの生産)メーカーである。A近代美術館や問屋、アパレルメーカーからの注文がなければ仕事はなく、経営は成り立たない。

A近代美術館との取引は順調に拡大していた。しかし、松井ニットにマフラーの注文を出す問屋やアパレルメーカーはそうではない。A近代美術館に認められた松井ニットに一目置くようにはなってはいたものの、彼らにとっては便利な「工場」以上のものではない。自分の商売を取り巻く状況が変われば、松井ニット技研の事情なんて構ってはいられない。自分の商売を守るために松井ニットを切り捨てざるを得ないのは資本主義経済の原理である。

そして、繊維業界を取り巻く状況は急速に変わっていた。20世紀の終わり頃から、日本の繊維産業は激しいコスト競争にさらされるようになっていたのである。
みなが浮かれていたバブル景気がもろくも崩れ、いつ終えるとも知れない不況が日本列島を覆い続けていた。消費者は財布の紐を固く締めるから、物が売れない。財布の口をこじ開けて物を売るにはどうすればいいか? そんな試行錯誤から、誰かが低価格競争に火を着けた。一度火が着くと、多くの消費者は価格に敏感すぎるほど敏感になった。ファストファッションという言葉が定着したのはこの時代である。

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