その7 やっと来たか!

筆者が札幌に勤務した時、すっかり惚れ込んだ炉端焼き屋があった。薄野にあった「憩」という店である。転勤先が札幌と知って

「美味いものが食えるぞ!」

と勇んで札幌に来たものの、私の舌を楽しませる食べ物になかなか出会えず、がっかりしていた。ところがこの店で店主が出してくれる料理が、あれもこれも大変美味い。

「札幌にも美味いものを出す店があった!」

と筆者は喜んだ。

ある日、カウンター越しに店主との四方山話が料理の話になった。

「実はね」

と言ったのは店主である。

「札幌で一番大きなホテルのシェフがうちの客なんだけど、何年前かなあ、『オヤジ、この料理の作り方を教えてくれ』というんですよ。ほら、いま食べてもらってるアン肝の昆布巻きですけどね。いいよ、っていって教えたんです。しばらくしたらまたやって来てね、そのアン肝の昆布巻きを作って何とかいう料理コンテストに出したんだそうですよ。そうしたら優勝したんですって」

ここまでは店主の自慢話である。
私は一歩突っ込んでみた。

「そんな大事なレシピを、ホテルのシェフなんかに教えたら客を取られたりしない? アン肝の昆布巻きを食べたくてここに来ている客が、そのシェフのレストランに行くようになるかも知れないじゃないの」

店主は胸を張って答えた。

「職人ってのはね、聞かれればレシピなんか全部教えるんですよ。さあ、これで作り方は全部教えた。でも、実際に作ってみると、俺が作ったヤツの方があんたのより美味いだろ、というのが職人の誇りなんです」

残念ながら店主が亡くなり、「憩」は店を閉じた。が、店主が語った「職人の誇り」は、私の頭にしっかり染みついている。

智司社長を炉端焼き屋の店主と比べるのは筋違いかも知れない。だが、筆者はふたりに、同じ職人魂を見てしまう。

積み重ねた努力から生まれる、この世界では誰にも負けない、真似できるものならやってみろ、という自信と自負。
だからだろうか。智司社長は突然のA美術館の来訪に舞い上がることはなかったという。

「だって、他とは比べようがないマフラーを作ってるんです。いつかは必ず見いだしてくれる人がいる、と信じていましたから。それがたまたまA美術館だったわけで、私は『やっと来るべきものが来た。少し遅かったかな?』と思っただけでした」

智司社長は自信家であり、楽観主義者である。

その8 共同開発

話を本筋に戻そう。

松井ニット技研がA美術館ブランドのマフラーを作る。松井ニット技研にとっては棚からぼた餅のようないい話である。あとは細部を詰めるだけだ。最初に納品するマフラーの色、柄、素材、編み方などを決めなければならない。
A近代美術館の購買担当の女性たちとの会話は具体性を増した。素材はウールにする。柄は格子がいい。房は絶対に必要。色の選択、配色は松井ニットが用意した色見本からA美術館が選んでデザインする。そして松井ニットが編む。
A美術館と松井ニット技研の共同開発である。あれよあれよという間にA美術館ブランドのマフラーの企画が出来上がっていった。それに満足したのが、一行は満面を笑みにして桐生を去った。

バイヤーの女性が持ち帰ったマフラーの企画は会議で承認されたらしい。翌2000年の春、A近代美術館からマフラーの注文シートが日本のエージェントを通して初めて届いた。発注量などもA近代美術館との契約があるため具体的にはかけないが、初めての取引としては良くも悪くもない数でしかなかった。というより、A美術館という新しい販売ルート、アメリカという巨大な未知の市場への2人の期待が大きすぎたためか、拍子抜けするような数でしかなかった。

「たったこれだけ?」

それでも、新しい市場に最初の一歩を記したのである。それだけでも良しとしなければならない。

やがて桐生を抱きかかえるように連なる山々の木の葉が赤く、黄色く色づき始めた。秋が深まり、マフラーシーズンの到来である。それを待っていたかのように、A近代美術館から追加注文が飛び込んだ。今回も初回と同じ数である。

「まあ、一つの柄でこれだけなら、まずまずの成果か」

当時の松井ニットでは、一つの柄のマフラーの出荷数は2000本前後だった。2回分合わせてもそれには遠く及ばないが、新しい取引先からの注文としてはやっと胸をなで下ろせる数にはなった。

しかし、それは始まりにすぎなかった。間もなく3度目の注文がきたのである。そして、喜んでいる間もなく、4度目、5度目‥‥。

「このシーズンだけでずいぶん出荷しました」

と敏夫専務は目が回るようだったあの年の忙しさを思い出した。

ニューヨークのA近代美術館では、松井ニットのマフラーは羽が生えたように売れ続けていた。アメリカという巨大な市場に、松井ニット技研は確実にくさびを打ち込んだのである。

その9 リブ編み

1年目の大成功の余熱がまだ冷めない2000年11月、またA近代美術館購買担当の女性が桐生にやってきた。ニューヨークで人気が沸騰したともいえる松井ニット製のマフラーだが、同じ柄のマフラーを2年続けて並べていては飽きられる恐れがある。次のデザイン、2001年モデルの商品企画を相談するのが目的だった。

智司社長、敏夫専務の2人はこの1年、大成功に酔って漫然と過ごしていたわけではない。A近代美術館にいわれるまでもなく新しいモデルが必要だと考え、新しいマフラーの開発に余念がなかった。この時生まれたのが、それまで試作を繰り返していた「毛混リブ」のマフラーである。アクリル70%、ウール30%の糸でリブ編みしたもので、いまの松井ニット技研の中核商品となっているのはご存じの通りである。

リブ、とは肋骨のことだ。表面に凹凸で縦縞が出来る編み方で、出た部分を肋骨に見立ててこう呼ぶ。この、普通はセーターの袖口などに使われる編み方をマフラーに取り入れ、1年近い時間をかけてマフラーにピッタリの編み方にまで仕上げたのは智司社長だった。
これも仕事を面白がる「凝り性」の性格だから生み出せた工夫である。従来の混紡マフラーに比べ、肌触りの柔らかさが一段と増した。横に自在な伸縮性も特徴だ。

そして、混紡にしたことで得られた何よりの特徴は色数の多さである。天然素材のウールは使える染料が限られるため色数が限られる。それに、発色も鈍く、華やかな色は出にくい。それに比べれば化学繊維のアクリルとウールを混紡した繊維は染料とのなじみがよく、目が醒めるような色にも染め上がる。ウールだけとはひと味も二味も違ったデザインが出来るのは、松井ニットのマフラーを愛用していただいている方々にはお馴染みなのではないだろうか。

「縦縞でリブ編みのマフラーなんて見たことがありません。これ、とっても面白い」

1年前のウールマフラーに続いて、彼女はこの毛混リブにもすっかり魅せられたようだった。狙いは的中した。2人は彼女にそう言わせたくて開発してきたのである。

編み方は決まった。あとはデザインである。彼女は

「色の選択、デザインはA近代美術館でやる」

との原則を、この年も守り通した。彼女が選んだ色は、黒、赤、ブルー、グリーンの4色だった。A近代美術館のテーマカラーだという。この4色を使い、リブ編みの縦縞を活かしてストライプのマフラーをデザインする。企画会議をリードするのは、まだA近代美術館だった。だが、智司社長、敏夫専務も数々の提案をした。デザイン会議は夕方まで続いた。

写真:リブ編みの拡大写真です。

その10 常識破り

一行が引き上げ、間もなく年が明けた。話し合いでまとまった色の選択をもとにした糸を発注した。驚くほどの売れ行きだった前シーズンは「売れすぎ」て、最後は糸が足りるかどうか冷や冷やの連続だった。だからこの年は、糸の発注を大幅に増やしたのはいうまでもない。そして春になると、工場の編み機をフル稼働させて生産に入った。マフラーシーズンに入るまでには、前年に売れた本数の80%ほどのマフラーが仕上がっていた。

その年も、最初の注文は前年と同じ枚数だった。どうやら、同じ枚数で発注するのがA美術館の流儀らしい。違ったのは次の追加注文が来るまでの間隔である。手元にある注文分の発送をやっと済ませて一息つこうとしていると次の注文が届いた。休む間もなく作業を続けて発送し終わると、間髪を入れず次の注文がやって来る。

前年は、追加注文が来てから生産に入った。この年はすでにかなりの量をシーズン前に作って準備は整えている。注文票を手にしてからの作業は発送だけで、前年よりはるかに楽になるはずだったのに、休憩さえろくに取れないほど仕事に追われた。

「最初はその程度でしたが、とうとう、発送の準備をしている間に次の追加注文が来るようになりまして」

と敏夫専務。大量に作っていたはずの在庫が見る見る減ってすぐに底をついた。それでも後から後から注文書が来る。いつもなら暇になる晩秋になっても工場は生産に追われた。生産に継ぐ生産、発送に次ぐ発送。目が回るような忙しさは1年前をはるかに上回った。ついには大量に仕入れていたはずの糸も足りなくなり、あわてて追加注文する羽目に追い込まれた。

ニューヨークからの注文の中継ぎをする日本のエージェントは当初、A美術館からEメールで届く追加注文を注文書に書き写し、Faxで松井ニットに送ってきた。が、頻繁に繰り返される注文にそれでは追いつかなくなったのだろう。ついには書き写す手間を省き、Eメールで注文書を送ってくるようになった。

「あの年は凄かったですね。1回の注文枚数は相変わらず同じ数でしたが、その注文が何回来たのか覚えていません。とにかく、信じられない量になりました」

一つのモデルでつくるのはせいぜい2000本、が松井ニットのそれまでの常識だった。A近代美術館向けのマフラーは、たった一つのモデルで想像を絶する数を送り出した。松井ニット技研の常識が吹っ飛んでしまったのである。

写真:松井邸の庭の松。枝振りがみごとです。

その11 挑戦

A美術館での大成功は心地よかった。だが、智司社長はそれで良しとする人ではなかった。

「このままでいいのか?」

という吹っ切れない思いがどうしても抜けなかったのだ。

「A美術館の販売部門で私たちのマフラーがいくら評判がよくても、羽が生えたかのように売れても、色、デザインまで向こうに指定され、A美術館のブランドで売られるのでは、やっぱり下請けメーカー、生産工場のままということですからね。このままでいいのか、ってどうしても考えてしまいまして」

何とか下請けから抜け出したい。OEM (相手先ブランドでの生産)メーカーを卒業したい。そして自分のブランドで勝負するメーカーになりたい。
それは中小零細と呼ばれる企業なら一度は見る夢である。松井ニットの2人も、同じ思いをずっと抱えてきた。だが、願うだけではいつまでも夢のままだ。夢を現実にするには、何よりも力をつけねばならない。実績を築き上げなければならない。そして、チャンスをつかみ、行動に移さなければならない。いまがその時ではないのか?

2001年、2人は一歩を踏み出した。思い切って日本のエージェントを通じ、A美術館に働きかけたのである。

「A美術館で売っていただくマフラーの色、デザインを当社からも提案したいと考えています。できれば力を合わせてさらに素晴らしいマフラーを生み出していきたいのですが、いかがでしょうか?」

A近代美術館の威光は驚くほど大きかった。何しろ、その商品パンフレットに松井ニット技研が作ったのマフラーが載っただけで、松井ニットの名は記されていないにもかかわらず、

「これ、ひょっとして松井さんのところのマフラー?」

と声をかける人が現れた。そして松井ニットを見る目が徐々に変わり始めたのである。
松井ニットがデザインにまで関わることができれば、そのパンフレットを見ながら

「今年のマフラーはずいぶん変わって、松井さんの持ち味が強まったようだけど、デザインまで任されたの?」

と問いかけてくる取引先も出てくるのではないか。A美術館との契約に縛られて答えられない質問だが、黙っていても噂は噂を呼ぶだろう。

それだけではない。A近代美術館が認めるデザインが多くの消費者に喜ばれることは、これまでの実績で明らかだ。だから、松井ニット技研でデザインしたマフラーをA近代美術館が認めて販売してくれるようになれば、自社ブランドを持つのも夢ではなくなる‥‥。

松井ニットの将来を考えれば、挑んでみる価値は充分にある挑戦だと2人は考えたのである。

写真:こんな色見本から使う色を選びます。色は180色。