その2  訪れたバイヤー

話を元に戻す。
いま思い返せば、何とも要領を得ない会話だった。だが、松井ニット技研が多くの人の賞賛を受けるマフラーメーカーになる歴史は、この突然の電話から始まったといってよい。

しかし、敏夫専務はその美術館を知らなかった。それも電話の受け答えに窮した原因の一つだった。だが、智司社長は知っていた。

「はい、私は存じ上げていました。桐生が誇るテキスタイル・デザイナーの第一人者、新井淳一さん(故人)の作品もあの美術館に展示されていましたので」

世界有数の美術館が、群馬県の片隅、桐生市にある一介のマフラーメーカーにすぎない我が社に何の用があるのだろう? そんな2人が話しあっても、やっぱり相手の意図が分からない。まあ、来訪を待つしかないな。それが2人の結論だった。

松井ニット技研は桐生市の目抜き通り、本町通から細い路地を50mほど入ったところにある。ごく普通の住宅で、玄関前にある庭にそびえる松の木の、長年の入念な手入れを思わせる枝振りがみごとだ。この一帯には、明治から大正、昭和の時代にかけて織都桐生の繁栄を支えた商家、機屋が立ち並んでいた。いまはかなり時代がついた古民家が密集する。松井ニット技研もその1軒である。

その門の前に立っても、住宅の裏にある工場は見えない。注意を凝らせば「松井ニット技研」という小さな看板が門柱に掲げられているのに気がつくが、これがあのカラフルな、独創性溢れるマフラーやストールを作っている会社だと気がつく人は少ないだろう。

玄関の引き戸を開けると高い上がり框(かまち)があり、履き物を脱いで上がると事務スペースだ。事務机が2卓、向かい合って並べられており、2台のパソコン、プリンターが乗っている。その周りには出荷を待つマフラーやストールを詰め込んだ段ボール箱がいつもうずたかく積み上げられている。それに、箱の上にはむき出しのマフラーやストールが置きっぱなしになって雑然としているのが常態だ。

「すみませんねえ。いつもゴチャゴチャしていて」

訪れるたびに同じ言葉を聞く。違うのは、話し手が智司社長であるか,敏夫専務であるか、程度だ。

「いえいえ、いつも忙しそうで結構なことです」

と答えながら靴を脱いで上がると、左が応接間である。畳敷きの6畳だ。もっとも、応接間になるのは来客がある時だけで、出荷する商品にアイロンをかけたり、出荷先別に商品を仕分けたりする作業室にもなる。だから、置かれている1m四方ほどの座卓は作業台を兼ねる。椅子はない。

その松井ニット技研をA近代美術館の一行が訪れたのは、電話から1週間ほどたった日の午後のことである。50歳前後の上品なアメリカ人女性が、自分はA近代美術館のバイヤー(購買担当)だと自己紹介した。その美術館のデザイナーだという20代の美しい女性も一緒で、電話をしてきた日本人のエージェント兼通訳が付き添っていた。

訪れたアメリカ人女性2人は勧められた座布団を敷き、座卓の下に足を長々と伸ばして座った。2人にとっては初めての訪問先である。日本人ならかなりの不作法な座り方だ。だが、アメリカからの賓客は日本式の、畳の暮らしには慣れていないのだろう。
智司社長、敏夫専務の2人は日本人である。きちんと正座しながら話しかけた。

「ところで、どういうご用件で当社へいらっしゃったのですか?」

A近代美術館とのお付き合いが始まった。

写真:松井ニット技研は本町通りから少し引っ込んだところにある。

その3 ワンダフル!

智司社長の奥さんが入れたお茶を前に、訪れた3人の話はA近代美術館の説明から始まった。智司社長、敏夫専務の記憶によると、こんな話だった。

1929年に開館したA近代美術館は、近代芸術を世界中から幅広く集めて展示しています。「美」を生み出すのは、芸術家と呼ばれている人たちだけではない、と私たちは早くから考えました。その方針に従い、それまで美術館が収蔵するものとは考えられていなかった建築、ポスター、写真、映画などの収集も進め、企画展示や上映会を続けてきています。

「美」は世界中で日常的に創り出されていて、その中に商品デザインがあります。日用品として多くの陳列棚に並んでいる商品にもハッと目を引かれてしまう美しいものがたくさんあります。デザイナーが自分の美意識を精一杯注ぎ込んだ、近代美術と呼んでも何の違和感もないものが存在しているのです。こうした「美」が私たちの暮らしの中に溢れ、溶け込むようになれば、私たちの暮らしはもっと豊かで楽しいものになるはずです。A近代美術館はそう考え、世界中の商品から、これは近代美術であると私たちが選び出したものを美術館独自の販売店で販売し、近代美術の普及に努めています。私は、その部門の購買担当なのです。

そこまでの説明を終えると、彼女の目が2人に向いた。

「東京での展示会で松井ニット技研のマフラーを見せてもらいました。Wonderful! とても素晴らしい。私は一目で惹きつけられました。松井ニットのマフラーは美術品です。私たちはこのマフラーを私たちの販売店で扱いたいと思います。そこで、なのですが、A近代美術館ブランドのマフラーを作っていただけませんか? 今日はそのお願いをするために桐生までやってきました」

通訳を通じて話を聞いた2人は虚を突かれた。マフラーを美術館で売る、だって?
マフラーは寒さを防ぐ実用品である。壁や棚に飾ったり、時折取り出して鑑賞したりする美術品、装飾品ではない。オシャレな、思わず手に取って首の回りを飾りたくなるマフラーを生み出したいとデザインや製造に力を入れてきたことは確かだ。しかし、実用品であるマフラーの売り場はデパートや衣料品店にしかないだろう、としか考えてこなかった。

美術館でマフラーを売る、だって? マフラーにそんな販売ルートがあるのか? 考えたこともない。

写真:松井ニット技研の座敷。

その4  編み方

戸惑っている2人に、彼女は言葉を継いだ。

「まず、いまお手元にある松井ニットのマフラーを全て見せてください」

2人はいわれるままに、全ての在庫のサンプルを座卓の上に並べた。全て、とはいっても、当時の松井ニットはOEMメーカー(取引先の注文に応じて、言われたままのものを作って納める)でしかなった。全てを集めても、たかだか10数点しかない。

彼女は座卓に並んだ10数点を手にとって見始めた。手でなでる、引っ張って伸ばす、目に近づけて編み目を確認する。
やがて口を開いた。

「やっぱり、これは素晴らしい!」

彼女がとりわけ気に入ったらしいのは、カラフルなブロック・チェックのウールマフラーだった。ほう、アメリカ人は、A近代美術館のバイヤーはこんな柄が好みに合うのか。それとも色の組み合わせがお気に召したのか? あれは発注先のデザインに、こちらで多少手を加えたものだったな。

だが彼女は予想もしなかったことをいった。

(これは当時のマフラーではありません)

「この編み方が素晴らしいですね。実に柔らかく、肌に優しい。加えて、房の部分の作り方がいい。マフラーの本体部分と自然に繋がっています。こんなマフラーを私たちの美術館の販売店で是非売りたいと思います。ご賛同いただけたら、すぐにニューヨークの本部に持ち帰って提案します。私が推します。きっと同意を取り付けてみせます。一緒に素晴らしいマフラーを作ろうではないですか!」

松井ニットのマフラーが肌に優しいのは、編む速度が遅い昭和30年前後につくられた古い編み機を使い続けているからだ。その後編み機はどんどん高速化し、生産効率は上がった。他社が次々に新型機を導入するのを横目に見ながら、でも智司社長は新しい編み機に取り替える気にはならなかった。高速で編むと、編む際に糸が引っ張られすぎ、編み上がりが固くなって肌触りが悪く、質感が劣る。他社の製品を手にとって、そう判断した。だから、古くなって取り替え用の部品がなくなっても、たった一つの部品を特別に注文したり、独自に工夫して改造したりしながら古い編み機を大事に使い続けているのである。気温や湿度で変わる糸の張り具合を調整するのは、丸めて糸にぶら下げた電気コードの重りとパンツのゴムだ。いろいろ試したが、これが一番具合がいい。

「だから、ああ、私の思いを分かってくれる人がいた、って嬉しくなりました」

智司社長は初めてA近代美術館の購買担当者と会った日のことを、そんな風に記憶している。

写真:ラッセル編み機に取り付けたパンツのゴム。

その5 三段切り替え

購買担当の女性が気に入ってくれた2つ目の点、房の作り方は智司社長が工夫に工夫を重ねて生み出したところだった。

マフラーは、首に巻く本体部分と、両端を飾る房の部分を別々に編み、あとで縫い合わせるのが普通の作り方である。だが、松井ニット技研のマフラーに付いている房は、松井ニット独自の作り方をしている。

織物の町として栄えた桐生を支えたのは、よりよいものを生み出そうという職人たちの創意工夫の積み重ねだった。水力を使い、同時に数多くの糸に撚りをかける八丁撚糸機は、桐生で発明されたと伝わる。最高級の絹織物といわれるお召しも桐生生まれだ。11代将軍徳川家斉が好んで「お召しになった」ことからお召しの名がついたといわれる。
近年、桐生の織物業が奮わないのは国内で和服離れが進み、洋服生地の生産地もコストが安いアジア諸国に移ったという時代の流れもあるだろう。だが、産地である桐生には何の落ち度もなかったのか? 桐生から創意工夫積み重ねが途絶えかけているのも一因ではないか?

智司社長には最盛期の古き良き桐生の職人魂が生き続けているのかも知れない。他と同じものをつくって何が面白い? もうひと工夫ができないか? 智司社長は常にそう考え続けている人である。

ふとひらめいたのは、マフラー本体と一緒に、房の部分も編んでしまうことだった。最終的に房になる部分は、織物でいえば横糸をなくして縦糸だけにする。編み上がれば、房用に編み上げてすだれのようになっているところを真ん中から切断すれば房がついたマフラーになる。こうすれば、一度に何本ものマフラーを編み上げることができる。
これまでの作り方に比べればはるかに合理化できるではないか。それに、一緒に編むのだから、本体と房が完全に一体になってデザイン上もよい。

「思いつてから、それができるようにラッセル編み機をカスタマイズしまして。はい、自分でやりました。私、子どもの頃から工場で遊ぶのが好きで、いつも編み機を眺めていました。だから編み機の動き方、制御の仕方に子どもの頃から親しんでいて、機械のことが少し分かるんです。編み機のカスタマイズは私の趣味みたいなものかも知れません。編み物工場って零細企業が多いし、編み物は分かっても機械が分かる人はほとんどいない。だから機械をカスタマイズしようとしてもお金がかかるんで、思いつても誰もやらないんです。それを自分でやってしまう私は凝り性なんでしょうかねえ」

色を切り替えて格子柄に編むのを「二段切り替え」という。編み物工場ならどこでも出来ることだ。智司社長が実用化していたのは、さらに途中で編み方を変えて房になる部分を一緒に編んでしまう「三段切り替え」とでも呼べる編み方だった。色を切り替え、編み物から房に切り替える。編み物ではほとんど見ない技法である。

写真:房も一緒に編むマフラーはドラムで巻き取る。

その6 職人魂

話を少し脇道に振る。

凝り性でない職人は大成しない。いくら伝統の技を完璧に身につけ、名人と讃えられた先人の作と見分けがつかないものを作ることが出来ても、その職人は名人にはなれない。名人とは、常に

「もっといいものを。昨日よりちょっとでも優れたものを」

と努力を重ね、先に進み続ける人のことだ。

智司社長は

「もう少しいいマフラーが出来ないものですかね。このままだと発注を打ち切らざるを得ない」

と注文主に脅されて編み機の改良を重ねてきたのではない。注文主は松井ニットが編むマフラーに満足し、翌年以降も発注を繰り返していた。

仕事の手が空くと編み機をいじっていたのは、智司社長自身が満足できなかったからだ。それでも改良の手を緩めなかったのは

「何かが足りない。もう一工夫できれば、もっといいマフラーが出来るはずだ」

という強迫観念に近い思いに駆られ続けているからだ。だから、注文主の言うとおりにマフラーを編んで納入するOEMメーカーの時から、編み機の改良を続けているのである。

まだ満足の域には達していないものの、それでも自分が作るマフラーには絶対の自信がある。編み機をカスタマイズしている編み物工場は、知る限り他にない。自分で編み機に手を加えられる経営者はほとんどいないし、中小零細が多い編み物工場には専門家に頼む資金的なゆとりはないからだ。

加えて、編み方も素材も、何度も見直して思いつく限り最高のレベルにある。他に負けるはずがない。

編み物や織物の会社は、毎年何度も商品展示会に出る。この場で新しい客を開拓するのである。

ところが、それぞれの最新の技術を注ぎ込んだ製品を出す会社は数えるほどしかない。コピーを恐れるのである。

「織物なんて、3㎝四方ぐらいの端切れがあれば、見た目も手触りも全く変わらないものが3ヶ月もすれば店頭に並ぶ世界ですから」

と関係者はいう。企業秘密が漏れるのを防ぐため、最新のものが多くの人の目に触れるのを避け、信用出来る取引先にだけこっそり見せるのである。

だが、智司社長はこともなげにいう。

「私は一番新しいマフラーを出し続けています。コピー? 出来るんならやってみろ、ですよ。うちの工場で編むマフラーは、一朝一夕で真似が出来るような中途半端なものではありませんから」