指先に宿る技 石原好子さんの3

【通す】
よじり作業は終わった。だが、石原さんの仕事はまだまだ終わらない。

繋がれて横にピンと張った糸の下を覗くと、垂れ下がった糸が見える。繋ぎ目がほどけて垂れ下がっているのではない。この日繋いでいた新しい経糸は極めて細く、ほんの少しの力でプツリと切れてしまう。石原さんの作業ミスではないが、ここも繋いでやらないと機織りは出来ない。
切れた糸を丁寧に拾い上げ、石原さんはクルリクルリと左手の3本の指を滑らせながら繋ぎ続ける。

石原さんの仕事はまだ続く。新しい経糸を筬の隙間を通すまでがよじり屋の仕事なのだ。繋ぎ目がほどけないよう巻き取りビームを少しずつ動かして行く。繋ぎ目の瘤が、少しずつ移動し始めた。

実は、筬の隙間を通り越すまでに、繋ぎ目の瘤は3つの障害をクリアする障害物競争に参加させられる。

最初の障害は、ドロッパーと呼ばれる逆U字形の金属片である。経糸にぶら下げられ、糸が切れると下に落ちて織機の電源を落として動きを止める役割がある。織り傷を作らないための大切な装置だ。わずか1.5mほどの幅に9800本の糸が並んでいるから、ドロッパーは糸とほぼ並行になって9800枚下がっている。経糸はこのドロッパーのU字孔をUという字と平行に通ることになる。繋ぎ目の瘤もここを通り過ぎなければならない。

次は綜絖である。経糸を上下に分けるため、経糸が通る小さな穴が空けられた金属棒だ。繋ぎ目はこの穴を通らねばならない。

最後に、0.何㎜という狭い隙間が櫛の眼のように並んだ筬である。

どれもこれも、よじられただけの繋ぎ目にとっては難所である。下手に力を入れて巻き取ろうとすれば、引っかかって外れたり切れたりしかねない。

(石原さんは工場長の手伝いを求めた)

石原さんは工場長に助けを求めた。一人では出来ない工程なのだろう。

「少し回して」

1列に並んだ繋ぎ目がドロッパーの直前まで進んだ。石原さんと工場長は何度も糸を押さえてしごいた。ドロッパー全体を、バラバラ、という感じで左右に動かし、揺すった回数は数え切れない。糸同士が絡み合ってドロッパーで切断されるのを避けるためである。

指先に宿る技 石原好子さんの2

実は、経糸同士を繋ぐタイイング・マシンもある。この世界でも省力化、機械化は進んでいるのである。だが機屋さんによると、繋ごうとする糸の太さや種類が違ったり、左撚りと右撚の糸を繋ごうとしたりすると機械は頻繁にミスをする。繋いだはずが繋がっておらず、機械が動きを止めた後で点検すると、数百本、時には数千本の糸が繋がれないまま下に垂れ下がっていることもある。そのままでは新しい経糸を巻き取り用ビームに巻き取れないから、人が下に潜って1本ずつで繋ぐ羽目になる。

これまで人類は様々な労働を機械化してきた。いまは人間の脳に取って代わるコンピューターの開発に研究者はしのぎを削る。チェスや囲碁で人間を打ち負かすコンピューターが登場した。自動運転の技術の開発が進み、人に代わって車を操作するコンピューター技術として、コンピューターが人と同じように自分で学習するディープラーニング(機械学習、ともいう)が注目される時代である。機械は人間に挑戦し続ける。

確かに、計算の速さ、記憶の量、記憶の正確さ。どれをとってもコンピューターは人を追い越した。しかし、小説が書けるコンピューターがいまだに登場しないように、職人さんの技を凌駕する機械はなかなか生まれないのである。まったく同じものを正確に作り続ける機械はいくつもあるが、1つ1つ違った「味」を醸し出して人を惹きつける物を産み出す機械はない。作業中のちょっとした状況変化のすべてに機敏に対応して乗り越える機械もない。機械はまだ、「馬鹿の1つ覚え」の作業しか出来ないといってもいいすぎではない。

指先に宿る技 石原好子さんの1

(石原好子さん)

【よじり】
ピンと張った経糸(たていと)を綜絖(そうこう)で上下に分け、その間に緯糸(よこいと)を通して布にするのが織機である。だから布を織る準備は、経糸を張ることから始まる。
機を織るには数千本から2万本を超す経糸を使う。だから。簡単に「張る」といっても簡単ではない。整経(経糸を揃える工程)を終えて大きなビーム(円筒)に巻かれたそれほどの数の糸を1本ずつ、綜絖の穴、筬(おさ=緯糸を手前に締める装置)の隙間を通して巻き取り用のビームに繋ぐのだ。この作業が一苦労であることは容易にご想像いただけると思う。
使い始めの新しい織機なら、どうしても一度はその作業をしなければならない。しかし、多くの機屋さんには使い慣れた織機が並んでいる。それなら、すでに織り上がった布に使った経糸はまだ織機に張ってある。この糸に、これから使う経糸を繋いで巻き取り用のビームに巻き取れば手間がかなり省ける。この作業を「つなぎ」という。
糸同士を繋ぐ手法は地方、あるいは職人さんによって違うようだ。坊主結びにする人もあるが、石原好子さんは親指と人差し指、中指でよじって繋ぐ。この作業を「よじり」と呼んでいる。接着剤は使わない。歯磨き粉のわずかな粘り気だけを頼りに、数千本、2万数千本の糸をよじって繋ぐのが石原さんの技である。

【スーパーライオン】
桐生市内の機屋さんで、石原さんの「よじり」作業に半日お付き合いした。石原さんは1台の織機の、新しい経糸が巻かれたビームと綜絖の間に椅子を置き、盛んに両手を動かしていた。一番遠くの糸から繋ぎ始め、少しずつ後ろに下がって繋ぎ続ける。

右側手の新しい経糸、左側の使い終わった経糸はそれぞれ、数百本ずつまとめられ、軽く縛ってある。この左右の束から並び順に1本ずつ糸を取り出し、左手の親指と人差し指、中指を使ってくるりとよじって繋ぐ。

「私、左手専門なんだよね」

その左手の親指と人差し指は、指紋がほとんど見えない。60年近いよじり作業ですり減ってしまった。膝の上には使い切った化粧クリームのケースに入った歯磨き粉が置かれている。水で溶いたペースト状で、これをよじりに使う2本の指につける。この歯磨き粉をまぶした3本の指でよじると、2本の糸がみごとに絡み合い、繋がってしまう。石原さんの両手は休まず動き続ける。

はじめに

「松井ニット物語」は昨日(2021年8月23日)まで、松井ニット技研のホームページに掲載されていました。

松井ニット技研は何度もテレビ、新聞で取り上げられたのでご存知の方も多いと思います。松ニット技研が産み出し続ける色彩あざやかなマフラーやストールの数々は、人の目の強く惹きつけながら、決して下品に陥ることなく、みごとな色のハーモニーを奏でます。現代の「美」を追究することを宿命づけられた織都桐生のシンボルと言っても言いすぎではありません。

ところが、2020年12月25日、松井ニット技研の中核だった松井智司社長が身罷られました。享年82歳。智司社長は、経営者であり、独自の工夫でラッセル編み機を操る職人であるだけでなく、「日本のミッソーニ」とも称された色彩のデザイナーでした。ユーザーに愛され続けた数多くのマフラーは智司社長の優れたセンスなしには生まれませんでした。筆者が深く敬愛した人で、早すぎる死が悼まれてなりません。

大黒柱であった智司社長を失った松井ニット技研は事業の縮小を余儀なくされ、その一環として、「松井ニット物語」をホームページから削除する決断をされました。やむを得ざる決断でしょう。

実は、「松井ニット物語」を智司社長に頼まれて書いたのは筆者です。

「これからはストーリーでモノを売る時代です」

というのが、常に経営に前向きに取り組まれた智司社長の依頼の弁でした。そのために、松井ニットのストーリーを書いて欲しい。喜んで引き受けさせていただき、毎週のようにインタビューを繰り返して執筆しました。

しかし、『松井ニット物語』が消え去るのは惜しい、と筆者が考えたのは、自分の原稿への愛着だけが理由ではありません。智司社長を亡くしたとはいえ、松井ニット技研のマフラーやストールが桐生でデザインされ、編まれ、世界中で愛されたことは桐生の誇りです。であれば、「きりゅう自慢」の1つとして、このページに移し、これからも皆様に読んでいただいた方がいいのではないか?

アンカーの川口貴志社長はかつて、

「『きりゅう自慢』に松井ニットさんを取り上げていただきたい」

とおっしゃったことがあります。しかし、筆者はすでに「松井ニット物語」を書き進めていたため、

「同じ話を2つにかき分けるのは難しい。いずれ試みるかも知れないが、今はかんべんして欲しい」

とお断りしました。その経緯もあり、今回川口社長に、

「『きりゅう自慢』に『松井ニット物語』をそのまま移したい」

とお願いしたところ、たいへん有難く、誇りに感じますと、二つ返事で快諾をいただきました。

その旨を、智司社長の後を継がれた松井敏夫社長にお話ししたところ、たいそう喜んでいただきました。

以上の経緯で、2021年8月24日、「松井ニット物語」全編をここで公開します。

ほかの「きりゅう自慢」同様、ご愛読いただけるようお願いします。

その1 かかってきた電話

「松井ニット技研様でしょうか。突然お電話して失礼します。実はお願いがあってお電話を差し上げているのですが、いまよろしいでしょうか?」

松井智司社長、敏夫専務の記憶によると、桐生市本町4丁目の松井ニット技研の事務室で電話が鳴りだしたのは、確か1999年11月のことだった。電話を取り上げたのは敏夫専務である。

「はい、どういうご用件でしょうか?」

電話から流れてきたのは聞き慣れない女性の声だった。時間は大丈夫だと伝えると、女性は説明を始めた。
彼女は、アメリカ・ニューヨークで近代美術を集める世界的な美術館の日本でのエージェントだった。聞けば誰でも分かる著名な美術館だが、松井ニットは契約に縛られてその名を明かすことは出来ない。ここではA近代美術館としておく。

そのA近代美術館の購買担当者が松井ニットを訪ねたいと希望しているという。

松井ニットはマフラーメーカーである。使う人が喜んで首に巻いてくれるマフラーを作り続けてきたとの自負はあるが、美術、芸術を世に問うたことは一度もない。美術館の購買担当者がどうして松井ニットに関心を持つ? どう考えても分からない。しかし、訪ねて来たいというのには何か訳があるのだろう。来るものは拒まず。

「そんな世界的な美術館の方が当社にどんなご関心を持っていただいたのか分かりませんが、はい、おいでになるのは結構ですよ。お待ちしています。それで、いつになりますでしょうか?」

少し横道にそれる。
筆者が桐生に赴任したのは2009年春だった。街路には人影がほとんどない。時折道を行く人は99%高齢者である。目抜き通りである本町通り商店街には日曜日もシャッターを降ろした店が目立つ。地方都市はこんなに衰退しているのか。前任地の東京で話にだけは聞いていたが、余りの様子に

「何というところに来てしまったのか」

との思いにとらわれた。
市職員にそんな話をした。彼の生まれ故郷をくさしてしまったわけだ。いま思い返せば、かなり失礼なことである。多分、彼はムッとしただろう。

「あなた、そんなことをおっしゃいますが、こんなものが桐生で作られているのをご存じですか?」

彼が机上のパソコンで見せてくれたのが、松井ニット技研のマフラーだった。
正直、目を奪われた。そこには、これまで見たこともない色の組み合わせがあり、華やかなのにどぎつさはなく、10に近い色がみごとに調和して一つの世界をつくっている。目にしただけで気分まで明るくなりそうだ。首に巻いたらさぞかし楽しかろう。妻にはこの色を。娘2に人にはこれとあれ。長男の嫁にはどれにしようか。
私は身につけるものに余りこだわらない。マフラーを首に巻いた記憶はほとんどない。そんな私に、

「いますぐ欲しい!」

と思わせる魅力が溢れていた。
いま筆者は、松井ニットのマフラー、春秋用のストールを7本持つ。毎年世に出るニューモデルを楽しみに待つ一人である。