その2  「遅かった」だけ

ファストファッションとは、最新の流行は取り入れながら、価格はギリギリまで抑えた衣料品である。

「同じような機能なら、安いもので充分。できればファッショナブルであってほしいが」

とは、バブル崩壊後の低迷する経済社会を生きていかねばならない消費者の知恵でもあった。

消費者が低価格を求める。アパレルメーカーはまず、国内の生産工場に納入価格の引き下げを求めた。それまでもギリギリのコストで生産していた工場は、さらなるコスト削減に追い込まれる。従業員の首を切り、家族全員で長時間労働に耐え、みなギリギリまではがんばった。それでも価格競争は止まらない。アパレルメーカーは賃金の高い日本でのモノ作りの時代は終わったといわんばかりに、先を争うように中国を中心にしたアジアに生産工場を移していった。

生産拠点をアジアに移す目的は価格の引き下げである。通貨同士の交換比率を決める為替相場はその国の経済力を反映する。経済先進国である日本の円に対し、アジア各国の通貨はずいぶん安い。円に換算すれば、現地の労働者の賃金は数分の1から数十分の1でしかない。だから輸入にかかる費用を差し引いても海外で生産する方が安くつく。そんな海外工場との生産コスト競争について行けなくなった国内工場は看板を下ろさざるを得ないところにまで追い込まれた。

「だけど、どんな時代でも、数は少ないかもしれないが、いいものがほしいというお客さんは必ずいらっしゃる。うちは、ほかではできないものを作っていたので、その影響を急には受けなかったんですが……」

と智司社長はいう。

それでも「遅かった」だけなのだ。2002年ごろから、松井ニットへの注文も目に見えて減り始めていた。去年は2割、今年は3割……。足を棒にして歩き回っても注文が取れない営業の敏夫専務は、松井ニットが置かれた環境の厳しさを肌身で感じざるを得なかった。我慢に我慢を重ねた末の泣き言だったのである。

当時、松井ニット技研には10人ほどの従業員がいた。仕事量が減り、やむなく減給をお願いした。しばらくはそれで我慢をしたが、それでも採算が合わない。とうとう3人に辞めてもらった。

「はい、辞めていただくのは優秀な人からお願いしたんです。仕事ができる人は、ほかで働き口が見つかるだろうと思って。せめてものお詫びというか……」

A近代美術館で大成功を収めながら、他方で松井ニット技研は存亡の危機に立っていた。