曲げる 松平鉄工所の3

【なぜ抜き型なのか】
お読みいただいたように、手作業が主体の松平さんの工場にも、少しずつだが便利な機械が入り、作業を楽にしてきた。私たちは誰も、作業をより楽に、より効率的に、より正確に進めるために人々が積み重ねてきた知恵と工夫の恩恵に浴している。
日本はその最先端にある、技術革新のかたまりのような国だ。昔ははさみ、ナイフなどの刃物類しか使えなかった形を抜く作業にも、いまではレーザー、ウォータージェットなどの最先端の技術がある。それなのに、なぜいまでも刃物を使う、見方によっては前近代的な抜き型が必要なのか? そして、なぜ手作りの一品ものの抜き型が重宝されるのか?

「型を抜くという作業を考えると、確かにレーザーやウォータージェットの方が便利でしょう。でも極めて便利に見える最先端の技術にも泣き所があるんです」

と松平さんはいう。

コンピューターに制御されたレーザーは、データを入力すれば正確に型を抜くことが出来る。

「でも、生地を2、3枚重ねただけならいいのですが、10枚、20枚重ねて一気に抜こうとすると、レーザーの出力を高めなければなりません。出力を高めると、レーザーは生地を焦がしてしまうのです。周りに焼け焦げの跡があるアップリケなんて商品にならないでしょ?」

ウォータージェット切断もコンピューターで制御できる。紙やゴムシート、プリント基板などの加工に幅広く使われている手法だ。これなら熱を持たないから生地が焼ける心配はないのでは?

「問題は水です。濡れた布地はカビが生える恐れがあります。それに、段ボールは抜くと同時に折れ線も入れなければならない。抜き型じゃないと出来ません。もっとも、これはうちでは作っていませんが」

松平さんは、織都桐生に相応しい布の抜き型を今日も作り続けている。

曲げる 松平鉄工所の2

(この凹型と凸型で鋼を曲げる)

【曲げる】
ベンディングマシンの機構は極めてシンプルだ。平らな作業台があり、真ん中にやはり鋼で出来た凹型と、先が尖った凸型が出ている。この凹型に平板を固定し、凸型を足で操作して凹型のくぼみの部分に押し当てて少しずつ平板を曲げていき、指定通りの型に仕上げる。最後に必要なところを溶接すれば抜き型の出来上がりである。

(ベンディングマシンの下にあるペダルで凸型を操作する)

曲げすぎたと思ったら手で伸ばし、もう一度ベンディングマシンで曲げればよい。急角度に曲げるときはバーナーで熱して柔らかくしてからベンディングマシンにかける。
どう見ても単純な作業である。だが、単純だから優しい作業であるとは限らない。中華料理の世界では、チャーハンの味で料理人の腕を測ると言われる。最もシンプルな作業が最も腕の違いを見せつけるのである。

平板の両方に刃が付いた抜き型を頼まれることがある。靴や手袋など左右があるもののパーツを1つの抜き型で切り抜く道具として使うものだ。両刃の抜き型は上も下もまったく同じ形をしていなければ、1つの抜き型で左右のパーツを作ることはできない。つまり、平板の上下の線に対し、曲げるところは正確に直角になっていなければならない。

——両刃の平板を作業台に強く押しつけて曲げてやればいいのではないですか?

「いや、人間の感覚なんて大変あてになることもあるけど、まったくあてにならないこともある。それに機械だって使っていれば狂う。正確に曲げたと思っていても、両端を溶接しようとするとずれていることがあるんですよ」

両端がずれていれば、出来上がった抜き型の上で抜いたものと下で抜いたもの形が完全に対象にはならず、誤差が出る。だから松平さんは、こんな注文が来ると曲げ作業の途中で何度も平板を凹型から外し、平台の上に一方を乗せて狂いがないかどうかを確かめる。少しでも狂いがあれば凹型や突起が狂いなく正しい位置に止まっているかどうかを調べるのである。

「ホンのちょっとの狂いならお客さんは何もいいませんが、なんか気分が悪くてね」

客ではなく、自分が納得できるものを作る。職人魂の宿るところだ。

曲げる 松平鉄工所の1

【抜き型】
1つの生地から同じ形をたくさん取るときに使う。クッキーや野菜などを同じ形に型抜きするアルミやステンレス製の器具、子供用の粘土細工で星形や花びら、葉っぱなどを作るプラスチック製の道具を思い浮かべていただければよい。
ここでいう抜き型はそれが鋼で出来ており、主に布地を型抜きするため、生地に押しつける側には鋭い刃が付いている。
金属製のワッシャーなどのように同じものを大量に抜く大工場なら、専用機が活躍する。しかし、繊維産地である桐生は多品種少量生産が特徴だ。抜く形は一品毎に異なるから専用機は無駄である。松平鉄工所はこうした桐生産地の需要に応じ、すべて手作業で抜き型を作る。頼まれる抜き型は2つと同じ形のものはなく、頼まれた形を正確に抜き出すよう仕上げられた一品ものばかりである。使う鋼の厚みが制約となり、「これ以上細かな抜き型にするのは無理」というものはあるが、型紙さえあればほとんどどんな形でも出来る。ワッペンやアップリケ、シャツの襟や袖口、新型コロナウイルスの蔓延ですっかり必需品になったマスクなどは、抜き型なしで作るのは難しい。

【鋼】
松平政憲さんは抜き型作りの専門職人である。この仕事を始めてもう50年近くになるベテランだ。
渡良瀬川沿いの自宅に併設された小さな建物が工場である。使う道具は鋼を曲げるベンディングマシン、最後の溶接に使う溶接機、きつく曲げるときに用いるアセチレンと酸素のバーナー、それに客が持ち込んだ型紙をコピーして作業用の型紙を作るコピー機程度だ。あとは材料の鋼があればいつでも仕事は出来る。だから広い工場は要らない。

シワが描き出す美 大東プリーツの3

【技を育てる】
父・健二さんはふるさと栃木県宇都宮市を出て東京の繊維問屋に勤めた。会社が桐生にプリーツ加工専門工場を作り、選ばれて新工場の長となった。サラリーマン暮らしに見切りを付けて独立、身につけたプリーツ加工技術を活かして大東プリーツを創業したのは1979年である。

プリーツ加工業は装置産業である。1台のプリーツ機で出来る柄には限りがある。だから、より多くの加工機を持つのが成功への方程式となる。

「プリーツ機1台が国産でも1000万円内外、ドイツ製になると2000万円から3000万円もします。最後の仕上げに使う真空窯も随分高価なもので、創業資金として億単位の金がかかったのではないでしょうか」

(プリーツの仕上げに使う真空窯)

創業間もない健二さんは工場での作業が一段落つくと家を飛び出して営業に走り回った。おちおち家で夕食の膳を囲む暇もないほど時間に追われる父の姿を、範泰さんはいまでもありありと思い起こすことが出来る。

ちょうどその頃範泰さんは東京の私立大学に進学した。桐生に戻るたびに忙しく働く父の姿は目にしたが、大学とは人生のオアシスの時期である。自分の青春を謳歌することに忙しく、父の仕事を顧みるゆとりはなかった。やや酷な言い方をすれば、ノーテンキな学生生活に浸りきっていた。

「そもそも、プリーツ加工なんて仕事を自分でやろうなんてまったく考えていませんでしたから」

大学1年の夏休み、帰省した範泰さんを父の命令が待っていた。岩手県水沢市(現奥州市)にあるプリーツ機のメーカーに研修に行って来い、というのである。
もともと好きではない仕事である。思い描く人生プランに、自分がプリーツ加工をしている姿はない。

「それなのに、何でこんなことを俺がやんなくちゃいけないんだ? って不満タラタラでした」

それでも、授業料と東京での生活費は父に面倒を見てもらっている。逆らっては快適な学生生活を続けることは出来ない。渋々、数週間の修行の旅に出た。

古い機械のメンテナンスを手伝わされ、合間にはプリーツ機の細かな調整の仕方をたたき込まれた。子どもの頃から機械いじりは好きだったから、少し興味が湧いてきたのは事実である。でも、父の仕事を継ごうなどとは夢にも思わなかった。だから、大学を卒業すると東京の婦人用フォーマルウエアのメーカーに就職した。毎日最新のファッションに触れ、営業に回り、それなりに実績も積み、すっかり東京に慣れ親しんだ。

シワが描き出す美 大東プリーツの2

【大東プリーツの技】
きっかけは面白半分だった。だが、プリーツ機からたまたま出てきた柄は、何年もプリーツ加工をしてきたプロの目に新鮮に映った。

「なんか面白いな、って思ったんです。見たこともない柄が出来ていたんで」

まだ熱ムラが取れていないプリーツ機が産み出した柄は、佐藤さんがコントロールしたものではない。いわば、人の手が及んでいない世界から突然出てきたものだ。このプリーツ機、いったいどんな力を秘めているんだ?
それから毎回、工場にある不要な生地を熱取りに使うようになった。何度も繰り返すうち、

「これは商品になりそうだ!」

という柄がプリーツ機から出てきた。

「この縦のプリーツに、こんな横のプリーツを組み合わせたら……」

試行錯誤が続いた。数十回も繰り返しているうちに、あの、アラベスクのようなプリーツ柄「エスニック・プリーツ」が少しずつ形になってきた。2015、6年のことである。

だが、佐藤さんは一点ものの美術品を作る芸術家ではない。量産を原則としたプリーツ加工業の経営者である。たまたまプリーツ機の加熱装置に熱ムラがある「不安定」な間に素晴らしい柄が生まれただけでは自己満足は出来ても仕事にはならない。同じ柄を安定してできるようにならないと商品には出来ないのでる。
プリーツ機が勝手に産み出した柄を、自分のコントロール下で量産しなければならない。機械任せの「不安定」を、人の手による「「安定」に変えなければならない。
加熱温度を工夫し、温度感知センサーの数値を何度も変え……。プリーツ機と夜を徹して語り合うような日々が続いた。