一徹 喜多織物工場の3

【化学少年】
喜多さんは「凝り性」である。1つのことを始めると、まるで取り憑かれたかのように熱中してしまう度合いが並外れている。

機屋の長男に産まれたから、いずれ繊維関係の仕事をするのだろうと桐生工業高校紡織科に進んだ。だが、繊維関係ではもっぱら染め屋さんの領分である化学に取り憑かれる。部活動で化学部を選ぶと代々染め屋という友人ができ、

「2人で、文化祭での研究発表用に桐生川が染色に及ぼす影響を研究しよう」

と話がまとまった。

織都桐生は全盛期。市内東部を流れる清流、桐生川には友禅流しをする染め屋さんの姿が絶えなかった。染まっては困る所に糊を置いて染める友禅染では、染め上がれば糊を洗い落とす。その作業が友禅流しである。

ちょうど1年間、1日も欠かさずに桐生川で水を汲み、分析した。

「俺どんな結論を導き出したのかはもう忘れちまったけど、あれですっかり化学が好きになってね。よし、高校を出たら東レや帝人など、化学繊維を作っている会社に入ろう、必要だったら大学にも行こう、と思い始めたんだよ」

だが、家の事情が許さなかった。喜多織物工場を創業した父・英太郎さんは人望があり、いつしか同業者たちのリーダーに担ぎ上げられて家業に割く時間がなかなか取れなくなっていた。

「卒業したら家の仕事を手伝ってくれ」

となったのも、やむを得なかった。
決して本意ではなかったが、喜多さんが志望通りに東レや帝人に入っていたら、喜多織物工場が産み出す最高級の紗織り、絽織りは存在しなかった。何が幸いするか。人生とは先が見通せないから面白い。

 【紗織り】
知り合いの機屋さんから

喜多織物工場は広幅の紗を織る。

「広幅の紗織りをやってもらえないか」

と頼まれたのは、喜多さんが30歳になろうかというころである。それまでの喜多織物工場は広幅の生地を織っていたが、紗織りはやったことがない。しかも、幅40㎝ほどの着尺ならともかく、難しさが数倍の広幅だという。
戸惑う英太郎さんに

「やってみようや」

と言ったのは喜多さんだった。広幅の紗織り。難しいといわれるが、なーに、やっている機屋さんがあるじゃないか。学校の授業で教わった記憶がある。あの教科書を引っ張り出せば何とかなるはずだ。
それまでも捌ききれないほど注文はあった。だから、あえて不慣れな紗織りを引き受ける必要はなかった。それでも、

「やってみたい」

と思ったのは、いつしか育っていた、仕事を極めたいという「凝り性」が頭をもたげたからかもしれない。

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