その13 日米繊維交渉

日本からの繊維製品輸出が米国で問題になったのは1955年からのことである。この年、アメリカは繊維製品の関税を引き下げた。すると1ドル=360円という為替の固定相場に守られて安価な日本からの綿製品がどっと流れ込んだ。これに反発したのが、日本製品にマーケットを奪われた米国の繊維業界である。突き上げられた米国政府は日本に働きかけ、1957年、両国は日米綿製品協定を結んで日本は綿製品の対米自主規制を始めた。

間もなく米国の繊維業界が矛を収めたため、当時は一過性の騒ぎと受け止められていた。その後日本の繊維が問題化することはなく、日米繊維交渉が始まる少し前の1968年、ジョンソン政権下で行われた米国繊維産業の実態調査では、米国繊維産業はかつてない成長をしており、利益率は他の製造業に比べて大きい、と結論づけていた。加えて、安い輸入繊維製品は低所得者層の暮らしを助けているとも指摘している。

消えてしまったと思われていたこの問題に再び火を点けたのは、元大統領のニクソンである。1968年の大統領選挙に共和党から立候補したニクソンは、「毛・化学繊維の輸入にまで規制の枠を広げる」という公約を掲げる。行き過ぎとも思える規制案に米国内でも批判が寄せられた。ニクソンの挑戦を受けた民主党のジョンソン大統領は自由貿易の堅持を主張した。しかし、選挙戦に勝ったのはニクソンだった。そして翌1969年1月に大統領に就任したニクソンは、間髪を入れず、5月にモーリス・ヒューバート・スタンズ商務長官を日本に派遣した。当時の愛知揆一外相と会談したスタンズ長官は、日本繊維製品の対米輸出を自主規制するよう求める。いわゆる日米繊維交渉の幕が開いた。

いま顧みても、米国の主張は根拠が曖昧だとしか言いようがない。こんなことで国内繊維産業の首を絞めるわけにはいかないと日本政府は抵抗を続けた。
だが、日本政府も抵抗しきれない事情を抱えていた。沖縄返還問題である。一刻も早く沖縄の施政権を日本に返還して欲しいという日本政府に、米政府は交換条件として繊維規制を飲むように迫ったのである。やむなしと判断した1971年、日本政府は米国の要求を受け入れた。
こうして1972年、沖縄が日本に戻った。当時の佐藤政権は「糸で縄を買った」と揶揄された。

長々と歴史の一幕を書き連ねたのは、あれほど順風満帆の経営を続けていた松井ニット技研も、日米繊維交渉の結果に大きな打撃を受けたからである。作っても作っても足りないほどだった対米輸出用のマフラーが、交渉決着からそれほど日がたたないうちにほとんどゼロになったのだ。

アメリカ向けマフラーに頼りきりだった経営は奈落の底に落ちた。10人ほどいた職人さん全員を雇用し続けるのが難しくなり、うち数人に辞めてもらった。

「本当に目も当てられないぐらいで、一時は真剣に廃業も考えました」

と智司社長はいう。

松井智司社長は地獄を覗いたのである。
しかし、考えようによっては世の中とは面白い。あのまま対米輸出が好調さを続けていたら、松井ニット技研は、納入先の意匠に従って白色のウールで目の粗い無地のマフラーを作り続けるOEMメーカーのままで終わっていたかも知れないのだから。

「対米輸出が絶好調だった10数年は我が世の春でした。私はもともと遊び大好き人間なので、あの絶好調が続いていたらきっとダメ人間になっていたでしょうね」

気を取り直した智司社長は、商社で働いていた弟の敏夫さんを呼び戻して2人3脚の経営を始める。
そして、初めてデザイナーの入り口に立つのである。

写真:佐藤栄作首相とリチャード・ニクソン米大統領(1969年11月米ホワイトハウスにて)出典/Richard Nixon Foundation HP

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