その12 小堀遠州

そう思い始めた頃、市内に新しい茶道の教場ができた。先生は表千家で、東京から通ってくるという。

友人に誘われて見学に行った。突然

「お手前をやってみて下さい」

と声がかかった。少なくとも2年間は茶道を学んだのである。その程度は身についている。教室で習った通りに進めた。すると、逐一注意を受けた。

「そうではありません。こうやるものです」

読んだ本の通りに直された。やっぱり、前の教室で学んだことは、どうやら本道ではなかったらしい。

「ここで学ぶべきだ!」

すぐに前の先生に断り、こちらに入門したのはいうまでもない。

通い始めると驚くことばかりだった。挙措動作だけではない。この先生は元仙台藩江戸家老の娘さんから茶の湯を学んだという。それだけに、道具が素晴らしかった。先生が仕切る茶会にはピンと張り詰めた空気が流れ、茶室内の道具の色や配置にもえもいわれぬ均整があった。

「やっぱり田舎の茶とは全く違う」

しばしば東京での一門の茶会にも招かれた。そのたびに、母・タケさんが着物、履き物を揃えてくれた。最高級の品ばかりだった。

智司青年はますます茶道にのめり込んだ。

それだけなら、単なる趣味、遊びの話である。
だが、智司社長は運に恵まれた人なのだろう。

頼久寺所蔵『小堀遠州像』

「この先生が小堀遠州が好きだったのがいまに繋がっていると思うのです」

千利休の茶道は、古田織部、小堀遠州と引き継がれる。「わび・さび」を尊んだ利休に比べ、遠州は「綺麗さび」とでもいえる世界を開いた。どちらも一言で言い表すことは難しいが、あくまで質素さが極まるところに美を見いだす「わび・さび」に比べ、小堀遠州の「綺麗さび」には、質素さの中にも、どこかに華やかさが隠れているといったら良かろうか。遠州の「わび・さび」には「雅」(みやび)」があったという人があり、貴族趣味があった、と表現する人もいる。

例えば利休の茶室は造るたびに狭く、小さくなり、人が出入りするにじり口も刀を差したままでは出入りできないほど狭められた。勢い、茶室の中は薄暗い。

一方、小堀遠州が設計した茶室は窓が多い。にじり口も大きくなった。部屋の中はずっと明るくなる。

確かに、利休の世界には独特の重厚さがある。それは遠州には薄いが、代わって自由さ、伸びやかさがある、と智司社長はいう。

「はい、2人目の先生のおかげで私も小堀遠州が好きになりました。物静かな中にもハッとするような華やかさがある。それが何ともいえないほどいい。いまのマフラーデザインにもそんな私の好みがどこかで生きているような気がしています。もしあの先生が利休趣味で、私もその影響を受けて利休に走っていたら、松井ニットのマフラーもいまのようにはなっていなかったんじゃないでしょうか」

その教室に通ったのは10年ほどだった。仕事が忙しくなり、いつしか足が遠のいた。

松井智司社長が大事にする茶碗。遠州風と言われる

しかし、茶道との縁は切っていない。その後も時に触れ、仲間数人でこの先生の家元で修行した茶人を桐生に招いて茶の湯を学び続けた。

いまでも智司社長は茶会を主宰する。その茶室にも小堀遠州趣味が漂っていることはいうまでもない。そして、松井ニット技研のマフラーにも遠州の香り、「雅」がどこかに漂っているのではないか?

写真:松井智司社長のお手前。

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