趣味? からくり人形師佐藤貞巳さん   第9回 遊びの虫

東京が肌に合わず足利に戻って手にした職は自動車整備工場の事務だった。

「自動車の修理がしたかったのに、人生ってなかなかうまく行かないもんだね」

だが、他に生計を立てる手段はない。我慢に我慢を重ねて鬱々としていた。足利の時計店で働いていた女性にバッタリあったのはそれから1年ほどたった頃だった。

いまは桐生の清水時計店に勤めているという彼女に、自動車の整備を覚えたいのに事務仕事をやらされていると話すと、

「そんないやな仕事なら、辞めてうちにおいでよ」

と誘ってくれた。

「宝石の担当がいなくて困っているから」

何でも宝石担当が闇商売に手を出して国税庁に摘発され、宝石の仕事を誰も出来なくなって困っているのだという。
実は佐藤さんは足利の時計店にいたとき、

「時計の修理はどうも性に合わない。宝石を勉強させて欲しい」

と店主に願い出て宝石を学んだことがある。図工が得意だった佐藤さんは、宝飾品のデザインに関心を持ったのだ。その知識が生かせる。

それに、当時の桐生は、佐藤さんの目には魅力がいっぱいだった。足利に比べて街並みが美しい。盛大な祭りがある。それに夜の町が華やかだ。特にキャバレーがたくさんあって、芸者さんまでいる。足利にいる間に何度も遊びに行った町である。

佐藤さんはこの誘いに飛びついた。

清水時計店は経営者は変わったが、桐生の商店街のほぼ中心、本町5丁目の交差点近くに今でもある。そこに佐藤さんは住み込んだ。「宝石主任」の肩書きが着いた。昭和41年(1966年)秋のことだった。

(桐生の七夕祭り)

桐生市で祇園祭、七夕祭り、花火大会などが一緒になって桐生まつりが始まったのは、佐藤さんが移り住む少し前、昭和39年(1964年)である。祭りになると各商店が店の前に出す七夕飾りのコンテストも開催され、知事賞や市長賞が出ていた。それが競争心を煽り立て、七夕飾りは年々豪華さを増していた。だが、豪華にはなっても単なる飾りである。仕掛けも何もないから、動く事なんてない。

翌昭和42年夏、佐藤さんはすっかり桐生と清水時計店になじみ、宝石の仕事も軌道に乗せていた。人生が順調に転がり始めれば、遊び心がムクムクと芽を出すのは誰しも同じだろう。かつてのガキ大将、佐藤さんの遊びの虫が目を覚ました。

(七夕飾りは派手だった)

これまでからくり人形を飾った店はない。それに、動かない人形に比べれば費用ははるかにかかるはずだ。そんな唐突な提案がすんなり通った。佐藤さんは早くも清水時計店には欠かせない戦力になっていたからに違いない。60万円という予算がポンと出た。

趣味? からくり人形師佐藤貞巳さん   第10回 ロケット

当時、宇宙が急速に身近になっていた。宇宙をまず引き寄せたのはソ連である。昭和32年(1957年)、人類初の人工衛星打ち上げに成功すると、1ヶ月後には犬を宇宙に送り込んだ。世界初の宇宙飛行士となったのは昭和36年(1961年)にボストーク1号で地球を周回したユーリ・ガガーリンである。地球に戻った彼が口にしたと言われる

「地球は青かった」

は一時、流行語になった。

宇宙開発競争は一面では軍事力の競争である。東西冷戦のさなか、宇宙空間をどちらが支配するのか。宇宙開発でソ連に遅れをとり続けたアメリカは危機感を強め、昭和36年、ソ連より先に月に人を送り込むとケネディ大統領が言明する。人類は月面に立つことが出来るのか。ソ連とアメリカの激しい競争で、日本でも宇宙への関心が高まっていた。

佐藤さんはここに目をつけた。からくりでロケットを打ち上げる。
大仕掛けだった。店の前に屋根と同じほどの高さの櫓を組む。その上に、高さ9mはあろうかという舞台を作った。そこに、地球と月がある宇宙の絵を描いた幕を掛ける。その幕の上と下に、自転車のリムを一つずつ仕掛け、ピアノ線をぐるりとかけた。これが、ロケットの軌道である。

ロケットは竹で編み、アルミホイルで外観を整え、中に小型の交流モーターを仕組んだ。モーターにはプーリーが付いており、このプーリーに先のピアノ線を巻き付ける。モーターが回ればプーリーが回転し、ピアノ線に沿ってロケット上昇するのである。ロケットのお尻には赤いランプを取り付けたから、ロケットは赤い炎を吐き出しながら宇宙に登っていくように見える。一番上まで登ったロケットはピアノ線に沿って幕の裏に入り、やがて幕の下から姿を現す。

「それでね」

と佐藤さんは語る。

「交流モーターを回すには交流電源がいる。だから、ロケットの上昇軌道の両側に裸の銅線を張って、そこに100Vの電気を流した。ほら、電車のパンタグラフみたいに、そこから電気を取るわけですよ」

良くできた仕掛けである。だが、思わぬ事件が発生した。電車でも時折見かけるが、この裸電線とロケットの電気取り入れ口が接触するところでスパークが発生し、火花が飛んだのだ。見せ物としては華やかさが増すが、危険である。

「それで、東京電力が来ちゃった。危ないから止めろ、っていうんです。『ああ、済みません。分かりました。これからは手動でロケットを動かしますから』って謝ってね」

だが、からくりにのめり込んでいる佐藤さんは、「かつて」のガキ大将から、「今」のガキ大将に戻っている。ガキ大将は滅多なことでは大人の注意を聞き入れない。

「東京電力が帰っちゃうと、またスイッチを入れて電気で動かしました。だって、お客さんが押し寄せるんですもん。凄い人だかりが出来て、『まだか、まだか』ってロケットの打ち上げを待っている。スイッチを入れるしかないでしょ?」

その年、佐藤さんのからくりは、みごとに知事賞を受賞した。賞金は5万円だった。

趣味? からくり人形師佐藤貞巳さん   第11回 売り上げトップに

それから毎年、佐藤さんは夏祭りにからくりを作り続けた。

翌年は「アラフラ海の真珠採取」だった。この年、店の前の通りにはアーケードが出来ていた。その上に透き通ったブルーのビニールで舞台を作った。この舞台に上から水を流す。すると、まるで海の中のように見える。

「アーケードのおかげで水漏れを心配しなくてもよかったからね」

フラフープを骨格にしてアコヤ貝を作り、蝶番で繋いだ。このアコヤ貝はモーター仕掛けで開閉する。貝が口を開くと中に真珠があり、開いた瞬間に中に仕組まれた電球が点灯して光を放つ。それだけでは面白くないのでマネキン人形を手に入れ、下半身を人魚にした。ピアノ線で吊された人魚は身体も腕も上下左右に動くようにしてあるから、佐藤さんが操るとまるで海中を泳いでいるように見える。

「アーケードの上だから、店の前に来ても見えない。だから反対側の歩道に人だかりが出来ていたね」

(これが「金龍銀龍」だ!)

別の年には「金龍銀龍」を出した。体長2mはあろうかという2匹の龍が身体をくねらせながら絡み合う。龍は2つの自転車のリムに取り付けられており、リムは180°動くたびにモーターの回転を逆にするスイッチング回路で制御されて

金龍は雄、銀龍は牝で、銀龍は首にネックレスを巻いてオシャレをしている。ピンポン球で作った「真珠」の首飾りである。

清水時計店の店頭に張り紙を出した。

「銀龍が首に巻いているネックレスの玉の数はいくつでしょう?」

祭りの最終日、舞台に登った佐藤さんは銀龍からネックレスを取り外し、押しかけた観衆に向かってピンポン球を1個ずつ投げた。

「1,2,3……」

運動会の玉入れのように、みんなで玉の数を数えたのである。

「玉の個数を当てた人にはもちろん賞品を用意していました。それに、ピンポン球の中にはビール券を入れておいたんです。祭りだから、みんなが楽しまなくっちゃね」

いま桐生市の人に話を聞くと、

「七夕祭りが独立していたときは、各商店が競ってからくり人形を屋根の上に上げていてね。毎年違ったからくり人形が出て楽しかったよ」

という人が結構いる。だが、佐藤さんの記憶によると、からくり人形を出していたのは前にも後にも佐藤さんのいる清水時計店だけ。佐藤さんのからくりが連続して知事賞を受賞しても真似するところすらなかった。佐藤さんのからくり人形は市民たちの記憶を変えてしまうほどのインパクトを持っていたらしい。

からくり人形はとにかく目立った。一連のからくり人形を作っている佐藤さんの知名度も上がった。だからだろう。佐藤さんの営業成績も右肩上がりで、昭和53年には、清水時計店の売り上げは北関東でトップになった。

趣味? からくり人形師佐藤貞巳さん   第12回 桐生のからくり人形

だがこの年、佐藤さんは清水時計店を辞める。宝石部部長に昇進していた佐藤さんは、この年入った税務調査につきっきりになった。それだけ宝石部門の売り上げが多く、その責任者が佐藤さんだったからだ。ところが、おかげで営業に出る時間が大幅に減ったため、それまで右肩上がりを続けていた売り上げが落ちた。

「それを社長が怒っちゃってね。『税務調査で営業に出る時間が取れなかったからだ』と説明しても、『それは言い訳だ』という。最期に、『俺のいうことを聞けないヤツは辞めろ!』って社長が言うもんだから、私は『そうか』って手を挙げちゃった。いうことを聞くも何も、向こうのいってることが無茶だからね。手を挙げて周りを見ると、誰も手を挙げていない。そんなわけで私だけ辞めちゃったんです」

理屈の通らない喧嘩はきっちり買ってやる。それが子分を取り仕切るガキ大将の心意気である。かつてのガキ大将、佐藤さんの中には、ガキ大将の健康な精神が生き続けていた。

仕事を辞めた佐藤さんは、それからしばらくプラモデル作りに熱中する。スーパーカーやトラックを組み立てては桐生厚生病院の小児病棟を訪れ、入院中の子供たちにプレゼントして励ました。
それにも飽きた半年後、佐藤さんは一匹狼の宝石商として仕事を再開した。そして、あれほど熱中したからくり人形作りを忘れた。長男が成長し、やがて佐藤さんはボーイスカウト活動にのめり込む。その熱は、長男がボーイスカウトを卒業しても冷めなかった。佐藤さんとからくり人形の間には、長い空白期間が生まれた。

第1回で少し触れたが、桐生にはからくり人形芝居が生き残っている。江戸初期、大阪に始まった竹田出雲の流れを汲むと言われ、残された記録では、明治27年(1894年)、桐生天満宮のご開帳で竹田縫之助作のからくり人形芝居が公演されたのが最も古い。竹田からくりは江戸でも人気を博していたが、文明開化の東京では廃れ、桐生が江戸の文化を引き継ぐことになった。

桐生のからくり人形を上演したのは天満宮だけではない。天満宮の鳥居前から始まる桐生の目抜き通り、本町商店街を構成する6つの町会に加え、本町通からかつての陣屋につながる横山町がからくり人形芝居で覇を競った。水車を動力源にした大がかりなからくりも出て町衆を楽しませた。

昭和36年まで6回の上演記録がある。これを見ると、演目をほぼ毎回変えるのが桐生流だ。
例えば昭和27年は

(五条大橋の牛若丸と弁慶)

「巌流島(宮本武蔵)」

「義士の討ち入り(廷内の場)」

五条橋(牛若丸)」

「助六揚屋の段」

「曽我の夜討」

(助六)

源氏物語(藤壺)」

「野崎村(お染久松)」

「鞍馬山(牛若丸)」

などで、昭和36年は

「羽衣」

「歌麿」

「大坂夏の陣(坂崎出羽守)」

(八百屋お七)

「ディズニーランド」

「曽我の夜討」

「八百屋お七」

「一本刀土俵入り」

といった具合だ。

この中の「曽我の夜討」はその前の昭和3年にも上演されており、同じ人形、演目が3回も続いたのは長い歴史の中でこれだけ。よほど人気があったらしい。

趣味? からくり人形師佐藤貞巳さん   第13回 修復作業

だが、昭和36年のご開帳が済んでしばらくすると、日本の繊維産業は衰退期に入る。

「糸で縄を買った」

と言われた日米繊維交渉(1970年)が引き金を引いたと言われる。繊維の町・桐生はもろに影響を受けた。町から活気が失われ、天満宮のご開帳でからくり人形芝居を演じる経済力が各町内になくなった。最後となった昭和36年に使われたからくり人形は各町会の蔵などに仕舞い込まれたまま、やがて存在することすら町衆の記憶から消えた。

桐生市本町4丁目の町会の蔵から古いからくり人形が見つかったのは1997年のことである。調べてみると、昭和3年(1928年)に製作されて上演され、その後昭和27年(1952年)、昭和36年(1961年)に再演されたまま蔵に仕舞い込まれていた「曽我の夜討」に使われた8体だった。

(曾我兄弟)

町衆の社交の場として大正8年(1919年)に作られた桐生倶楽部に8体は持ち込まれ、しばらく展示された。話題はメデイアに乗って広がり、東京からも人形劇の専門家らが視察に来るほどだった。だがそれ以上の盛り上がりは見られず、やがてすぐ近くにあった市郷土資料展示ホールの倉庫に仕舞い込まれた。

8体が見つかったことに人並み以上の関心を持った市民の一人が佐藤さんだった。桐生倶楽部に展示されていたときは、遠くから

「へーっ。これが桐生のからくり人形か」

と見物しただけだが、郷土資料館の倉庫に放っておかれていると聞くと、すっかり忘れていたはずのからくり人形への関心がムクムクと起き上がったのである。

郷土資料展示ホールまで出かけ、倉庫から勝手に引き出して8体の人形を点検した。これはからくり人形である。からくり人形である以上、操れなければならないはずだが、取り出した人形は動かなかった。

「ありゃあ、これ、動かないわ」

そう思ったところから佐藤さんの探求心が動き出す。動くように作ってあるのに、なぜ動かないのか。

かなり傷んでいる衣装を脱がせ、人形の本体を調べた。操る糸が切れている。ゴムが伸び切っている。見たところ、ネジもすっかり錆びている。だが、膝や腕、首など可動部を手で動かすと動く。

「これ、修理出来るかも知れない」

そう思うと、もう佐藤さんは止まらない。清水時計店で毎年からくり人形を作っていた時代にワープしてしまったようなものだ。傷みが少ないように見えた2体を勝手に自宅に持ち帰ったのである。

当時佐藤さんは、宝石商と看板屋の二足のわらじを履いていた。仕事は結構忙しかった。それでもその日から、妻の美恵子さんを巻き込んでの修復作業が始まった。