趣味? からくり人形師佐藤貞巳さん   第5回 リニアモーターカー

そのころ、テレビの取材が入った。作りかけの白瀧姫を見た取材クルーは

「これ、凄いですねえ!」

と驚いた。白瀧姫が本当に機を織っているように見えるという。人は褒め言葉に弱い。中でも佐藤さんは褒められると舞い上がる。気をよくしすぎたあまり自制心が緩み、ついつい見得を切ってしまった。

「だけど、ちゃんと機を織れなかったら白瀧姫じゃありませんよ。これから本当に機を織るように改造するんです」

まだ、からくり人形に機を織らせる仕組みは思いついていない。あ、言ってしまった、と思ったが後の祭りである。

佐藤さんは1週間ほど悩んだ。

その日も悩みながら夕食の膳につき、いつものようにテレビでニュースを見ていた。開発途上にあるリニアモーターカーの実験線が映し出されていた。巨大な車体が確かに浮き上がっている。それが動き出すとたちまちのうちに高速運転に移った。

「へー、磁石で浮き上がって走るのか。凄いな」

突然のひらめきが佐藤さんを襲ったのはその時だった。

「杼を磁石で浮かせて走らせればいいじゃないか!」

(磁石式「杼」の仕組み)

こうなると時間が惜しい。そそくさと夕食を済ませた佐藤さんは、作業部屋に飛び込んだ。いま浮かんだアイデアを一刻も早く試してみたい。

佐藤さんは、杼の一つを取り上げると前と後ろに丸い永久磁石を2つ埋め込んだ。

これで“リニアモーターカー”の車体部分は出来た。が、レールを造らねばリニアモーターカーは動いてくれない。

レールは織機に取り付けた。白瀧姫から見て筬の少し手前、経糸が上下に分かれる部分の下側に横に中空になった長いアクリルの棒を取り付け、永久磁石を2個埋め込んだ木片を入れた。この木片を両側から紐で左右に動かす。

磁石のS極とS極、N極とN極は反発し合う。この原理を使って杼を浮かび上がらせ、ボックスの中の木片を動かすことで杼を動かそうというのだ。

「うまく動いてくれ!」

木片の真上に杼を置いた。確かに浮き上がりはした。

「よし!」

と思ったが、浮き上がった杼はすぐにずれてしまう。ボックス内の木片を動かしても杼が木片を追いかけてくれない。考えてみれば当たり前で、杼が浮いたのは磁石同士が反発しあっているからである。反発している磁石はもう一方の極を探してくっつこうと動き回り、自分と同じ極を追って動くはずはない。

せっかく閃いたのに実験は失敗した。だが、ここでめげる佐藤さんではない。

「だったら、磁石同士をくっつけてやれ」

ボックス内の磁石の向きを逆にした。これで杼をくっつける。そのままボックス内の木片を動かす。

「動いた!」

ここまでくれば、もう完成したも同じだ。磁力が強すぎれば、くっつき方が強すぎて動いてくれない。弱すぎれば杼は途中で木片を追いかけなくなる。何度も繰り返して、最適な磁石を選んだ。

(「白瀧姫」の上演)

完成したのはえびす講の4、5日前である。その日は夢も見ないでぐっすり寝た。

織機は3度作り直した。杼は6個も作った。11月19日の桐生えびす講の初日、神楽殿のある広場のからくり人形小屋。白瀧姫は本当に布を織り始めた。陰に隠れて白瀧姫を操る佐藤さんの口元に、満足そうな笑みがあったのは決して不思議ではない。

趣味? からくり人形師佐藤貞巳さん   第6回 文武両道

佐藤さんは桐生の生まれではない。湯沢温泉のすぐ近く、秋田県雄勝郡羽後町で昭和19年(1944年)4月に生を受けた。11人兄弟の10番目、農家の6男坊である。

いまでも一つもダムがない雄物川がすぐ近くに流れ、毎年鮭が登ってくる。佐藤さんは小学校時代、

「最高に優秀なガキでした」

と照れもせずにいう。学校の成績は、

「音楽を除けばオール5」

が自己申告だ。勉強が出来ただけではない。学校対抗のリレーでは上級生を追い抜いてチームに優勝をもたらすほど足も速く、

「ええ、文武両道ですよ」

もっとも、「武」を轟かせたのは運動会だけではない。誰もが知る札付きのガキ大将でもあった。毎日子分を引き連れて野原を走り回り、雄物川では子分たちを手足に使って鮎や鮭、鰻を捕まえては近くの料亭に持ち込んで金に換えた。イクラをたっぷり抱いた鮭は1匹1000円、天然物の鮎は250円で引き取られた。1日の小遣いは5円、多くて10円が当たり前だった時代だ。小学生には相応しくないほどの現金収入である。

「だから、小遣いには不自由しなかったなあ」

親にスキー板をねだり、聞き入れてもらえないと一計を案じた。

「あれ、スキー板に似てるよな」

「あれ」とは、墓地に数多く建てられている卒塔婆である。そっと墓地に忍び入り、適当な長さの卒塔婆を2本引き抜いて持ち帰る。自転車のタイヤのチューブを加工して足止めを作ると坂を求めて外に飛び出した。

そんな佐藤さんが最も得意にしたのが、図画工作の時間である。父の松吉さんは絵がうまく、いろりの炭でよく馬の絵を描いてくれた。

「そんな親父の血が流れていたからかね」

という佐藤さんの図工の成績は、

「5点法で6点か7点だったよ」

というほど好きだった。
4年生か5年生の時、映画館で見た「喜びも悲しみも幾年月」にすっかり感動した佐藤さんは灯台を造ろうと思いつく。近くで鉄くずを拾い集め、高さ1メートルの灯台を仕上げてみたが、それだけは物足りない。

「灯台は光線がグルグル回らなくっちゃ面白くない」

と、いつもは鉄くずを拾い集めるのに使っていた磁石(ラジオのスピーカーから取り外した)とエナメル線をグルグル巻いた釘でモーター作った。懐中電灯のレンズを4枚用意して灯台の一番上の四方にはめ込み、モーターの力で中の電球を回す。部屋の電気を消して灯台のスイッチを入れると、みごとに灯台の灯りが360度回って本物そっくりになった。

6年生になると丸太をコツコツとくり抜き、南極観測船「宗谷」に挑んだ。子ども雑誌に掲載された写真を見ながら、全長1mの大型船に仕上げ、綺麗に塗装したのはもちろん、灯台に使ったモーターを取り外し、この「宗谷」に取り付けてスクリューを回したのはいうまでもない。

夏、余りの暑さに扇風機の自作を試みた。10mほど離れた運河で回る水車を利用しようというのである。自宅の柱に滑車を固定し、水車とロープで繋いで回転するようにした。3枚のうちわをそれぞれ120°の角度になるように固定した木片をその滑車に取り付けた。水車が回れば滑車が回り、3枚のうちわが風を送ってくれる仕組みである。

もちろんこの頃、佐藤さんは自分が後にからくり人形師になることなど夢にも思ってはいなかった。が、片鱗はこの頃から姿を現し始めていた。

趣味? からくり人形師佐藤貞巳さん   第7回 修行時代

そんなことばかりやっていたから、家で勉強したという記憶はない。それでも小学生の間は地力でトップクラスの成績を続けていたが、中学に上がるとさすがにそれでは追いつけなくなる。陸上部で短距離、三段跳びに熱中するうちに成績は下降の一途をたどった。そして卒業の時期が来た。

佐藤さんは、将来の進路を考えたことがなかった。毎日が楽しすぎて、いまを生きることに精一杯だった。客観的に見れば11人兄弟の10番目、6男坊である。家の農業を継ぐのは長兄の役割だろう。いずれ佐藤さんは家を出て、自分の力で生きなければならないのだが、そんなことなど思い浮かべたことすらなかった。

戦争中、羽後町に疎開してきていた遠い親戚の時計屋さんがいた。娘ばかりで男の子がいなかったからだろう。時計屋さんは佐藤さんを可愛がり、口癖のように

「この子が大きくなったらうちによこせ」

と繰り返していた。

佐藤さんが卒業を目の前にした頃、父が言った。

「どうだ、時計屋に弟子入りしてみるか?」

季節になると、やれ田植えだ,稲刈りだと家の手伝いを強いられた。農家では子どもも大切な労働力なのだ。が、佐藤さんはその季節になると学校でぐずぐずして家に帰るのを遅らせた。農作業が大嫌いだった。

だからだろう。最初に頭に浮かんだのは、

「家を出れば農作業をしなくて済む!」

だった。小躍りした。家を継がなくて済むのも大歓迎だ。ま、時計屋でもいいか。

「うん、俺、行くわ」

こうして15歳の佐藤少年はふるさとを離れ、その時計屋さんの店があった足利市にやって来た。足利市は桐生市の隣町である。

その時計屋さんには住み込みの職人が10人ほどいた。弱冠15歳、中学を出たばかりの佐藤少年は,当然一番下である。一番下ということは、雑用がすべて押しつけられることを意味する。店主の子どもの世話に始まり、職人たちの布団の上げ下げから風呂で先輩の背中を流すことまで、佐藤少年は雑用に追われた。

10人を超す若い衆が一つ屋根の下で四六時中顔を突き合わせる。店主に向かってはものがいえない先輩連中の不平不満、鬱屈のはけ口は、すべて新入りである佐藤少年に向かった。いじめである。佐藤さんは気が強い。いじめにあって黙って萎れているような玉ではない。売られた喧嘩は必ず買い、殴られれば殴り返す。どつかれればどつき返す。だが、多勢に無勢だ。佐藤少年には生傷が絶えなかった。

せめて高校だけは出ておこうと、4月から足利高校の定時制に通った。だが、昼間は雑用に追われ、合間合間にはいじめに遭い、定時制に向かおうとすると嫌がらせが待っていた。いつしか高校から足が遠のき、それでは、と通信教育を受け始めたが、それも長続きしなかった。最終学歴は中学卒。足利の時計屋は、佐藤少年に決して温かい場所ではなかった。

趣味? からくり人形師佐藤貞巳さん   第8回 夜逃げ

時計屋に住み込んだが、最初の1年は時計には触らせてはもらえない。置き時計の埃払いを命じられるのがせいぜいである。2年目になってやっと掛け時計の分解掃除を許された。3年目、4年目は目覚まし時計の分解である。だが、組み立ては許してもらえない。どちらも、分解してバラバラにした歯車やゼンマイを油で洗うまでの仕事である。

「佐藤君、組み立ててみろ」

といわれたのは、5年目になってやっとだった。加えて、当時の職人は仕事を教えてはくれなかった。職人の世界では技は盗むものなのだ。

「やりましたよ、真面目にね。でも、いつまでたっても私より若いヤツは入ってこないし、ずーっと一番下っ端。いじめも嫌がらせも続く。そんなだからいやになるわね。時計の分解掃除をしながら布団の上げ下げから全員の背中流しまでやるんですもん。とうとう切れちゃってね」

夜逃げした。20歳の頃である。休みの日の朝6時頃、東京・立川にいた一番上の姉のところへ布団を送り出し、自分は国鉄(いまは JR)を乗り継いで昼頃着いた。

「ところがね、時計屋の主人は私の親戚をみんな知ってる。逃げたのならあそこだろうと見当をつけて、夕方来ちゃったの。あえなく逮捕さ」

連れ帰られた佐藤さんは間もなく、再び逃亡を試みる。やはり立川にいた兄の元に転がり込もうとしたが、

「やっと着いて玄関を開けたら、いるんだよね、時計屋の主人が」

2度が2度とも、即刻の逮捕である。

「こりゃあ逃げ切れないわ」

と諦めた佐藤さんはいやいや時計職人を続けた。

「おお、あんたが○○ちゃんの婿かい?」

そんな声をかけてきたのは、時計店主の親戚だった。店主の使いで佐野まで届け物に行ったときのことだ。○○とは店主の長女である。

「えっ、俺があの娘の婿!?」

ギョッとした。そんな気はサラサラない。時計屋で働くのは,将来自分の時計店を開くためだと思っていた。それが、入り婿になってあの時計屋を継ぐ? 俺をよこせといっていたのにはそんな計画があったからか? 冗談じゃない! 俺にだって好みはある!!

限界だった。

「実は、どうしても自動車の整備をやりたくなった。申し訳ないが店を出ます」

と、今度は書き置きして出奔した。向かったのは東京である。着いて歩き回り、店の前に「整備工募集」の張り紙があった両国の整備工場に就職した。

「いい社長でね。すんなり雇ってくれて、東京は初めてだというと3日間の休みをくれた。まず東京見物をしろ、っていうわけでしょ。ところがね、東京に圧倒されちゃった。ほら、もともとが秋田の田舎の出でしょ。肌に合わないんだねえ、大都会っていうヤツが。それで、仕事も覚えないうちにそこを辞めて足利の整備工場に就職しちゃった」

3度目の正直なのか、書き置きを見て時計店主が諦めたのか、何故か追っ手は来なかった。

佐藤さんはまだ桐生にたどり着いていない。

趣味? からくり人形師佐藤貞巳さん   第9回 遊びの虫

東京が肌に合わず足利に戻って手にした職は自動車整備工場の事務だった。

「自動車の修理がしたかったのに、人生ってなかなかうまく行かないもんだね」

だが、他に生計を立てる手段はない。我慢に我慢を重ねて鬱々としていた。足利の時計店で働いていた女性にバッタリあったのはそれから1年ほどたった頃だった。

いまは桐生の清水時計店に勤めているという彼女に、自動車の整備を覚えたいのに事務仕事をやらされていると話すと、

「そんないやな仕事なら、辞めてうちにおいでよ」

と誘ってくれた。

「宝石の担当がいなくて困っているから」

何でも宝石担当が闇商売に手を出して国税庁に摘発され、宝石の仕事を誰も出来なくなって困っているのだという。
実は佐藤さんは足利の時計店にいたとき、

「時計の修理はどうも性に合わない。宝石を勉強させて欲しい」

と店主に願い出て宝石を学んだことがある。図工が得意だった佐藤さんは、宝飾品のデザインに関心を持ったのだ。その知識が生かせる。

それに、当時の桐生は、佐藤さんの目には魅力がいっぱいだった。足利に比べて街並みが美しい。盛大な祭りがある。それに夜の町が華やかだ。特にキャバレーがたくさんあって、芸者さんまでいる。足利にいる間に何度も遊びに行った町である。

佐藤さんはこの誘いに飛びついた。

清水時計店は経営者は変わったが、桐生の商店街のほぼ中心、本町5丁目の交差点近くに今でもある。そこに佐藤さんは住み込んだ。「宝石主任」の肩書きが着いた。昭和41年(1966年)秋のことだった。

(桐生の七夕祭り)

桐生市で祇園祭、七夕祭り、花火大会などが一緒になって桐生まつりが始まったのは、佐藤さんが移り住む少し前、昭和39年(1964年)である。祭りになると各商店が店の前に出す七夕飾りのコンテストも開催され、知事賞や市長賞が出ていた。それが競争心を煽り立て、七夕飾りは年々豪華さを増していた。だが、豪華にはなっても単なる飾りである。仕掛けも何もないから、動く事なんてない。

翌昭和42年夏、佐藤さんはすっかり桐生と清水時計店になじみ、宝石の仕事も軌道に乗せていた。人生が順調に転がり始めれば、遊び心がムクムクと芽を出すのは誰しも同じだろう。かつてのガキ大将、佐藤さんの遊びの虫が目を覚ました。

(七夕飾りは派手だった)

これまでからくり人形を飾った店はない。それに、動かない人形に比べれば費用ははるかにかかるはずだ。そんな唐突な提案がすんなり通った。佐藤さんは早くも清水時計店には欠かせない戦力になっていたからに違いない。60万円という予算がポンと出た。