だが、小池染色は断らない。父・喜一さんの代には
「絹なら小池だ」
と絶大な評価があった。自分の代でその評判を壊すわけにはいかない。3代目を継いだ均さんはそう心に誓って染色の業を引き継いだ。
いや、いまでも桐生市内や近郊だけでなく、浜松の絹織物の機屋さんや九州・唐津で博多献上帯を織る機屋さんから
「小池さんに染めて欲しい」
という注文が入るのだから、染めの技は立派に引き継がれているのではないか?
「いえ、まだ父の域にはとても及びません」
均さんは前橋市の照明器具メーカーで設計の仕事をしたあと、30歳を前にして家業に入った。父や工場の職人さんから仕事を学び、仕事にも自信がついて毎日が楽しくなり始めたころだった。
「小池さん、先日頼んだ絹糸は京都の呉服屋さんから頼まれた生地だったんだが、織り上げて生地を見せたら『見本で渡した色が出せんようでは、京の文化は分かってもらえまへんな』といわれまして」
そんな話を聞かせたのは市内の機屋さんだった。私の出した色が見本と違う? 京の文化が分からない? ムッとした。ムッとしながら、
「そうか、まだ強が足りないんだなあ」
と反省する心がどこかにあった。
足りなければ補うだけである。
写真:均さん(左)と父・喜一さん
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