街の灯 「PLUS+ アンカー」の話  その13 チベット

父は宅地開発を中核にした不動産会社「三英」を経営していた。それなのに家業は継がず、32歳で「アンカー」を起こしたのは、宅地の開発・分譲では自分の思う「まち」はつくれないと考えたからだ。創業から5,6年は無我夢中で突っ走った。しかし、思ったほどには、汗を流したほどには、業績がついてこない。何かの参考になればと、東京で開かれたセミナーに出てみた。

「桐生からお見えになったのですか。桐生は関東のチベットだから大変ですよね」

雑談を交わしていた講師の一言にムッとした。関東のチベットだと?

戻りの電車で落ち着きを取り戻すと、言われたことを考え始めた。外の人はそう見ているのか。なるほど、桐生には新幹線も高速道路もない。県庁は離れているし、隣はもう栃木県足利市である。いってみれば群馬県のファー・イーストだ。高齢化も人口減も先頭を切って進んでいる。黒保根と合併して日光に抜ける道はできたが、元の桐生にはほかに抜ける道がない。とどのつまりである。大手チェーンを誘致しようとしても

「群馬県でも、桐生だけは考えていません」

とにべもない答えが戻ってくることが多い。そうか、桐生はチベットか。

考えながら、持ち前の負けん気がムクムクと芽を出した。
チベット? 結構。やってやろうじゃないか!

考えてみれば、ここしばらくの間、全国の地方都市は駅前再開発、バイパス新線、郊外型ショッピングセンターを起爆剤に活力を取り戻してきた。しかし、桐生にはこの3点セットが1つもない。つまり、ほかの町の手法ではまちおこしはできない。桐生は桐生独自のやり方を見つけなければならない。

それに、まちづくりはそれぞれの土地の気候、風土、産業、歴史、人情など土地土地の条件に合わせてやらなければ成功は覚束ない。ほかでの成功例を真似していては永遠に桐生のまちづくりはできないのだ。

「幸い、私は人まねが大嫌いではないか」

なんだか気分がすっきりして桐生に戻った。

写真:稚内近郊から利尻島をのぞむ

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