その7 変化

もう少し、中学時代の智司少年を追いかけよう。暮らしに変化が訪れるからである。

いまは小学生から英語の授業が始まるが、当時は中学に入って初めて英語に触れた。教科書に並ぶabcに智司少年は戸惑った。全く理解できないのである。

小学校の頃は、勉強などしなくても何となく理解できた。算数も国語も社会も理科も暮らしの中に出てくるから、取り立てて勉強しなくても

「こんなことだろう」

と分かる。だから勉強はしないが、成績は「下」ではなく、「中の中」を保っていられた。

だが、英語となると話が違う。生家にもおばあちゃんの家にも町にも、英語は見当たらなかった。これは勉強しなければ理解が届かない。

「あのう、英語が分からないんだけど,塾に行かせてもらえませんか」

おずおずと母に申し出、塾に通い始めた。生まれて初めて

「勉強しなくちゃ」

と思ったのである。

「やってみたら、ちんぷんかんぷんだった英語が分かるんですよ。すっかり面白くなって英語が大好きになり、つられるようにほかの科目も勉強をするようになりました」

智司少年はそれまで、もっぱら「感性」を磨いてきたのだろう。この時の変化は「知性」も磨かねばならないと、智司少年が少し「大人」になったことの表れではなかったか。

成績に自信を持ち始めた智司少年は、いずれにしろ繊維の世界で生きていくことになるのだろうから、であれば京都繊維工業大学に進学したいと考え始めたのである。

第2の変化は家業に訪れた。

智司少年が小学校に入った頃、国が始めた無謀な戦争は徐々に敗色を濃くしていた。相次ぐ局地戦の敗北で船や飛行機が足りなくなり、材料に困った政府は鉄の供出を民間に強制した。織物など戦争にあまり関係がない業界が真っ先に狙われた。織機を取り上げられた「松井工場」は機屋を廃業せざるを得なくなり、「赤城発条」と社名を変えてスプリングを作り始めた。太田市にあった中島飛行機に納品する部品である。軍需産業に変身しなければ生き残れない時代だった。

小学校2年生で敗戦を迎えた。これでやっと機屋を再開できると胸を撫で降ろしたのもつかの間だった。その秋、父・實さんが倒れたのである。一家の大黒柱が病の床につき、工場の操業が止まった。母・タケさんは広沢町の実家の絹の靴下工場を見て松井工場で靴下を作り始めたがあまりうまくいかず、間もなく東京に本社があったトリコット工場に貸した。

そして昭和23年、實さんが肺炎で世を去る。松井家は火が消えたようになった。中学校を目前に、智司少年はくわえていた銀のさじを失っていた。

そして、3つ目の変化は思いもかけないところに現れた。智司少年のデザインが認められたのである。

中学の卒業アルバムのデザインが校内で公募された。公募といっても, 3年生は全員、アルバムのデザインを考えて提出せよ、というのだから、見方を変えれば強制である。

①金をかけないこと
②使いやすいこと

の2つが、課された条件だった。

絵が

「からきし下手」

を自認していた智司少年も出さざるを得ない。あれこれ考え、鶯色の表紙のアルバムを提案した。何と、それが採用されたのである。

「まさか、私のデザインが通るとはね。ほんと、予想もしていませんでした」

子どもの頃から美しさに取り囲まれて育ってきた美への感受性が初めて形になった、ともいえる。智司少年の爪が、皮膚を破ってほんの少しだけ外に出た瞬間だったのかも知れない。

それに、コストを抑え、使い勝手がよい、というのはいまの松井ニット技研のマフラーに通じる哲学でもある。

智司少年は、智司社長への道を半歩、いや100分の1歩かも知れないが、この時踏み出したのだと筆者は考える。

写真:松井智司少年デザインによる中学卒業アルバム。すっかり古ぼけてしまったが……。

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