その6 若鷹の爪

智司少年は終戦の前年、桐生市立東小学校に入学した。

あれだけのマフラーをデザインする人である。そして、繁栄を極めた桐生で和の美に取り囲まれて育ち、繊細な美感を育ててきた子どもでもある。才能の一端は幼い頃から迸り出て、

「これが子どもの絵か、と担任の教師を驚かす絵を次々と描く子どもだったに違いない」

と先回りして考える人がほとんどだろう。筆者も長い間、そう思っていた。

ところが。

「私、小学生の頃から絵がからきしダメでしてね。ほら、夏休みになると絵の宿題が出るじゃないですか。絵を描くのは下手で、だから嫌いで放っておくんです。すると、いつの間にか父が描いてくれている。それを提出すると、そりゃあ小学生の絵に大人の絵が混じっているわけですから、『いい絵だ』と展示されるわけです。それが恥ずかしくて。いまさら、『これは僕の絵ではありません』というわけにもいきませんしね。それもあって、夏休みが終わるのが大嫌いでした」

松井智司君の絵が、優れた絵として毎年教室を飾っていたのは私たちの予想の通りである。だが、違ったのは、実は本人が描いた絵ではなかったことだ。

能ある鷹は爪を隠す。だが、この頃の智司少年には隠すべき爪はまだなかった。爪がないから、見かねた親鷹が爪を貸していたわけだ。

だがいま、智司社長は鋭い爪を持つ鷹であることを私たちは知っている。遅れて生えてきたからより鋭い爪になったのかも知れない。あるいは、本人も気がつかないうちに、身体の奥深くで他に優れた爪を作る作業がゆっくりと進んでいたから外に出るのが遅れたのか。いずれにしても、いわゆる大器晩成形なのだろう。

その爪が表に現れるのはずっと先のことである。私たちは辛抱強く待たねばならない。

絵が嫌いな智司少年が好きだったのは音楽である。歌うのが得意で、

「はい、先生に指名されて教室の前に出て歌うのは、いつも私でした。それに、自分の耳で聞いて、私よりいい声だなあ、と思ったのは同学年に1人しかいませんでした」

それほどだから、歌の才能はあった。そして、才能の持ち主は褒められることでさらに才能を磨こうとする。

2年生に進級した智司少年は、学校の合唱団に入ったのである。そして放課後の練習には欠かさず参加した。

勉強は大嫌いで、だからしなかった。当然、成績は

「中の中ぐらい」

を続け、そのまま桐生市立東中学に進んだ。相変わらず、合唱クラブで喉を鍛えた。
そんな智司少年に、ほんの少しだけ変化が生まれる。

「何故か、美術の授業が好きになりまして」

いや、爪が生え始めたのではない。好きになったのは美術史である。教科書で見た「アルタミラの洞窟壁画」に、何故か強く惹かれたのだ。

「この躍動感を2万年前の人が描いたと知って,大きなショックを受けたんです」

次にギリシア建築に惹かれた。エンタシスの柱の優美さである。エジプトの絵画に惹きつけられた。ギリシャ彫刻の造形力、力強さに心を奪われた。
美術が好きだった父が集めた画集や美術雑誌を開き始めたのはこの頃のことだ。

そして、ノートを作り始めた。雑誌や新聞から、これぞと思った記事、写真を切り抜き、ファイルする。空いた場所に、授業で習ったことや思い浮かんだ文章を書き加えた。そのノートはいまでも大事にとってある。

「それまで、織物をはじめ日本の美にはゲップが出るほど触れていましたが、西洋の美は全く知らなかったんです。きっとそれでショックを受けたんですね」

だが、相変わらず絵を描くのは苦手だった。美術史との付き合いはあくまで片手間で、智司少年の情熱は相変わらず合唱に注ぎ込まれていた。

写真:小学校の修学旅行。後列右から6人目が松井智司社長。

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