ミシンの魔術師—大澤紀代美さん 第15回 解散

キム・ノヴァクから始めた肖像画は年間3、4枚のペースで縫い続けた。第3回で書いたように、日を追って注文は増え、肖像刺繍作家としての名は上がってきた。

それでも、気持ちが荒むのを止めることは出来なかった。

「多分、父との対立、だったのだと思うわ」

藤三郎さんは作家ではない。あくまで有能な経営者である。社員である娘が刺繍の肖像画を縫うことは認め、営業で売り込みもしたが、会社の利益の多くは、注文を受けて仕上げる刺繍にある。

「紀代美、肖像画ばかりにかまけてないで、取ってきた注文をさっさと仕上げろ」

何度も叱責を受けた。

「私がやりたいのは、どこにでもある刺繍じゃない。私にしかできない作品を縫いたいのよ」

言い方は変わっても中身は変わらない言い合いを何度繰り返したろう。
確かに、理は父にある。会社である以上、まず利益を出さねばならない。いつも引っ込むのは大澤さんだった。

晴れない気持ちのままミシンの前に座り、注文の刺繍を始める。嫌々だから身が入らない。時間がかかり、仕上がりもピリッとしない。

「これ、失敗作だわ。明日縫い直そう」

そう思って作業場に放り出していた刺繍を、藤三郎さんが勝手に注文主に届けるようになった。納期が来たのだろう、とは頭で理解できるが、

「あんな失敗作を客に渡すなんて」

とプライドが傷つき、憤懣がたまる。一段と気持ちが荒む。

「何だかすべてがいやになって仕事を放り出し始めたんです」

ミシンの魔術師—大澤紀代美さん 第16回 3つ目の不幸

32歳。父が亡くなり、会社がなくなり、家も土地もなくなった。大澤さんを取り巻く世の中がガラガラと音を立てて一変した。
金融機関、かつての取引先、出入りの大工から御用聞きまで、債権者は容赦なかった。先を争うように家にずかずか上がり込み、金目のものを漁った。
それが資本主義の世の中ではあるのだろう。だが、大澤さんの目には周りがハイエナばかりに見えた。

「そんなに欲しいんならくれてやる。全部持っていけ。どうせ私がつくった財産じゃないんだ。勝手にしろ!」

近くに4部屋がある2階建ての家を借り、母と2で人引っ越した。しばらくたつと母・朝子さんがボソッと言った。

「小さな家って、こんなに楽だとは思わなかったわ」

意外な言葉に、母の顔をのぞき込んだ。嘘を言っているのではない。落ちぶれた暮らしを卑下しているのでもない。顔から力みが消えた優しい表情がそこにあった。

「そうか、人の出入りで息つく暇もなかった前の家は母の戦場だったんだ」

失ったものの大きさは身にしみたが、何だかホッとした。
だが、ホッとしても一文なしである。これからどうする?
やっぱり、答えは刺繍しかなかった。私の刺繍で、腕一本で母との暮らしを支えてみせる。

なけなしの金をかき集めて横振りミシンを1台買った。翌1973年夏のことだ。日本製のGOLD QUEENだった。手入れをし、改造をし、今でも使っている愛機である。
仕事はあった。大澤さんの刺繍の腕を評価する注文主はまだまだ多かったのだ。スカジャンや打ち掛けの刺繍である。

「小さな家に越して喜んでいるとはいえ、母は庶民の暮らしを知らないんですよ。お嬢様から奥様になってそのまま生きてきた人ですから」

母・朝子さんに不自由のない暮らしをさせる。そのためには仕事のえり好みなんかしてはいられない。気が向こうが向くまいが、仕事は何でも引き受ける。
大澤さんは一心不乱にミシンと取り組み始めた。

二つも重なった不幸から自分の力で抜け出す。大澤さんはそう心に誓ったのである。刺繍を続けていけば、豊かでなくとも、母と2人の落ち着いた暮らしが取り戻すはずだった。

ミシンの魔術師—大澤紀代美さん 第17回  死のう

眼球の奥底に網膜と呼ばれる部分がある。眼球のレンズを通して入ってきた映像が像を結ぶところで、フィルムカメラのフィルム、今風のデジカメなら撮像素子に当たる部分である。網膜炎とは、網膜に不要な光が来ないように守っている色素上皮細胞に小さな穴が空き、水がしみだしてたまる病気である。フィルム、撮像素子の前に障害物が出来るわけだから、その部分だけ像が歪んだりぼやけたり、あるいは見えなくなったりする。自然に治ることが多いというが、大澤さんの場合は自然治癒しなかった。

いまでも、治療法として挙げられるのはレーザー治療である。水漏れを起こしている部分を焼き固めて穴を塞ぐ。

大澤さんはすでに自然治癒が期待できる段階を通り過ぎていたため、入退院を繰り返しながら何度かこの治療を受けた。目に麻酔をかけ、キセノンランプの強烈な光を左目に照射する。

人が一番不安を感じるのは、我が身に起きた病の原因が分からず、治療の可能性も不透明な時だろう。
目が見えなくなるかも知れない。目が見えない横振りミシンの職人ってあり得るか? あり得ない。だったら、ほかに出来ることはあるか? ない。ではどうする……。

大澤さんは落ち込んだ。不安に身を焼かれた。何しろ、自分の腕一本で母と2人生きていこうと心に決めたばかりの時期である。落ち込み方は半端ではなかった。

「お母さん、私、刺繍以外にできそうなこと、ないんだよね」

母・朝子さんにそんな話をした。

「あの話をした時はね、目が見えなくなったら自殺するから、って伝えたかったんです。私の勝手な思い込みかも知れないけど、母も私の思いは分かってくれたようでした。

死ぬ。じゃあどうやって死のうか。
多摩川の近くに住む親戚の家に遊びに行ったとき、水死体を見たことがある。

「あれ、無残ですよねえ。死んでもあんな姿にはなりたくない。だから入水自殺はやめようと」

ミシンの魔術師—大澤紀代美さん 第18回 悲母観音

右目だけは助けたい。その闘いは、さらに1年半ほど続いた。相変わらず自宅での静養、具合が悪くなれば入院、の繰り返しだった。

大澤さんにとっては視力を守り通せるか、失うかの闘いではなかった。生きていくことが出来るか、自殺するかの闘いだった。文字どおり、命をかけた闘いだったのである。
だが、そんな闘いのさなかにあっても、この人にはどうしても消せないものがあった。絵と刺繍に向けた、身体の奥底から吹き出してくる熱気である。

「最初の1年は絵を描いていました。フッと気がつくとスケッチブックを開いて鉛筆を持ってるのよ。お医者様にいわせれば、しょうがない患者だわね」

鉛筆を動かしながら、大澤さんは徐々に変わり始めた。
最初に訪れたのは、人生に対する冷めた気持ちである。

「自分の人生が決まっちゃったような気になって、そうしたら、自分や他の人が生きていることとが、何だか遠くに感じられるようになって、あれがどうだ、これがどうだ、あの人がこういった、こうした、なんてことがどうでもいいことのように思え始めたのよ」

では、遠くから眺めた自分の生とは何か?

「そう考え始めて、あ、私は刺繍に惚れてるんだな、って心の底から分かったんですよ。私には刺繍しかないんだって。病気になって、他にいい仕事、楽な仕事はないものだろうか、なんてことも考えた。母の暮らしを支えなきゃいけない、とどこかで思ってましたからね。でも、どう考えても、私には刺繍しかできないの。刺繍じゃなきゃいけないのね。刺繍がなければ私は生きていけないの。そりゃあ、周りから見れば、それまでの私にだって刺繍しかなかったわよ。でもね、ああ、私って、そんなに刺繍が好きで好きでたまらなかったんだって身体の芯から納得したのは、病気をして初めてだったんですよ」

ミシンの魔術師—大澤紀代美さん 第19回 右目は助かった!

「今になって考えると、無謀だったと思いますよ」

と大澤さんはいう。無謀とは、愛誠園の園長さんが去って1週間もしないうちに和筆を手にして下絵を描き始めたことをいう。下絵は刺繍を始める準備作業である。大澤さんはすっかり「悲母観音」と園長さんに魅せられ、刺繍をしようと心に決めたのだ。

「失明してもいいと覚悟を固めたかって? うーん、そんなことは考えなかったですね。というか、何にも考えなかった。ただ、悲母観音を縫いたい、という思いだけでした 」

いや、何も考えなかったわけではない。1972年に身罷った父・藤三郎さんが

「観音様の姿を見た」

という一言をいまわの際に残していた。

「それを思い出して、私が病と闘っているこの時期に観音様の仕事が来るなんて、何かのお導きではないか、と感じたんですよ」

大澤さんは仕事を再開した。もちろん、医師には内緒である。
刺繍をする時、下絵は描かないのが大澤流である。下絵はすべて頭の中にある。図案を示されても、その通りに縫わないのも大澤流である。大澤さんの感覚で図案は描き替えられ、仕上がりは大澤さんだけの作品になる。

「悲母観音」では、大澤さんはこのルールを捨てた。狩野芳崖への敬意のためである。あるいは、父が最後に見たという観音様を慕う思いもあったのかも知れない。

「ええ、これだけは私の絵になってはいけないと思いました。とにかく、もとの絵に忠実でなければいけないと」

作業は体調と相談しながら慎重に進めた。ミシンの前に座ったのは半年ほど後のことである。

「大丈夫なの?」

母・朝子さんが心配そうに声を掛けた。

「大丈夫よ」

自分でも大丈夫とは思えなかったが、それでも縫いたい衝動は抑えられないのだ。そう応えるしかない。それからは母も何も言わなくなった。

「きっと、この子は自分でやると思ったら何を言っても無駄だと分かっていたからでしょう。何も言わないけど、きっとハラハラしていたはずです」