小黒金物店 第3回 独立へ

 小黒さんの子どもの頃、桐生には機音が鳴り響いていた。いまはほとんど街から消え去った昔を懐かしみ、

 「ガタン、ガタン、がチャ、ガチャというリズミカルな音でねえ。あれはジャズですよ」

 という人もいる。機音を懐かしむ桐生人は多い。

 だが、小黒さんは違ったものに惹かれた。まだ市内のあちこちににあった鍛冶屋の音である。トンテントンという響きが何よりも心地よかった。下校途中にあった鍛冶屋で道草を食うのはいつものことだった。

 「僕、鍛冶屋になろう」

 思いつきが決心に固まったのが何歳の時だったか、今となっては記憶にない。だが、その思い通り、いまだに槌で鉄を鍛え続けているのだから、よほど強い思いであったろう。

 「仕事を覚えるのなら早いほうがいい。どうだ、うちに来ないか」

 多分、親に鍛冶屋へのあこがれを親に話したのだろう。新潟県燕三条市の近くで鍛冶屋をしていた親戚から話が飛び込んだ。小黒さんはまだ14歳だった。昭和20年(1945年)。戦争はまだ続いていた。小黒さんは桐生を離れ、徒弟としてその鍛冶屋に住み込んだ。

 14歳といえばまだ身体の骨格も定まらない時期だ。農作業用の鎌作りを専業としていた親戚には、仕事が降るようににやってきた。当然、幼い小黒少年も重要な働き手である。親方にいわれるままにコークスを砕き、形が整った鎌を研いで刃を付けた。半年過ぎた頃には、真っ赤を通り越してミカン色になった鉄を槌で叩いて伸ばし、鎌の形に近づけた。

 「そういやあ、鍛接も、78ヶ月の頃からやらされたね」

 刃物をざっと振り返っておこう。

 地金に固い鋼(はがね)を鍛接し、再び800℃ぐらいに熱してやると鉄は赤みを帯びたミカン色になって柔らかくなる。それを叩いて曲げたり伸ばしたりして形を整え、焼きを入れて鋼を固くする。あとは研いで刃を付ければ刃物になる。

 だが、鎌作りはもう一つ作業が必要だ。ご存じの通り、鎌の刃は微妙に曲がっている。あのカーブは機械で打ち抜いて出すのではない。鉄を熱し、柔らかいうちに槌で叩いて出すのだ。事前に用意した型に合わせて曲げていくのだが、これが難しい。まっすぐな包丁やナイフに比べ、高い職人技がいる。

 憧れた仕事である。懸命に取り組んだ。

 「地金と鋼がなかなかくっついてくれなくて。ああ、俺はうまくなんないなあ、って情けない思いをしながら槌を振っていたんだ。いま考えると、当時の鍛接材がの質があんまり良くなかったのかもしれないが」

 それでも4年目に入ると、小黒さんが一人で鍛えた鎌が売れるようになった。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です