その23  バルタサール・カルロス王子騎馬像

松井ニットとプラド美術館の信頼関係は当面揺るぎそうにない。

日本で明治維新が起きた直後の1968年11月12日、日本の明治政府とスペインは修好通商航海条約を結んで外交通商関係を樹立した。2018年はそれから150年の節目の年にあたった。

「せっかくの記念すべき年だ。何か祝うようなことことができないか」

と思いついたのは敏夫専務だった。

スペインとなると、思いつくのはプラド美術館である。いや、プラド美術館との関係が深まっていたからそう考えたのかも知れない。そして、松井ニット技研が得意とするのはマフラーである。

「そうだ、プラド美術館を代表するような絵画のイメージをマフラーに写し取れないだろうか?」

敏夫専務脳裏に浮かんだのは、プラド美術館の大広間に常設展示されている「バルタサール・カルロス王子騎馬像」だった。何度もプラド美術館を訪れている敏夫専務には、あの絵をくっきりと思い出すことができた。17世紀、スペイン王室の専属画家だったディエゴ・ロドリゲス・デ・シルバ・イ・ベラスケスがスペイン皇太子バルタサール・カルロスを描いた、縦209㎝、横173㎝の大きな絵である。

2018年2月から東京・上野の国立西洋美術館で開かれた「プラド美術館展」に出品されることも決まっていた。この絵のマフラーをつくることができればいうことはない。

そうは思っても、絵の版権はプラド美術館のものだ。勝手にこの絵のイメージを松井ニット技研のマフラーに写し取るわけにはいかない。

「プラド美術館は許してくれるだろうか?」

何しろプラド美術館は常設展示するほどこの絵を誇っている。そんな大事な絵のイメージを使うことを果たして認めてもらえるか? ダメなら諦めるしかないが……。

敏夫専務はあまり大きな期待は抱けなかった。絵画の版権はすべての美術館が大切にするものだからである。断られることを覚悟の上、ロンドンのエージェントを通じて打診してみた。2017年4月のことだった。

懸念は無用だった。打診したと思ったら、日を置かずに

「素晴らしい企画です。是非協力したい」

という嬉しい返事が届いたのである。そして8月には、美術館公認の複製画が送られてきた。至れり尽くせりの協力である。

「思った以上にうまく行きました。これまで美術館所蔵の絵画をイメージしたマフラーやショールをデザイン、製作して納めてきた実績をご評価いただいたのでしょう」

と敏夫専務はいう。

写真:カルロス王子騎馬像のイメージを写したマフラー。

その24  グッケンハイム美術館

2人でデザインを始めた。改めてこの絵を詳しく見ると、なかなか手強い相手だと分かった。マフラーに落とし込むのが難しい色調なのだ。

マフラーに使える色は180色だけである。例えば茶でも、絵と同じ茶の糸はない。違和感なく、元の絵のイメージを呼び起こしてくれる茶はどれだろう?
空はくすんだブルーが塗り込められている。一番近いブルーの糸の隣にベージュを置いたらくすみ感が出せるのではないか?
背景の山の樹木に使われている沈んだグリーンはどうする?
何度も迷った。完成までに1ヶ月の時間が必要だった。テーマさえ決まれば、普通なら1週間、長くても2週間でデザインはできてきた。この絵にかかった時間は異様に長かった。

この特別なマフラーを購入していただいた方に趣旨をお分かりいただくため、特別の化粧箱を用意した。プラド美術館の許諾を得て「バルタサール・カルロス王子騎馬像」の絵を印刷したものだ。この絵とマフラーをじっくり見比べてください。そんな思いを込めた。

ニューヨークのA近代美術館に始まった「美術館」での販売は順調である。A近代美術館はバイヤーが代わって関係が切れたが、国内の美術館だけでなく、ロンドンのコートールド美術館、そしてプラド美術館と、松井ニットに信頼を寄せる「美」の伝道者は数多い。

ある日、

「次はどこの美術館と取引したいですか?」

と、智司社長と敏夫専務に質問をぶつけた。

智司社長からすぐに返ってきた返事は

「ニューヨークのグッケンハイム美術館です」

鉱山王と呼ばれたソロモン・R・グッケンハイムが1939年に開いた近代美術専門の美術館だ。ニューヨーク近代美術館(MoMA)と並んで、現代美術の普及に貢献したといわれるが、MoMAに比べれば小さな美術館である。

そんな美術館がなぜ目標に?

「7、8年前に行ったことがあるんですが、コレクションがいいし、ショップに並んでいるものも魅力があった。でも、なによりもワシリー・カンディンスキーの絵があるんですよね」

ワシリー・カンディンスキー。第10回でご紹介したように、ミッソーニが色使いを学んだのではないかといわれる抽象画家である。パリのポンピドーセンターでそんな話を聞きながら初めてその絵に接した時、智司社長はすっかり魅せられてしまった。

始めてワシリー・カンディンスキーの絵を見た時、自分たちのマフラーがミッソーニと比較されることなど考えたこともなかったが、桐生出身で世界的なテキスタイルデザイナーだった故新井淳一氏は、松井ニットを「日本のミッソーニ」と呼んだ。面はゆい気もするが、やっぱり智司社長も同じワシリー・カンディンスキーの絵に魅せられ続けている。

グッケンハイム美術館を次の目標に掲げた智司社長には、やはりミッソーニに通じる「美」の感覚があるのではないか。筆者にはそう思える。

だったら、いっそのこと、

ミッソーニを越えろ!

筆者はそんなエールを2人に送りたい。

写真:グッゲンハイム美術館。

その1 旅立ち

松井ニット技研のデザインについて書きたい。

といっても、筆者は芸術や美学には全く縁がない野暮天である。絵画を中心とする芸術の歴史や色彩理論の流れなど全くわきまえない全くの素人にすぎない。それでも、松井ニットのマフラーからあふれ出す美しさのルーツを探ってみたいという誘惑に勝てない。松井ニットのデザインを愛でているだけでは、何かとても大事なものをどこかに置き去りにしているような気がして仕方がない。

お目にかかった日からずっとそんな気がしていて、ある日、智司社長に尋ねてみた。

「どうやったら、あんなマフラーのデザインができるんですか?」

少しばかりキョトンとしたような表情で智司社長は答えてくれた。

「いわれてみれば、どうやってるんですかねえ。私にもよく分かりません」

松井ニットの主力商品である「毛混リブマフラー」を、智司社長は染色済みのアクリル糸を使ってデザインする。使える色は180色である。この中から、おおむね8色位を選んで組み合わせる。

「いろんな色の糸をねえ、こう並べてみるんですよ。この色の隣にはどの色を持ってきたらいいか、って何度も並べ直すんですが」

たった180色と思われるかも知れないが、180色から8色の選び方は

1808=(180×179×178×177×176×175×174×173)÷(2×3×4×5×6×7×8)

=941163059102112000÷40320

=23342337775350通り。

何と23兆通り以上もある。

それに、その8色をどう並べるのか、シンメトリー(左右対称)にするのか、それともどこかでシンメトリーを破るのか、それを含めれば、数はさらに膨大になる。

こんな膨大な可能性の中からたった一つだけを選び出して組み合わせ、あなたが楽しんでいらっしゃる松井ニットのマフラーのデザインができている。

——それにしても、ただ漫然と並べるわけではないでしょう?

「それは、次のシーズンにはこんな色が流行しそうだとか、来年はこんな年になりそうだから、どんな雰囲気に仕上げるか、などと考えたりはします。でも、最終的には並べてみないことには分からないんですよ」

——並べるときに注意することは?

「例えば、テーマにする色を一つ選びますよね。次に考えるのは、この隣にどんな色を持ってきたら合うだろうか、ということです。例えばブルーの隣を黄色にしようと思います。でも、黄色といったっていろいろあります。華やかな黄色がいいのか、くすんだような黄色にするか、それとも薄い黄色を組み合わせるか。並べながら考えるわけです」

——並べてみたところで、最終的には「これだ!」と決めなければなりません。その決め手になるのは何ですか?

「うーん」

と考え込んだ智司社長は、やがてこういった。

「甘いものを知らない人には甘い食べ物を作れないように、その人の感性にないものはいくら真似をしても作れないんです。決め手は私が幼い頃から身につけてきた感性、としか表現のしようがないですね」

智司社長が幼い頃から育んできた感性。松井ニットのデザインのルーツを知るには、智司社長の人生を辿らねばならない。

次回から、智司社長と一緒にタイムスリップの旅に出る。長い旅になるだろう。あなたにも旅のお供をお願いしたい。

その2 虚弱児

まだ幕の内。新年の目出度さが残る昭和13年(1938年)1月5日、智司社長は實さん、タケさんを両親とする4人兄妹の次男として桐生市内の産院で産声を上げた。

松井家はもと鮮魚商で、明治末に機屋に転業した。「松井工場」といった。当時は銘仙機屋で、いち早く力織機を導入して生産を増やさねば注文をさばききれないほど繁栄を極めていた。その豊かな家に、年が改まった目出度さに加えて2人目の男児の誕生である。喜びに湧く松井家が目に浮かぶようだ。

※銘仙:撚りをかけない糸で織った絹布。先染めして織り上げ、表裏のない生地になる。大正から昭和にかけて、女性の普段着、おしゃれ着として普及した。

しかし、喜びが憂いに変わるのに、時間はかからなかった。

喜びに包まれて誕生した新生児は、生まれつき身体が丈夫ではなかった。風邪をひいた。下痢が止まらない。母乳を飲んでくれない……。母の背に負ぶわれての病院通いが日常の虚弱体質だったのだ。

そんなある日、医者がポツリと言った。

「この子は育たないかも知れないですねえ」

この年の日本の乳児死亡率は出生1000人に対し114.4人。10人生まれれば1人強。ちなみに、平成29年の乳児死亡率は1000人に対して1.9人にまで下がっている。わずか80年ほど前の日本は衛生環境、栄養状態、医療水準、どれをとってもいまとは比べものにならないほど劣っていた。何かの理由で虚弱に生まれついた子供たちのほとんどが、1歳の誕生日を待たずに亡くなっていたのである。

医者の一言に両親は仰天した。せっかく授かった可愛い子が、人生の喜びを知ることもなく召されていく?

「何を言うんだ、この藪医者め!」

と怒鳴りつけたかったかもしれない。だが、怒りをぶつけたところで子どもが助かるわけではない。この子のためなら何でもする。何か救う手はないか?

2人は思案を重ねた。

「最高の病院といったら、東京帝国大学の付属病院だろう。一度見て貰おうじゃないか」

そこまでやってダメなら諦めもつくじゃないか、という思いもあったのだろう。そんな思いを胸に納めて2人は動き始めた。

東京都文京区の団子坂に實さんの知り合いがいた。同業者である。そこを頼った。

「という次第で、生まれたばかりの息子を帝大の付属病院に通わせたい。下宿させてもらえないだろうか」

事情を知った知人は快く一間を空けてくれた。生まれたばかりの智司坊やは母のタケさんと2人、そこに下宿をして東大病院通いを始めた。

団子坂から病院まで、約2.5kmの距離である。母は我が子を背負って、毎日のようにこの道を祈るような思いで歩いた。

「東京に下宿していたのがどれほどの期間だったのか、どんな治療を受けたのか、そもそも私はどこが悪かったのか、そういえば聞いた記憶がないですね」

2年後の昭和15年1月7日、妹が生まれた。それから間もなく、智司坊やは桐生市広沢町の母の実家に預けられる。「松井工場」の仕事が忙しくなって母も早朝から深夜まで仕事に追われ、子守まで手が回らなくなったためだが、この頃には、まだ健康体とまではいえないものの、病院通いは必要なく、親元を離れてもいいという程度には丈夫になっていたらしい。

智司社長の生家はいまの松井ニット技研である。桐生市の中心部に位置する。それに比べれば、母の実家は田園風景が広がる郊外だった。周りは畑と田んぼばかり。近所には同年代の子も多く、豊かな自然の中で毎日走り回る日々が始まった。「もうす」と桐生で呼ぶかくれんぼ、そして山登り、キノコ狩り、鳥の捕獲……。

「いつの間にか健康になってたんですね。私がいま生きていられるのは、東大病院のおかげなのか、それとも広沢の山や畑のおかげなのか、どっちなんでしょう?」

無論、元気いっぱいに野山を走り回る智司君はまだ、自分が将来、カラフルなマフラーを生み出すデザイナーになることは知らない。

写真:幼かったころの松井智司社長

その3 藤娘

預け先の母の実家は丸帯専業の機屋だった。こちらも他に先駆けて力織機、それもジャカード織機を入れ、当時の最先端の技術で美しい帯を織っていた。

※ジャカード織機:コンピューター制御織機の先駆けともいえる自動織機。穴の空いた厚紙(紋紙、という)で引き上げる経糸を制御し、紋紙に記録されたパターン通りに織り柄を作った。

だから、こちらも飛び抜けて豊かだった。おじいちゃん、おばあちゃんにおばさんが2人、おじさんが一人の家庭で、子守を兼ねたお手伝いさんが一人同居していた。智司社長の母・タケさんははこの家の長女である。

みなオシャレだった。仕事柄もあるのだろうが、智司社長の記憶には、いつもとびきり美しい和服を着こなして動き回っていた祖母や叔母たちの姿が焼き付いている。

こういうのを猫可愛がりというのだろう。祖母や叔母は、買い物、機屋仲間との打ち合わせなど、どこに行くのにも智司君を伴った。外出となると、2人は家にいるときよりもさらに美しい着物を身につける。

「本当に美しくてね。中でも、しばらくして高崎の呉服問屋に嫁いだ上のおばさんはオシャレで、一緒に歩きながらうっとりと見つめてしまっていました」

祖母は芝居が好きで、いまの松井ニット技研からそれほど離れていないところにあった「桐座」がお気に入りだった。智司君を預かってからは、芝居見物のお供は決まって智司君だった。

「ある日、市川歌右衛門が舞台に出ましてね。ええ、女形です。舞台の天上から藤の花がいっぱい下がっていて、そこに藤の枝を肩に挿した歌右衛門が烏帽子をかぶって登場するんです。だから、あの芝居は『藤娘』だったのかなあ。綺麗なんです。舞台衣装が派手やかでしょう。そこに藤紫の花が溢れている。とにかく、綺麗で綺麗で、何ていうんでしょうねえ、そう、魂を奪われたみたいになって、もう舞台から目が離せないんです」

智司君は5歳になると生家に戻ったから、これは3、4歳の頃の記憶である。生まれて3、4年しかたっていない幼子が歌舞伎舞台の絢爛さに魅せられて我を忘れ、しかもその記憶をいまに至るまで持ち続ける。普通にあることではない。ませた子どもだったというより、人に増して「美しさ」に鋭敏な感受性を持って生まれついたのだろう。

智司社長を惹きつけたのは舞台だけではなかった。祖母に連れられて通い詰めた「桐座」には、客として芸者衆も通っていた。芸者とは流行の最先端に触れ、身にまとってお座敷で客をもてなす仕事である。それだけではない。もてなしには話題の豊富さも必要だ。彼女たちは身銭を切って教養を積み重ね、仕事に備えていた。「桐座」は彼女たちの学習の場でもあったのである。

勉強が目的とはいえ、普段着で来る芸者衆はいない。美しさも芸者衆の武器の一つである以上、たくさんの人がいる場に出る彼女たちは念入りに化粧をし、美しく着飾って妍を競った。

「桐座」の智司君は舞台からだけでなく、自分を取り囲む客席からも美しさを吸収していたのに違いない。

智司君がやがて、祖母に連れて行かれた呉服商の店頭で

「おばあちゃん、この着物、きっとおばちゃんに似合うよ」

と口にするほどの「目利き」になった。溢れるほどの美しさに取り囲まれているうちに、智司君の内側で、知らず知らずに美しさに対する独自のセンスが育っていたのだと思われる。