3種の経糸 桐生絹織の2

【留学】
牛膓さんは老舗機屋・桐生絹織の長男である。
ある人が

「あれはジャズのリズムですよ」

と表現した機音に囲まれて育った。だから、周りは皆

「いずれは4代目になる」

と期待していたはずだ。ところが本人は全くその気がなかった。大学附属の進学校に通い、

「君の成績なら歯学部に行けるぞ。どうだ?」

と先生に打診されると

「歯医者か。それもいいな」

と面接を受けた。自信満々で臨んだのだが、何故か面接に失敗する。いま振り返れば、運命の糸は家業につながっていたのだが、当時の牛膓さんはまだ気が付かない。

「歯学部に行けない? だったら日本の大学に行はやめた!」

と、高校を卒業するとすぐにオーストラリアに旅立ったのである。

大学付属の語学学校に1年。そのまま経営学部に進んだ。留学は順調に滑り出したかに見えた。それなのに、わずか2週間で退学する。

「日常会話には困らなくなっていましたが、先生が口にする専門用語が全く分からない。あ、こりゃあ駄目だ、って」

さて、どうする? 学生ビザでの入国だから働くことはできない。とはいえ、身につけたのは英会話力程度だから、おめおめと日本に帰るわけにもいかない。やむなくブラブラしているうちに知り合った日本人と、

「ここでできた人脈と英会話力を使って貿易の会社でも立ち上げようか」

と将来設計を組み立て始めた頃だった。母・キヨ子さんから突然SOSが飛び込んだのだ。

「すぐに帰国してちょうだい」

1971年、日本は繊維製品の輸出自主規制に踏み切った。当時の佐藤首相が沖縄返還交渉を有利に運ぶため、米国が求めた無理筋の要求を受け入れたのである。「糸で縄を買った」といわれた外交が日本の繊維産業を直撃した。

輸出にたがをはめられた日本の繊維産業は衰退に向かう。織都・桐生はなんとか踏みこたえようとした。それでも、桐生の繊維産業関係者は一様に

「1990年前後が曲がり角だった」

という。桐生の街から賑わいが消えた。

そして桐生絹織にも強い逆風が吹いた。悪化する一方の事業環境にも父・章さんは弱音を吐かなかった。しかし、駆けずり回る章さんの姿に心を痛めたのだろう。母・キヨ子さんが穣さんに助けを求めたのだった。

「えっ、俺が機屋になる?」

考えたこともなかった。しかし、ほかに選択肢はなかった。牛膓さんは帰国の途についた。

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