趣味? からくり人形師佐藤貞巳さん   第7回 修行時代

そんなことばかりやっていたから、家で勉強したという記憶はない。それでも小学生の間は地力でトップクラスの成績を続けていたが、中学に上がるとさすがにそれでは追いつけなくなる。陸上部で短距離、三段跳びに熱中するうちに成績は下降の一途をたどった。そして卒業の時期が来た。

佐藤さんは、将来の進路を考えたことがなかった。毎日が楽しすぎて、いまを生きることに精一杯だった。客観的に見れば11人兄弟の10番目、6男坊である。家の農業を継ぐのは長兄の役割だろう。いずれ佐藤さんは家を出て、自分の力で生きなければならないのだが、そんなことなど思い浮かべたことすらなかった。

戦争中、羽後町に疎開してきていた遠い親戚の時計屋さんがいた。娘ばかりで男の子がいなかったからだろう。時計屋さんは佐藤さんを可愛がり、口癖のように

「この子が大きくなったらうちによこせ」

と繰り返していた。

佐藤さんが卒業を目の前にした頃、父が言った。

「どうだ、時計屋に弟子入りしてみるか?」

季節になると、やれ田植えだ,稲刈りだと家の手伝いを強いられた。農家では子どもも大切な労働力なのだ。が、佐藤さんはその季節になると学校でぐずぐずして家に帰るのを遅らせた。農作業が大嫌いだった。

だからだろう。最初に頭に浮かんだのは、

「家を出れば農作業をしなくて済む!」

だった。小躍りした。家を継がなくて済むのも大歓迎だ。ま、時計屋でもいいか。

「うん、俺、行くわ」

こうして15歳の佐藤少年はふるさとを離れ、その時計屋さんの店があった足利市にやって来た。足利市は桐生市の隣町である。

その時計屋さんには住み込みの職人が10人ほどいた。弱冠15歳、中学を出たばかりの佐藤少年は,当然一番下である。一番下ということは、雑用がすべて押しつけられることを意味する。店主の子どもの世話に始まり、職人たちの布団の上げ下げから風呂で先輩の背中を流すことまで、佐藤少年は雑用に追われた。

10人を超す若い衆が一つ屋根の下で四六時中顔を突き合わせる。店主に向かってはものがいえない先輩連中の不平不満、鬱屈のはけ口は、すべて新入りである佐藤少年に向かった。いじめである。佐藤さんは気が強い。いじめにあって黙って萎れているような玉ではない。売られた喧嘩は必ず買い、殴られれば殴り返す。どつかれればどつき返す。だが、多勢に無勢だ。佐藤少年には生傷が絶えなかった。

せめて高校だけは出ておこうと、4月から足利高校の定時制に通った。だが、昼間は雑用に追われ、合間合間にはいじめに遭い、定時制に向かおうとすると嫌がらせが待っていた。いつしか高校から足が遠のき、それでは、と通信教育を受け始めたが、それも長続きしなかった。最終学歴は中学卒。足利の時計屋は、佐藤少年に決して温かい場所ではなかった。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です