花を産む さかもと園芸の話 その1 黒保根

挑戦は実を結んだ。水沼製糸所の近代的生産システムで紡がれた生糸は早くも明治8年(1875年)にロンドンとリヨンに輸出され、フランス糸には及ばないがイタリア糸に匹敵する、という高い評価を受けたのだ。生糸が最大の外貨獲得手段になる礎が出来たのである。こうした貢献があったためだろう、長太郎は明治12年(1879年)に県議会が開設されると県議に当選し、副議長に就任している。

だが、品質を良くしただけで生糸事業が軌道に乗るほど甘い時代ではなかった。日本から輸出する生糸の価格を横浜にいる外国商人が牛耳っていたからだ。安く買って高く売るのが商売の基本ではある。だが、彼らがつける価格では、日本側にはほとんど利益が出なかった。

横浜の外国商人たちの手を通さず、直接アメリカに輸出したい、と考えた長太郎は明治9年(1876年)、弟、新井領一郞をアメリカに派遣した。

領一郞は星野家の6男である。12歳で近くの新井家に養子に出た。向学心に溢れ、高崎に新設された英語学校の第1期生となり、さらに伊勢の英語学校、ついで当時最高の英語教育機関であった東京の開成学校(後に東大に編入された)に移って英語を身につけた。それだけではない。開設されて2ヶ月の商法講習所(のちの一橋大学)に入って簿記まで習得していた。英語が堪能で能力と意欲に溢れた弟を頼りにするのは、兄として自然なことだろう。

渡米時、領一郞は弱冠21歳。この時、吉田松陰の妹で、当時の群馬県玲楫取素彦の夫人美和子から吉田松陰形見の短刀を贈られた。生糸に賭けた地元の熱意を象徴する逸話である。

領一郞はみごとに使命を果たす。ニューヨークの生糸商から初めての注文を取り付けた直後、欧州で蚕病が流行り、国際的な生糸価格が80%も高騰した。しかし領一郞は受注した価格で日本産の生糸を納め、

「貴殿の正直な行為はまさに商人の鑑」

と絶大な信用を得て取引先を増やしたのである。兄弟が合わせた力はみごとにアメリカ市場の門を押し開き、ビジネスに花を咲かせた。

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