お稲荷さん信仰の歴史を調べてみた。お稲荷さんとはもともと穀物の神である。毎年の豊作を願う穀物の神が、なぜ荒れ地に縄入れした桐生新町の町立ての目印になるのか?
インターネットで調べていたら、しめ縄メーカーである折橋商店(富山県射水市)のHPにこんな記述があった。
「江戸時代になると、稲荷信仰が庶民に広まります。当時は、さまざまな地方からの武士が江戸に集まり、新たに開発された宅地に住みはじめた時期でした。その際に土地の神として稲荷神を祀り、それが屋敷神となり、大名や旗本から商人へと広まっていきます」
お稲荷さんはいつしか土地につく神としての性格も併せ持つようになったようである。そんな信仰が産声を上げた時期に、桐生新町の町立てが行われた。いってみれば、当時最新の流行に乗って、桐生新町ではお稲荷さんが境界杭の代わりを務めてもおかしくはない。
「それに」
と森村さんは言葉を継いだ。
「桐生新町町立ての責任者だった大久保長安は、代官頭として八王子に築いた陣屋に産千代稲荷神社を創建し、いまに受け継がれています。であれば、大久保長安がお稲荷さんに助けてもらおうと思っても自然ではないですか」
桐生の町立てはどのように進められたのか。それまで誰も触れようとしなかった桐生の産まれ方に、森村さんはお稲荷さんを捜し歩くことで一条の光を投げかけたのである。
森村さんは人に勧められて、お稲荷さんの調査結果をレポートにまとめた。「桐生新町の母子手帳」と名付けた。その一部をピックアップして、森村さんの調査の進め方を見よう。
私がこの研究を始めたのは、平成16年(2004年)の頃からです。
きっかけは、(本町)2丁目の玉上薬局のご主人との世間話の最中に、やけにこの辺りにはお稲荷さんが多いんですよ。何故だか調べてみませんか、の一言でした。誰も研究していないお稲荷さん、こいつは暇つぶしには最適とお受けした次第です。今にして思えばラッキーな出会いでした。
誰も研究していないということは、文献調査などでは解決できないわけで、1人で始めろということです。
先ずはお稲荷さんがどこにあるのか、所在地の調査に取り掛かりました。住宅地図を片手に、一軒一軒くまなく巡り、お稲荷さんを発見すればマーカーを地図に置き、1丁目から6丁目まで2ヶ月間調査しました。
これらの調査から
①伝承が明確な家運隆盛を願うお稲荷さん
②伝来不明・意味不明のお稲荷さん
の2種のお稲荷さんが出て来ました。
①のお稲荷さんの方は家運隆盛を願うお稲荷さんとして、先祖が祭ったということで解決しました。
問題は②のお稲荷さんです。②の古い稲荷をさらに調べると、
②—1 桐生新町の輪郭線に沿って存在するお稲荷
②—2 地割りの内側に点在するお稲荷
以上の2種類が見られます。さらに法則性が見えます。何らかの意図を見て取ることができます。
これらのお稲荷さんはいつ頃設置されたのでしょうか。それを示す資料などどこにも存在していません。所有者の方に聞いても古くからここにあるとしか答えてくれません。そこでこのように考察しました。
直線状に稲荷を配置されているということは何者かの指示が存在した。
家が建て込めば直線状に配置することは困難である。
以上のことから、これらの稲荷は、新町を作成したと同時期にまだ家が建つ前に、何者かが何らかの理由で設置したと考えました。
②—1を整理するために、新たに別の地図上に稲荷を移動しておりましたら、複数の稲荷は桐生新町の外郭に沿って等間隔に置かれていることに気が付きました。間隔は82m 即ち45間です。あたかも目印のように稲荷を置いてあるようです。この見解が正しければ、桐生新町の長さは,45間の倍数上に創られたということになります。
実は、②—1を整理するために別の地図に稲荷を移動していた時、各町内の区切りの所に立派なお稲荷様が置かれていることに気が付きました。その位置は373mごとです。150間ということになります。ですから、150×6=900となります。人々の暮らしの基準、行政区画は、6町内は等分に創られた町のようです。しかし6丁目だけは寺があるため、特別に大きく区画されその分を5丁目と4丁目が割を食う形になっているようです。
以上のことから、
桐生新町の大きさは、長さ900間、幅100間、面積9万坪
桐生新町の行政区画として150間×6町内
東京ドーム(1万4000坪)の約7個分
です。
これが桐生新町の母子手帳の1ページ目に記載された記述です。
森村さんは、森村史学の第1歩を記した。
写真:森村さんは地図に、お稲荷さんの場所を記た。見にくいかも知れないが、黄色のマーカーがお稲荷さんの場所である。