一徹 喜多織物工場の1

【糸は生き物】
喜多織物工場の入口に看板が掛かっている。

「無断出入を禁ず」

だから入口のドアはほぼ終日、閉まったままだ。

その工場の朝は水まきから始まる。170㎡ほどのコンクリートの床を、2つのジョーロから注がれる水が丁寧に濡らしていく。空気が乾燥する冬場は、1日に2度も3度も水をまく。

「糸は生きてるからねえ。たっぷり水気をやっていないと暴れちゃうんだ。入口を閉めておかないと工場内の湿度が保てなくてね」

ジョーロは工場の常備品だ。

乾燥は糸の敵である静電気を呼び寄せる。常にしっとり肌にしておかねばいい生地は織れない。
撚りが強い糸を使うのも湿度管理に気を使う理由である。1mあたり800〜1600回撚った糸は、湿度次第で撚りが戻ったり、糸が縮んだりするのである。

工場内の湿度を保とうと加湿器を使ったこともある。だが、加湿器が吐き出す霧状の水気は糸のお気に入りにはなれなかった。細かな水滴が糸にへばりつき、糸同士がくっついたり、糸が伸びたりする。

「結局ね、自然に蒸発した水が糸には一番いいんだよ。現場で糸を撫でていると、空気の乾き具合が分かるようになる。梅雨時でも『糸が水を欲しがってる』と感じると、水をまくんだ。しょっちゅう糸に触るから、ほら、指紋がほとんど消えちゃった」

喜多織物工場は絽織、紗織りの専門工場である。父・英太郎さんが始めた機屋をもじり織り専門にしたのは、2代目の喜多正人さんだ。1995年のことである。喜多さんが織り出す広幅で密度の高い紗織り、絽織りは

「ちょっと真似が出来ないなあ」

と機屋仲間で評価が高い。

紗織り、絽織りは経糸同士を「もじる」から糸同士がこすりあう回数が普通の生地よりはるかに多い。極細の糸はどうしても切れやすくなる。糸をトコトンまで可愛がり、織機も糸に優しく改造しなければ糸が切れて織り傷ができてしまう。
だから、幅40㎝ほどの着尺と呼ばれる和服向けの紗織り、絽織りを織る機屋さんはいるが、洋服に使われる幅120㎝の広幅を織る機屋さんはほとんどいない。幅が3倍になれば傷が出来るリスクは3倍、いや実感としては5、6倍にも膨れあがる。なまじっかなことでは手が出せない世界なのである。

喜多さんは120㎝の広幅しか織らない。そして、織り上がった生地に傷が出来ることはまずない。
毎朝のジョーロを使った水まきから始まる喜多さんの深い愛に、糸が愛を返してくれているのだろう。

写真:工場に立つ喜多さん

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